メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

メルビンとハワード

2006-07-17 14:38:11 | 映画
「メルビンとハワード」(Melvin and Howard)(1980年、米、95分)
監督ジョナサン・デミ
ポール・ル・マット、ジェイソン・ロバーズ、メアリー・スティーンバージェン
 
ラスベガス近郊、道路近くの砂漠でバイクを飛ばして遊んでいた初老の男が運転をあやまり転倒し動けなくなる。夜になって用足しに道をそれたトラックの若い男メルビンがそれを見つけ乗せてやる。
男はハワード・ヒューズと名乗るが、メルビンは本物とは思わない。だが話していくうちにメルビンは歌いだし、ハワードは歌は嫌いだといいながらついに「バイ・バイ・ブラックバード」を歌い始める。このところハワードを演じるジェイソン・ロバーズがなんともいい。そしてメルビン自作のクリスマス・ソングも歌ってくれる。
 
街でおろしてからはこの二人、二度と会うことはない。富豪ヒューズからいずれ何かあるのだろうと見る方は思うが、映画ではメルビンが妻・娘とくっついたり離れたり、また仕事であれこれうまくいかなかったりというプロセスが終幕前まで続く。このあたりのんびりしているのだが、妻を演じるメアリー・スティンバージェンがうまいから、なんとか持っている。彼女はこれでオスカー助演女優賞を獲得した。
 
とはいっても、この間にアメリカののんびりしたかなりいいかげんな世相、それを反映したメルビンの人柄のいいところ、これらが次第にこちらにも利いて来る。
このあたりのゆっくり加減が、日本で未公開、それにビデオでも未発売ということの理由かもしれないが。
二人のうまい脇を得たとはいうものの、やはりこの映画はル・マットのキャラクターならではである。人の良さと人生の苦さが最後にうまく絡みあう。
ハワード・ヒューズの遺言状の真贋裁判という実際にあったことが背景になっているそうだ。
 
実はこの映画、WOWOWで録画して見ようと思ったきっかけは、日経土曜版で映画評論家芝山幹郎が「今週の一本」で取り上げられたとき、このポール・ル・マットは「アメリカン・グラフィティ」(1973年、ジョージ・ルーカス)であの白Tシャツの腕を捲り上げそこにタバコのパッケージを挟んでいたジョン・ミルナー役の俳優という紹介、それが決定的であった。なおこのコラムはいつもなかなかいい選択をしてくれる。
 
「アメリカン・グラフィティ」に出演した俳優はその後いろいろ出世もしたが、この人はどうなったのか気になっていたのである。他の人たちは、リチャード・ドレイファスはその後順調(すぎた?)、ロニー・ハワードは大監督ロン・ハワードになった。ジョン・ミルナーのホット・ロッドとスピード競争をして敗れるカーボーイ・ハット流しの走り屋という端役でかろうじてクレジットされていたのがハリソン・フォードである。
 
ジェイソン・ロバーズ(1922-2000)はこういうただものではない役をさりげなく演じたらぴたりである。他にたとえば「ジュリア」(1977年、フレッド・ジンネマン)でちょっと跳ね上がりの作家リリアン・ヘルマン(ジェーン・フォンダ)のパートナーで作家のダシール・ハメット。
 
ちょっとしたことだが、後半メルビンがやっているガソリン・スタンドにヒューズの遺言状を届けに男が来る、まずはタバコを買うというのでメルビンは今はフィルター付きなんかが多いけどやはりこれだよとか言って1ドルで売る。ビデオだと銘柄まではわからないが、メルビンが他の客の相手をしている間に男は机に遺言状を置いて立ち去る。タバコは店に入る口実だったらし去る車の窓から箱を外へ投げるとカメラはそれをアップ、銘柄はキャメルであった。
「アメリカン・グラフィティ」でポール・ル・マットがTシャツの袖にいれていたのはまさしくこのキャメルである。誰のアイデアか知らないが、メルビンはジョン・ミルナーのその後だという半分ジョークのメッセージだろう。

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インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア

2006-07-16 17:41:41 | 映画
インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア (1994、米、126分)
監督ニール・ジョーダン、原作・脚本アン・ライス
トム・クルーズ、ブラッド・ピット、アントニオ・バンデラス
クリスチャン・スレーター、キルステン・ダンスト
   
