メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ジェローム・ロビンスが死んだ (津野海太郎)

2011-12-26 12:25:00 | 本と雑誌
「ジェローム・ロビンスが死んだ なぜ彼は密告者になったのか?」 
津野海太郎  著 (小学館文庫)
 
ジェローム・ロビンス(1918-1998)については、「ウェスト・サイド物語」の振付をやったこと、その他にも多くのヒット・ミュージカルを作ったということは知っていた。ただ作品はどれかというと、前記一つしか知らなかった。
 
それでも「ウェスト・サイド物語」の衝撃は強烈で、映画(1961)を映画館で1回、後にビデオで1回みたくらいなのに(舞台公演は観ていない)、いくつものシーンを良く覚えている。特にダンスについてはそれまでになかったタイプのものであったから、今でもよく思い出せるのだろうか。
 
もちろんレナード・バーンスタインの作曲も際立っていて、まだ小遣いがなかなかなかった頃に買った数少ないLPのうちにこの映画のサウンドトラック盤があり、いまでも手元にある。
ついでに言えば、映画は確か丸の内ピカデリーで、調べたら1961年12月23日公開だったらしいのだが、祖母が従妹たちと一緒に映画に連れて行ってくれるというので、ではよくわからないけれどこれといって観に行ったもので、当初そんなにすごいという前触れもなく、封切りからそれほどたっていなかったから、冬休みの年内だったと思う。プログラムもまだ残っている。
 
さて、そのジェローム・ロビンスが、いわゆる「赤狩り」にあい、取引を受け入れ議会の聴聞会で左翼シンパの仲間の名前をあげてしまった(このことを naming names というそうだ)、それによって密告者という汚名に終生甘んじなければならなかった、それを著者はロビンスの死亡記事で知った。
著者は1938年生まれで、私とちがってジェローム・ロビンスを知り夢中になったのは「踊る大紐育」(1949)が1951年に日本で公開されたときである。死亡記事を見てから、意外に思ってロビンスの生涯、特に彼の周囲の人たち、交友関係などを広く調べ始め、これを書いたというわけだ。
 
ロビンスについて、いくつもの何故を自問しながら、「それはないだろう」といいながら、いろんな事実をつなぎ合わせたりほどいたりしていく。したがって結論めいたものはなく、やはり一筋縄でいかない問題、時代、社会だったのだな、というわけだが、「赤狩り」の恐ろしさ、多くの人たち(それも有名な人が多いが)の話は興味深い。
 
ロビンスはロシアからのユダヤ系移民2世、そして一時期アメリカ共産党シンパ、ゲイ、この三つがまず彼を困難な立場に追い込んだようだ。他に例えばレナード・バーンスタインにも三つが共通しているけれども「赤狩り」の餌食にはなっていない(おどしはされたかもしれないが)。もっとも大衆的な影響力からすればロビンスの方が上だったからだろう。
 
「赤狩り」は戦後史の一項目として知ってはいたが、アメリカの話としてはちょっとかけ離れた理解に苦しむ領域であった。ただ近年、この話はまた少しずつこちらの頭にも入ってきている。
 
「エデンの東」などの監督エリア・カザンが密告者の汚名を着せられていたことは知っていたが、1998年のアカデミー賞で名誉賞を贈られたシーンをTVで見ていたら、このとき大騒ぎになり、反対、無視の態度を示した映画人は多かった。ただ、当然そうするだろうと思った人もいれば、意外にも違う態度という人もいた。特に、騒ぎの中で俳優ウォーレン・ベイティが立ち上がり、反対の人たちを制していたのが、鮮明に記憶に残っている。いくらカザンの「草原の輝き」で世に出してもらったとはいえ、あの「レッズ」を制作してオスカーを取ったベイティがである。
 
その後、「マジェスティック」(2001)で1959年生まれのフランク・ダラボンが赤狩りにあう脚本家の話をうまく取り入れており、脚本家を演じるのがジム・キャリーということもあって、今も続いているテーマ、ということを感じさせた。
 
また、証言を拒否してハリウッドから干されたいわゆるハリウッド・テン(10人)のひとり名脚本家ダルトン・トランボが実は「ローマの休日」の脚本を書いていた、それも知人の脚本家の名前を使って書いていたということ(「ローマの休日」は脚本でオスカーを取っている!)がかなり後にわかり、私も最近それを知った。
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