メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ぼくのプレミア・ライフ(映画)

2007-03-11 22:16:05 | 映画
「ぼくのプレミア・ライフ」(Fever Pitch 、1997、英、102分)
監督:デヴィッド・エヴァンス、原作・脚本: ニック・ホーンビィ
コリン・ファース、ルース・ジェメル、マーク・ストロング
 
この原作(同名)も読んだし、このあと作者、監督も製作にかかわり設定を野球のボストン・レッドソックスにしてリメイクした「2番目のキス」(2005)も見たが、こっちはやっとDVD再発売で見ることが出来た。
 
作者がおそらく原作で描きたかったであろうリーグ特定チームのファンが、どんな思いで生活し、人生をたどっているか、それはこの映画を見ると一番はっきりわかる。
 
主人公は国語の教師、アーセナルのファン、チームにはいつも裏切られ続け、18年を経た1989年、この試合でリバプールに2-0で勝てれば優勝というとき、恋人との事情で試合には行かず、友人とTVを見ながら、負けるに決まっているから見るのはやめて飲みに行こうと自虐的な悪態をつき続けるところなどは、まさしく「見ていられない」といいながら薄目をあけて見ている、という典型的なファン心情がよく出ている。程度は違うがちょっと身につまされるところだ。
 
特にサッカーでは、90分とロスタイム、本当に終わるまで勝つも負けるもわからないというケースがよくあり、だからその期待と悲嘆の落差、そして結果が出るまでのストレスは実に大きい。
 
そうはいってもこの映画、要するに原作を反映しながらもこの一点に集中しているので、ドラマとしては単純で、本国以外ではそんなに売れなかっただろう。
 
コリン・ファースは、まだ若いこともあり、好漢と自堕落の二面を持つこの役にはぴったりで、むしろここからダーシー・キャラに飛躍したことの方が意外である。
 
そこへいくと「2番目のキス」は、後で作っただけあって、もっとドラマの構成を考えた作りであり、野球ということもあって、試合の進行がゆっくりでしかもメリハリがきいているから、観客席内の描き方などは多様で面白い。
 
1989年当時のアーセナルユニフォームは、選手、ファンそれぞれに沢山出てくるが、胸の大きなスポンサー・ロゴはJVC(日本ビクター)である。会社は今どうなるか微妙なところだが、こういう映像が残っていくことはある意味で名誉なことだ。

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アン・タイラー「ブリージング・レッスン」

2007-03-08 21:29:08 | 本と雑誌
アン・タイラー「ブリージング・レッスン」(Anne Tyler  Breathing Lessons 1988、訳:中野恵津子、文春文庫(1998))
 
1956年にボルティモアの高校を卒業(ということは1937年あたりの生まれ?)の男女たち、そのうちの一人の女性マギーが48歳のとき(1985頃)、同級生の夫が死んだとの知らせを受けて2歳ほど上の夫と車で少し離れたところに出かける。そしてそこで同級生達に会い、喪主の友人の結婚式が回想され、自分の結婚、子供の結婚・離婚、孫のことなどが、極めて詳細に回想される。この回想が織り込まれていくこの一日の行き帰りには、車のトラブルがいくつか、また夫婦の喧嘩、息子と別れた嫁と孫のところに寄ってつれて帰ろうとするなど、盛りだくさんある。
 
これだけのものごと、そして回想、その詳細となると、一日の話のはずはないのだが。
そしてディテイルを書くのが作者は得意だから、一つ一つの場面は目の前に展開されるように鮮やかだけれど、この主人公マギーのしつこさ、おせっかい、性懲りなさ、読んでいていらいらする。そしてこの頭のよい作者、こういうことも理解したうえで丁寧に書いていますよ、という顔が見えてしまうのだ。
これがアメリカの庶民の実像だよといわれればそれまでだが、読んだ後には多少カタルシスが欲しい。
ピュリッツァー賞を取ったらしいが、同じ著者の「ここがホームシック・レストラン」、「歳月のはしご」、「結婚のアマチュア」と比べてこの主人公が一番苦手だ。その同じところが、もしかしたら、アメリカの人たちには何か感じるものなのだろう。
  
題名のブリージング・レッスン、直接これを思わせる場面に気づかず不明。レッスンが複数になっているのは授業、日課? もしかしたら水泳とくにクロールの息継ぎ、その練習を、人生の何かにたとえているのかな。