ホラー映画は苦手で、この映画もどちらかというと好評でありまた意外にもトム・クルーズがいいということは
知っていたが敬遠していた。
 
ホラーの度合いは多分ソフトなのだろう。なんとか見ることが出来たし、よく出来た映画である。
 
ニール・ジョーダンの映画にある陰りというものも本来の話がそうのなのだからどこがこの監督の味かというとわからないが、それはどうでもいいことかもしれない。
 
トム・クルーズは演技に熱中しすぎでくどいことが時々あるが、今回はもともとくどい役柄でむしろ自然に見えるのは面白い。
ブラッド・ピットは「リバー・ランズ・スルー・イット」(1992)の輝くばかりの若さ・美しさとは違った夜の光のもとの青白い美しさが際立ち、演技のうまさがどうのという問題とは別にやはりこの役は彼であってよかったのだと思わせる。トム・クルーズと同様に。
 
バンデラスは貫禄だが、驚いたのはキルステン・ダンストで有名子役とは知らなかった。この当時は12歳くらい、ブラッド・ピットに愛される子供と、その一方で大人たちをやり込めるしたたかさの両面を天性といった感じで演じている。
こういう子は長じてどうなるか難しいものだが、美人顔でないものの、どちらかというと普通の役が出来る雰囲気を持った女優になり、「スパイダーマン」の相手役、助演だが「エターナル・サンシャイン」(ジム・キャリー、ケイト・ウインスレット)など、うまくキャリアを積んでいる。
 
この映画、おそらく筋書きに沿ったドラマとしての意味と同時に、中のせりふにもあるように、死なないで生きながらえていくということは新しいものとの行き来がないということでもあり、新しいものをなんらの形で取り込むということがヴァンパイア特有の行為に現れるということ、それが一つの普遍的なメッセージ、そういう作りになっている。
 
偶然であろうか、同じ1994年に「フランケンシュタイン」(ケネス・ブラナー、ロバート・デ・ニーロ、ヘレナ・ボナム・カーター)が作られ、これは公開少し後にビデオで見たが、なかなかよかった。特にデ・ニーロとヘレナ・ボナム・カーター。

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爆笑問題と東大の教養

2006-07-13 22:53:49 | 雑・一般
「爆笑問題と東大の教養」というNHKの番組、少し前の深夜45分のものを見たが、7月8日(土)教育テレビでほぼノーカットとかで1時間30分、録画して見た。
 
おそらく専門科・専門家集団としての東大といわゆるリベラル・アーツとしての教養・教養学部の意味、存在意義について、外部から爆笑問題という刺激を与えることによって、その姿を浮き彫りにする、というのが小林康夫の目論見だったのだろう。
 
しかし、それは爆笑問題の太田にはすぐに見とおされることであり、始まってしばらくするとそれをつくろいながら追いかけるのに小林は苦労していた。
 
東大は他大学に比べてもこのところ営業に熱心であるが、やはりもう少し覚悟を決めたほうがいい。すなわち、
①つべこべ言わさせずにこれだけはやれというものを提示する。
②好きで熱中することについては言い訳をしない。
③それでも明らかな結果を出す、お金になるものを少しでも多く出していく。
要はこれだけであろう。
 
客席の多くの学生を見ると、栄養と出産・小児医療がよくなったのだろうか、昔に比べると顔が整っている。
 
番組の冒頭、この企画との比較で37年前の東大全共闘と三島由紀夫の対決シーンが少し出ていたが、当時の緊張感、期待感とは比べるのが無理というものだ。
 
東大の判定負け

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イタリア勝利、ジダンは何故

2006-07-10 21:59:04 | サッカー

W杯2006ドイツの決勝はイタリアがフランスに勝った。
前半7分マルーダをマテラッティが倒したと判定されたPKをジダンが決める。これが早い時間帯であったのが幸いしたのかイタリアはあわてず19分右CK、ピルロのキックからそのマテラッティがヘッドであわせゴール。
 
同点になってからは前半イタリア、後半フランスが攻勢となったものの、決勝によくあるような守りあいになってしまい、延長となった。延長半ばにセンタリングをジダンが見事にヘッドであわせたが、今大会こういうのをことごとくとめているブッフォンの壁を破ることは出来なかった。
そしてジダンの一発レッドカード退場、PK戦となったが2人目のトレゼゲが上のバーにあててしまい、5-3でイタリアの勝利となった。
 
準決勝ほど面白い内容ではなかったし、PK戦の結果である。しかし、全体的に見てやはりイタリアは最も優勝に値するチームだろう。
まず本質とは関係ないが23人全員が国内リーグ所属、そして交代GK要員以外全員が出場、そのほぼ半数が得点している。そしてモチベーション、それがリーグ不祥事の危機に起因する、言い方を変えればこのあとしばらくいいことはないという状況、これが効きチームが気持ちよくまとまっていた。
 
