あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

雲流れ旅の終わりはススキなり   あきオジ

2010-09-27 05:55:10 | 日記
巾着田のやどり木のような彼岸花
木に寄生する彼岸花
ちょっとした趣向で人気スポットです。
私も真似して一枚

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どうでもよいことなのですが
芭蕉を最高の俳人と評価し崇拝する人は
一茶を低く評価するようです。
「俳句の世界」(小西甚一)を読んでいたら
やはり、そうなんだと思いました。
そんな俳人は当然のように蕪村を評価します。
そして、子規を称え
山頭火、放哉は無視する傾向にあります。
当然、金子兜太を酷評します。
面白い世界ですね。
身内世界のから騒ぎ
これって、江戸時代のままではありませんか?

お茶の世界も奇妙ですし
書道も同じようなものです。

けっこう、それで間に合っているのでしょうかね?

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次の間の灯で飯を喰う夜寒哉  一茶

(信州の家で義母との確執が続く生活の中での句だとしたら、分かりますね。農家の大きな家の中で別々に食事をしている。私小説のような世界ですね。きっと、このような個人を覆い、自然を表現することで個人を浮かび上がらせるのが、一般的な俳人の手法なのでしょうね。ですから、このような一茶の個人がむき出しにされた句は「はしたない」句になるのでしょうかね。それはそれでいいけれど、あれもあるけど、これもある。そのていどでいいじゃありませんかね。)

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栗割れて年の終わりを知らされる  あきオジ

2010-09-26 17:06:16 | 日記
巾着田への道で見つけた栗の木です。

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身にしみて大根からし秋の風  芭蕉

(ふと「俳句の世界」(小西甚一著)を読んでいたら、この句について「傑作」という文字が飛び込んできました。傑作とはこのような句のことか。そう思いました。その文に「身に沁みるからさ」と大根のからさとの「配合」云々という記事がありました。専門家はそんなことを読むのですね。私には、そんな面倒な分かったようなことを気恥かしくて言えませんね。プロはそんな読み方をするのですね。なるほど、記憶にとどめておきましょう。この解説を芭蕉が読んだら、どのようなことを言うのでしょうか。)

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どうせなら、気楽に、あれこれ楽しみながら、俳句に馴染む。
芸術など最初から期待しない。
それが今年一年の目標です。
あれこれ難しいことなど考えたり
句をいじり回さず
作るだけ

そして、一句でも多く読んで楽しむ。
しかも、読めるものだけを読む
難しい句は飛ばす。

古典の素地がないと理解できないような「お疲れさん句」は敬遠する。
妙に急進的で神経質な現代俳句はパス。

いまは、そんなことで順調です。
興味がわいたのは、一茶ですかね。
昔から持っていたイメージとはかなり違っていて
根性が悪い厚かましい人だから好きになりましたね。
芸術性とか品格などどうでもよいのです。
それから、山頭火の臭さもいいですね。
その二人を中心にして読んでいます。

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コスモスや天上の色ひらひらと  あきオジ

2010-09-26 16:51:08 | 日記
巾着田のコスモスです。
20本200円という値段が受けて
けっこう鋏を狩りて切り取っていましたね。
見ているだけでも楽しいですが
茎が弱いコスモス
家までまっすぐでいられるのでしょうか。

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自らをののしり尽きずあふむけに寝る   放哉

(このあふむけに寝るという表現がいいですね。でも、本当に切なくなると丸くなって気膝を抱えるように泣くのだろうなどと余計なことを想像していました。)

何か求むる心海へ放つ  放哉

(厳しい現実を凝視する放哉が見えますね。何とも言えない思いとうごめきを感じますね。強迫的ですが、ときに口にする句です。このような句もいいですね。ふてくされの孤独感は山頭火のそれとはまったく違いますね。)

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自分と折り合うことはたやすい
自分にはどのような嘘もいいわけも通じるのですから。

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「鬼平犯科帳」を見ていたら、駕篭が登場しました。
二人で担いで運ぶ仕事
二人で担ぐのですから
一人あての重量だって30キロ程度はあったでしょう。
それで何キロも運ぶのですから。
相当の重労働だったのでしょうね。
きっと、報酬もよかったと思ったり
単純労働だから、想像するより身入りの少ない仕事だったかもしれない。

それにしても肩に「担ぎだこ」ができていたのでしょうね。
テレビを見ながらそんなことを考えていました。


人影が長くなりし秋の暮れ  あきオジ

2010-09-26 16:20:10 | 日記
人影が懐かしいですね。
里山の風景は人にやさしいですね。
里山は自然に包まれた人間の生活が感じられていいですね。