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リトル・ミス・サンシャイン

2007-03-06 22:22:06 | 映画

「リトル・ミス・サンシャイン」(Little Miss Sunshine、2006、米、100分)
監督: ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス、脚本: マイケル・アーント
グレッグ・ギニア、トニ・コレット、スティーヴ・カレル、アラン・アーキン、ポール・ダノ、アビゲイル・ブレスリン
 
アリゾナに住み、自己を高めていく成功法ともいうべきものの研究・教習をやっているがなかなかうまくいかない父親(グレッグ・ギニア)、高校にいく前あたりの息子はへそを曲げて筆談だけでニーチェに心酔、小さい娘(オリーヴ)は子供ミスコンを夢見ている。なんと祖父はヤク中、そこへゲイで失恋し自殺未遂した自称プルースト学者の伯父が転がり込む。母親(トニ・コレット)は多少まともだが希望はない。
 
つまり6人とも、頭は悪くないのだが、勝ち組にはなれず、負け組と自他ともに認めている。しかし、祖父を除けば、それぞれのスタイルで勝ち組をめざしている。このあたりが、やはりアメリカ、どうしようもなくアメリカで、見ていてはじめはちょっとうんざりする。
息子がだまってどこかのフライドチキンがつまった紙のバケツをテーブルに置き、紙の皿を配置して夕食の準備、というのを見ると、おいおいといってしまうのだ。
 
そこへ、幸運にも娘がカリフォルニアで行われるミスコン全国大会(リトル・ミス・サンシャイン)に出られることになり、お金はないが皆で行こうということから、ボロの黄色い小型バス(ワーゲン)を借りて、出かけることになる。
ここからが典型的なロード・ムービーで、すぐにクラッチが壊れ、発信時はかならず皆で押しがけしないといけないはめになる。ここだけはいやでもまとまらないといけないということだ。この何度も出てくるシーンのヴァリエーションが、ストーリーを反映して、面白い。
 
こういう設定で、そこそこの役者を使えば、皆下手な演技をするわけはない。トニ・コレットは「イン・ハー・シューズ」でキャメロン・ディアスの姉を好演したが、あれよりも自然な感じ、アラン・アーキンは楽しそうで、この程度の出演時間でオスカー(助演男優賞)というのはちょっと功労賞かなとも思うが、これもよくあることだ。どっちかというと伯父役のスティーブ・カレルがなかなかいい。甥と同病相憐れむ風のところはしみじみしている。
 
娘のアビゲイル・ブレスリン、子役でオスカー(助演女優賞)ノミネートというのは好みでないが、うまいことは抜群である。(でもちょっとおなかが出すぎているよ)
終盤、なんとか会場について、なかなかの脚本だったけれどミスコンでオリーヴがどっちに転ぶかそれぞれについて想像し、それで終わるのかな、と思っていたら、こういうやり方があったかと驚き、笑い、そして自然に泣けてくる。脚本に「まいった」である。(オスカー・オリジナル脚本賞!)
 
ただ脚本がいかに素晴らしくても、このフィナーレはアビゲイル・ブレスリンの演技とそれを引き出す演出がなければ、こうはいかなかった。さらに考えれば、ここにはアラン・アーキンの演技が下味となっている。


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エド・ウッド

2007-03-04 21:47:50 | 映画
「エド・ウッド」(Ed Wood、1994、米、124分)
監督: ティム・バートン、脚本: スコット・アレクサンダー、ラリー・カラゼウスキー
ジョニー・デップ、マーティン・ランドー、サラ・ジェシカ・パーカー、パトリシア・アークエット、ビル・マーレイ、ジョージ・スティール、ジュリエット・ランドー
 
1950年代に実在したらしい映画監督エド・ウッドの伝記映画仕立てのもの。結果としてB級映画作家であり、それも後世評価されるよなものを作ったわけでもないようで、そういう映画作りの細かいつたなさに注目させないためだろうか、モノクロである。
 
ただ感心してしまうのだ。映画を作りたいから、ちょっとアイデアが出来るともう資金作りに売り込む、少し撮影してから金が尽きるとそこまでのものを見せてまた資金を集めたり、俳優に声をかけたりする。なんともいい加減なプロデュースというのは簡単だが、この勢い、いい意味での志にティム・バートンも感じたのだろう。彼の「ニュー・シネマ・パラダイス」なのだ。
 
主人公が往年のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシに目をつけたのは偶然だが、次第に彼に入れ込みだし、この麻薬中毒の落魄者に添いとげる。ベラ・ルゴシを演ずるマーティン・ランドーは、どぎついメイクだが文字どおり怪演で、オスカー(助演男優賞)にふさわしい。
 