そして、世界一のDFカンナバーロ、世界一のGKブッフォン、この二人は、なんというプレーだったのだろう。
カンナバーロの場合、これまでよくあった何かの時には攻めあがるリベロというタイプでなくてストッパーである。しかし見ているうち、相手がペナルティエリア近くに入ってくると何時どうやってカンナバーロが止めるかクリアーするか見るのが楽しみになってきた。

自分が受け持つときばかりでなく、もう一人が受け持っているときでも抜かれそうになりそのあと危なくなりそうな一瞬、自分のマークする相手を捨ててサポートに入る、これが早すぎても遅すぎてもピンチになる、そして決断したときの迷わない勢い、惚れ惚れする。

それにしてもマテラッティが何を言ったのかはわからにが、何故ジダンは退場となる頭突きをしてしまったのだろうか。
もちろんことの是非はジャーナリズムで一般に言われているとおりであり、現役最後の試合をこのような形でおわってしまったのは、試合の結果とのかかわりは別として残念である。

記録によればジダンにはこういう反則、退場は多いようである。
ジダンのあのようなプレーの裏には何か激しいそして暗いものがあるのだろうか。それが何かはわからないが何かがあることは理解出来る。そして現役最後の試合だという意識がそのとき消えているということも。 だからジダンはジダンなのだろうか。
 
ジダンが頭突きをしたとき主審は見ていなかった。それを騒ぎ立てたのもブッフォンなら、退場のとき慰めていたのもブッフォンであった。なにかいい子ぶりっ子みたいな感じもしたのだが、しかし考え方がかわったのはPK戦で相手トレゼゲが上のバーに当てた時、喜ばず複雑な顔をしていた時であった。普通ガッツポーズなどするところである。トレゼゲが現在ユベントスでチームメイトということはあるかもしれないが、枠の中に来たのを自分がクリアーしたのでないということであれば相手を慮るということなのだろう。

この大会で私が選んだMVPはカンナバーロ。

最後に、イタリアのカモラネージは変なちょんまげスタイルであったが、優勝騒ぎの渦の中で何をされているのかと思ったら髷を切られていた。約束だったのか。


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若冲(プライスコレクション)

2006-07-07 22:20:59 | 美術
若冲と江戸絵画展(プライスコレクション)を東京国立博物館で見た。
 
伊藤若冲の人気が高くなったのはせいぜいこの10年だろう。2000年秋に没後200年展が京都国立博物館で開催され大変な評判になった。これは見に行ったが、そもそも若冲を知ったのはその2~3年前、日立製作所が実施していたデジタルアーカイブの研究プロジェクトを見せてもらったとき、その超高精細デジタルイメージ処理の対象となっていたのがこのプライスコレクション、なかでも若冲であった。
 
若冲をはじめ今回の展示の範疇に入っているいくつかは、プライスコレクションのおかげで注目された(特に一般人には)といってもいいのだろう。
 
今日こうして100点近くを見ると、多分年配の日本画好きからすると、あまり上品ではない、超一流の人よりその弟子、傍系のものが入っているという指摘もでるだろう。
なにしろ日本史の教科書や参考書で、あの光琳についてですらなにか爛熟、退廃といった印象を最初は与えられた記憶があるくらいだから。
その後光琳については実物を見るにつれそれはまったく違うという観を持つにいたった。
 
今回はその光琳を慕った酒井抱一から、鈴木其一、長沢芦雪など、なにかわかりやすくて、「気」が入っていて、いい。
ここらになると、ひとつの頂点を築いた人の手法を受け継ぎながら、その一つ一つの特徴が濃縮され、ある意味でしつこくなっているのかもしれない。
それが、外から「日本」を見る目で見ると、強いインパクトになるのであろうか。そしてこの前半世紀を見ても、岡本太郎、横尾忠則、村上隆、漫画、アニメという流れに確かにつながっている感がある。
プライス氏が収集を開始して50年だそうだが、光琳は無理でもここまで集めたというのは大したものである。散逸の逆という意味でも感謝せねばなるまい。
若冲で選べば今回は豪奢なものより、「花鳥人物図屏風」、「鶴図屏風」をはじめとする観察力+ユーモアか。ユーモアといえば「伏見人形図」は「ドコモだけ」みたいだ。
平成館の照明は益々好調、他の館もまねしてほしい。

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