常陸 小坂城(おざか城) 尾張 清州城 両城のビイスタ
(城郭比較研究論)
◆長谷川
私は民俗学者でもあり城郭も研究
しております。幾何学測量の事を
昔から『規矩』きく、と読みます。
測量設計を『規矩』と表現する場
合もあります。日本国に分布する
名城にはキク」が女性名称として
登場する類例が多いと言えます。
優れた『規矩』の備わった城ほど
「キク」伝承が存在する。これは
日本の隠し言葉、忌み言葉の世界
※ウイッキペデイアより
小坂城と笄松物語[編集]
牛久のむかしばなしに「小坂城と笄松物語」があり、小坂城の
戦いのことが伝わっている。「女中奉公していたきくが早朝に
井戸で水汲みしていた時に、西南の方向におびただしい煙があ
がっていた。そこで敵が兵糧を炊いているのではないかと思い
宿直の武士に知らせた」と伝えている。この戦いが東条氏との
合戦かどうかはわからないが、他に小坂城での合戦の記録が残
されていないことから、この時の言伝えであろうと考えられる。
◆町の城先生
私は町の郷土史のそれも城跡解説
の先生なんだけど、昭和、平成、
令和と時代が推移したね私の若い
頃はA城は連郭式
B城は梯郭式
C城は階郭式
D城は円郭式
E城は渦郭式
F城は群郭氏
と見学会や講演で解説すれば済ん
だところがどうだ?令和の最近に
城郭ビイスタ論というのが突然に
出現した。しかも城のビイスタを
解けないんだ私の様に大学や教職
の経験をへて勉強してきた有識層
ではない普通の主婦層それも昭和
に『糸取り』『綾取り』した女性
層が城郭ビイスタ論を簡単に解い
しまう珍事が発生している事だよ
僕なんか先輩から先人から先生か
ら学んだ事しか頭に入ってない訳
で城図面を見て全く城郭ビイスタ
が解らないんだよ!私は学校教科
の勉強は秀才と言われたが『糸取』
や『折紙』は正直出来ないのだよ。
城郭ビイスタなんか全く解らない。
◆世話人様
それもう一度貴方が初心者に帰る
事から0から始めたらどうですか?
◆長谷川
そうですね。尾張清洲城を勉強する
人には『初心者様』が適しています。
歴史城郭講座で清洲城を私が解説を
する場合、歴史好きの人より糸取り
の得意な女性が理解度が高いのです。
清須城「紙飛行機」の様な折り目の
あるビイスタ工法の城ですよと解説
した時、「折紙」や「糸取」の得意
な全く学習教科書歴史を知らない人
が素早く理解される傾向にあります。
つまり「折紙」「糸取」は幾何学の
事で女性は得意なのです。ところが
城図を見せると男性は得意で女性は
苦手な顔をされる傾向にあります。
これは先入観やバイヤス、ステレオ
タイプの発想と呼ばれる固定感概念
◆長谷川
清須城もチヤンと二方向から重複
ビイスタ工法をで基本縄張してる。
◆長谷川
これもう既に消滅した尾張鳴海城
も、この 重複ビイスタ工法の城。
◆長谷川
織田信長の安土城は複座な総合
ビイスタを駆使して縄張してる。
◆町の城先生
すごいな!この城郭ビイスタ論とは!
◆反論者
いかん!いかん!いかん!
この動画は絶対に見るな!
◆質問者
関東常陸の小坂城には今話題の
城郭ビイスタ工法はありますか?
◆長谷川
城郭縄張の基礎とも言えるクサビ
型の城郭ビイスタ工法が読取れる。
◆長谷川
やはり城郭縄張基礎セオリーと言う
べきか城郭の構図も存在致します。
◆長谷川
この常陸小坂城繊細にビイスタ分析
を致しますとABのタブルビイスタ
CDのダブルビイスタの複数併用等
◆一般者
チョツと待ってよ!城郭の異端者と
言われた長谷川氏のビイスタ論こそ
が日本国城の城の構図の基本論だと
言う事になって来ましたよ!長谷川
氏は少数支持者のみと、鼻先で失笑
していたが長谷川先生が正論者であ
る可能性と評判は日々上昇している!
◆みんな
長谷川先生って大昔から本物ですよ!
◆長谷川
豊臣秀吉の天正大坂城もやはり
城郭の構図の基本ビイスタ工法
で築城されております。
◆長谷川
次回見学会は9月16日名将で名人
堀久太郎秀政の東野山城菖蒲谷
城です。何れも見事な織豊陣城。
◆以下ウイッキペデイアより引用
小坂城(おさかじょう)は茨城県牛久市小坂町にあっ
た戦国時代の日本の城。牛久市指定史跡。
小坂団地と小坂の集落の間にある愛宕山に築城された。
小田氏から分流した岡見弾正忠治資が牛久城を築城する
少し前につくったとされる。小田家風記には「小坂城主
が岡見備中守であり、一万石の小田一族大名」として
記録されている。新編常陸国誌には、「天文17年
(1548年)に小野川の対岸の泉城から攻撃を受け、
小坂岡見勢が泉城主の東条重定を討って撃退した」
とされている。この小坂合戦には、東条氏に味方する
江戸崎の土岐氏と岡見氏に味方する小田氏も参戦した
とされている。
城の構造[編集]
小規模ではあるが技巧的な城館として残されている。
南端Iにある主郭は、県道の改修時に発掘調査が行われ、
三分の一程度が削り取られている。主郭の周りは土塁と
空堀がめぐっており、曲輪IIも土塁が全周し、その外側
は大規模な空掘で囲まれている。北面中央の開口部は
櫓門の虎口跡と思われる。曲輪IIIは大規模な土塁が
全周し、東北部には破壊された土橋で城外と接続されて
いたことが考えられる。