女装癖があった主人公を演じるジョニー・デップ、モノクロだからか、この時期そうだったのか、頬など今のようにちょっとこけた風もなく、山っ気たっぷりの男を気持ちよく演じている。この人のいいところは、斜に構えたいう感じをいつも見せるわけではないことだ。
 
終盤エドが開き直るきっかけがオーソン・ウェルズに偶然会い、話をきいたというのは、そっくり俳優を使ったこととともに、なにか「反則」(それはないだろう)であるが、どうなんだろう。
 
ベラの運命がいよいよというところで使われる「白鳥の湖」はなかなかぴったり。
 
なおこの映画の予告編を劇場で見た記憶があるけれど、史上最低の映画監督というキャッチ・コピーばかりが頭に残っている。そう言われたのは事実らしいが、出来るだけ見てもらうという目的からすれば、あの予告編はないだろう。

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綴り字のシーズン

2007-03-03 23:49:58 | 映画
「綴り字のシーズン」(Bee Season、2005年、米、105分)
監督:スコット・マクギー、デヴィッド・シーゲル
リチャード・ギア、ジュリエット・ビノシュ、フローラ・クロス、マックス・ミンゲラ、ケイト・ボスワース
 
米国で熱い人気があるときいていたスペリング・コンテスト、spelling bee、で才能を発揮し始めた娘の家族の物語である。 bee というのはスペリング・コンテストがぶんぶんいうようにきこえるということからこう呼ばれるようになったときいている。
 
娘の才能がわかると、父親(リチャード・ギア)はユダヤ教徒で宗教学の教授ということもあって、それまで娘の兄を気にかけていたのに、今度は言葉と神、言葉の神秘という考えから、国のコンテスト優勝に向けて異常に娘に熱心になる。
 
このあたりから、家族4人のベクトルが少しずつ違いはじめ、演出、音楽ともにミステリータッチが強くなっていくのだが。
 
個人の、そして日本人としての好みからいうと、こういうしつらえよりは、もっとスペリング・コンテストそのものに焦点をあてて欲しかった。
まあ結末は、予想できたとはいえ、的確な着地だろう。
 
リチャード・ギアはこういう何か半分欠けている夫、父親をやるとうまくはまるし、最初はどうしてこの人がというジュリエット・ビノシュの妻も、ミステリー仕立ての中でこの人ならではの演技を見せる。娘役のフローラ・クロスが評判になったというのはもっともだろう。
 
息子役のマックス・ミンゲラはアンソニー・ミンゲラの息子、ということはジュリエット・ビノシュとならんで「イングリッシュ・ペイシェント」つながりなんだろう。
スペリング・コンテストは、本当に米国で人気があるらしい。確かに出張の折りにTVでも見た覚えがある。フランスにも言葉のクイズ番組はあるけれどちょっと違った作りのようだ。 
 
この映画でもちょっと触れられているように、コンテストでは知っている単語のスペルを答えられるのは当然として、そうでない言葉に対してどうするかも問題となる。だからここでも父親からちょっとカルト的な世界も出てくるのだが、そうでなくても、出題されたときに、どういう意味か、起源はなどきいてもいいようで、ギリシャ語から来たとか答えられた後に、頭の中をめぐらして正解ということもある。
 
以前たしか土曜午後のNHKラジオでこのあたりの事情に詳しい方が話していたことには、英語というのはブリタニアがローマに侵略された後、ギリシャ語、ゲルマン語、フランス語、ケルト語など様々な言語が入ってきて、しかもそれが原型をかなりとどめているという珍しい言語だそうで、それがスペルを覚えることを困難にしているそうだ。
 
そういえば、他の言語は少しやると字面を見て発音して、微妙な発音は別としてそんなに間違いはないのに、英語は難しい、ということもなるほどと、納得できる。だからスペリング・コンテストが成立する。
 
このカリフォルニア州には、いろいろこのテーマで興味深い実話があるそうだ。今回のようにインテリ家庭でなくても、天才が出るようである。
 
あと、娘の名前がイライザというのは「マイ・フェア・レディ」を思い起こさせる。あそこでイライザに正統英語を教えるヒギンスは確か言語学の教授だった。
 
もう一つ、アニメの「ピーナッツ」で、この種のコンテストに出るチャーリー・ブラウンに、後からスヌーピーが応援に行く、という話があった。

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