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笠をぬぎしみじみとぬれ 山頭火

ことしは、空梅雨であった。今日の行乞は気分がふさぐから止めにして、庵中閑打坐。しかし、いつまでもこもっていると、おまんまの食いあげになるので、朝はやく起きて少し行乞する。秋吉台に近い、山口県伊佐地方を歩く。暑さの中で、ちょうどいい具合に雨が降り出した。ほっとした気分だ。霧雨から、とうとう本降りとなり、すっかりぬれてしまう。雨ならば雨を歩む。ついに笠までぬいで、しみじみと雨に打たれる。久しぶりの慈雨となる。(昭和8年)

(山頭火の日記も面白いのですが、日記というのも自分に都合のいいようにしか書かないものだということが分かって面白いですね。周囲からどのように見られているか、見られている自分を意に介さないでいる山頭火も面白いですね。)

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白い道曼殊沙華に導かれ  あきオジ

2010-09-26 06:01:50 | 日記
昔、「白い道」をイメージした時
この彼岸花が白い道に導き
そして極楽へ進んだのではないか
そんな絵柄を想像しました。

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人は自分で進むのではなく
導かれるのである。

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遠山が目玉にうつるとんぼ哉  一茶

(NHKがフォト5・7・5という番組を流しています。写真に合わせて俳句を作る。そんな番組なのですが、新しいスタイルの娯楽番組ですね。教養番組としないところがNHKの配慮です。旧態依然としたスタイルに固執する人がいっぱいいることを承知しているのでしょう。でも、とても面白い番組でときおりみます。具体的な映像を切り取って再構築するところが面白いですね。脈絡のない二つのものをぶつけ合う。その意外性が楽しいですね。その番組に登場するような絵柄ですね。芭蕉なら、決して、このような至近距離での切り取り方をしない。仮にしたとしても距離感があります。でも一茶はむき出しの感性で掴んでしまうし、絵にしてしまう。そこが面白ですね。ひょっとしてイメージが先にあり、それを句にしているのかもしれません。)

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それはそれ
それぞれの理由は、その人が創り出すもの
その人以外には理解できないとしても・・・

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苔生して老婆の味となる水車  あきオジ

2010-09-26 05:42:44 | 日記
毎年、この巾着田にくると
必ず、この水車小屋に寄ります。
ハチスが植えてあります。
伸び放題
そして、彼岸花の季節になると
彼岸花、ムラサキシキブが伸び放題
その「雑多」な、感じが好きです。

この風景には秋の勢いがあって気持ちいいです。
盛りを過ぎた終りを楽しめるほどの力が私にはありません。

整理された美しさ
切り取られた洗練
それもいいけれど

そのままの力強さにも圧倒されます。
抑え込まれた人工的なものより
凌駕される自然のほうが「直接伝わる」ものがいっぱいですね。

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影もぼそぼそ夜ふけのわたしがたべてゐる  山頭火

(一人しかいない。その啼きたいほどの淋しさの中で、食べることだけは、そんな自分とは関係ない。そんな読みとり方をすることもできます。山頭火の「悲しい」「一人ぼっち」には「とりあえず」というようなものが括られるているように思われます。逃げ場所を知っているし、言いわけを知っている。その手練手管にも自信があるのですね。「とりあえず酒を止めよう」と思いながらも、その手の入れ方、無心のしかたも知っているし、いいわけまでも身についている。そのように思えます。逃げ出しても、逃げ込む場所に向かっているし、大きな循環に入ることを無意識の中に「織り込まれている」のですね。)

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「お吟さま」(熊井 啓監督)を見ました。
信仰の時代があったことを感じましたね。

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突っ込みし如露で咲きし藤袴  あきオジ

2010-09-26 05:24:36 | 日記
いせの国中村という所にて

秋の風伊勢の墓原猶(なお)すごし  芭蕉

(伊勢の墓原というのが、どのような土地でるか知れば、もっと深いところで内容を知ることができるのでしょう。素直に読めば、中村という土地を通り過ぎたとき、墓が点在する場所があった。その侘しい景色の中を風が吹くのだが、風が強いだけでなく、侘しさも、さらに深いものであった。という内容になります。多分、強い風だなあという感想ではなく、堪えられないさほどの寒さと侘しさそのものだったのでしょう。)

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逃げ場所が多い時代
風を強く意識することはないかもしれません。
天気予報も頼りない時代
突然の雨
強風
そんなとき無防備でうろたえる人たちの群れ
北斎の版画に見られるざわめき
今の時代とは
風とか雨の意味が違っていたのでしょうね。

きっと、音に関する想いとか
感性は全く違っていたと思いますね。
虫の音がうるさく聞こえるほどの静寂があった時代
人工音に馴れてしまった時代
そんな時代の子が松尾芭蕉を理解するのは至難のことですね。

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私には「藤袴」がどうも見分けられません。
見れば、そうだ、これが藤袴だとわかるのですが、
これが藤袴だといえイメージが出てきません。
いわゆる「雑草」にまぎれてしまっているのです。
だから、秋の七草なのでしょうか。

山上憶良の思いは何だったのでしょうか。
特別の思い出でもあったのかもしれませんね。

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がっちりと身を固めたる丹波栗  あきオジ

2010-09-25 20:11:11 | 日記
巾着田の彼岸花です。
飽きるほど楽しんでください。
アップする写真がなくなればそれでおしまいだし
新しい写真をとってくれば、そちらに関心が向くのです。

栗の写真を撮ったのですが、いい写真がありません。
覚えていたらそのうちの一枚をアップします。

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頑是ない我に冷たき秋の風  あきオジ  

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霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き  芭蕉

(いわれてみれば発想の逆転です。趣向としては面白いですが「いかにも芭蕉」という感じですね。素朴に見たいものは見たいのだ。それが私です。そんな我がままの方が馴染みやすい。芭蕉はいつも大人の才覚で裁こうとする。そこが安定感であり、「なるほど」なのですが、きれいごとより破綻がいい。そんなわがままが私の中にはあるのです。)

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足もとはもうまつくらや秋の暮  草間時彦

(この俳人、俳号を使わないのですね。いまどき、俳号など流行らないのでしょうか。
それにても、簡単明瞭ですね。こんな句が私は好きです。古典を踏み台にしていたら私の評価が下がるのですが、それもなさそうです。例のごとく、大岡信は、過去の用例を引用して解説していました。歴史が分からないと十分ではない。これは、西洋絵画も同じですが、現代の作家はそのような絵解きを期待していないですね。どうしましょう。)

うたた寝で秋を感じるなまけもの  あきオジ

2010-09-25 18:46:38 | 日記
俳句は気疲れしますね。
それだから俳句なのでしょうかね。

作った句がいいものなのか、それとも、違うのかそれも分からない。
指導を受ければ、二重季語を指摘されたり
季語がずれている
文法にかなっていない
その他の作法について
あれこれ言われそうで
それを想像しただけで嫌になります。

俳句を作る人はよく堪えて
身を削って推敲してますね。
ご苦労様です。

その路線からは最初から逸脱していますし
修正するつもりもありませんが
まだまだ面白がっていられそうです。

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秋風やひとさし指は誰の墓  寺山修司

(意味を考えたり古典的な背景を探る鑑賞法では通じないでしょうね。イメージを再構築した意外性と驚き、そのぶつかり合いが面白い人には面白く、理解不能の人には理解できないでしょうね。そんな面白さが寺山修司の短歌にはあります。俳句がどうなのか分かりません。ぶつかり合う要素を提供しきれているか分からないのです。寺山修司は俳句、短歌から飛び出していますので、自分の表現の場所として限界を感じたのかもしれませんね。専門家でもありませんし、そのつもりもありません。面白ければそれでいいのです。)

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楽しみはいろいろ
今は池波正太郎の世界を楽しんでいます。
なぜ、日本人は時代劇の非論理的な正義論を楽しめるのか
そこを探りながら見ていると楽しいです。

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彼岸花時雨ありがたくうけており  あきオジ

2010-09-25 17:50:12 | 日記
曼殊沙花も彼岸花の放哉の句には見当たりません。
もう少し調べてみます。
これだけ派手な花で畔道に植えて害虫駆除に利用した。
そんな花なのに取りあげないのは解せないです。
あまり評判のよくない花ですが
だからこそ、放哉には取りあげて欲しかったですね。

山頭火にはいくつかありますが・・

そのついでにいくつかのサイトを見ましたが
物凄い量のブログがありますね。
驚きました。
私はめったなことで他のブログを見ないのですが
たまたま、放哉が彼岸花を素材にした句があるか調べていたら
そのことが分かりました。

自分の中に閉じこもってほそぼそとやっていったほうがよさそうです。
気恥ずかしくなりました。

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俳句は評論するものではなく、作るものである。そのことが分かりました。

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よい宿でどちらも山でまえは酒屋で  山頭火

(山頭火は「いい人であった」という記事を読むたびに、それはそうでしょうが、そのことを記載して何を説明したいのだろうかと思うのです。山頭火の周辺の人は山頭火を何日も自分の家に泊めて、路銀を渡すことが可能な人たちであり、句会があれば一週間ぐらい山頭火を引き留めている。そのような教養人で豊かな暮らしの人が愉快で話し上手な山頭火をどのように扱っていたか、想像がつきます。山頭火の周囲には「大人」がいっぱいいて、自制がきかない山頭火を「あやしていた」のだと思えば想像が固まります。それはそれ、事実がどうであったにしても、どうでもいいことであります。ただ、いい人に仕上げなくてもいいじゃありませんか、駄作だっていっぱいある。それでいいじゃありませんか。それを行ってみただけです。見当違いでしたら、初心者ゆへ御放念ください。)

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知って好きになる人もいますが、知って幻滅することもあります。
距離関係は大人は量るものなのですね。

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