本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

『 ありて在るもの 』

2009-04-02 10:14:26 | 住職の活動日記
 NHKハイビジョン放送で、懐かしい

『 モーゼの十戒 』 の映画をやっていました。

学生の頃は意味もわからず、ただ 『 モーゼ 』 の行く手の

海が大きく割れる、というところしか印象に残っていませんでした。

 改めてみると、本当によく出来た映画です。

それも超大作 !!  ( 途中休憩が入るのです )

昔はこういう、映画にお金をかけて、素晴らしい作品が出来たのだと

感動します。

 字幕の翻訳にも苦労の後が見えるようですし、

まじめに取り組んで、なにせ聖書の物語ですから、

キリスト教の専門の方にも相談しながら、

厳密に言葉を選んでおられるような気がします。


 そのなかで、『 モーゼ 』 が 『 神 』 に出会う

シーンがあるのです。

 そのとき、神は自分のことを 『 God 』 と名乗られない

『 自分は、ありて在るもの 』 

そういう翻訳になっていました。

気になり、

 調べてみると、 『 在りて在るもの 』 は

英語では 『 I am  Who I am 』 

  ( ちょっと分かりにくい英語です )

 ずっと考えていたのです  ( ナ~ム )

   …  …


 ふと、仏教でいう 『 如来 』 という字と絡めて考えると

自分なりには解けた感じでした。

 「 如来 」  ( 如から来たもの )

『 如 』 とは、形なきもの、本来は

それがある形をとってやって来たもの、が 『 来 』 してくる

 この世の中すべてのものは

『 如 』 という形のない世界から

『 来 』 という形あるものとして表現されたもの、

と考えると、

 
 『 I am Who I am 』 ということも、

( 私は誰のものにもなりえる 私である )

という風に、訳してみることが出来るのではないでしょうか。


 『 如 』 ということも 『 いのち 』 という言葉に

置き換えることが出来かもしれません。

 「 いのちそのもの 」 はわからない、

けど、あらゆる 『 生きとし生けるものの 』 は、

そこから生まれるというか、一つの表現として

出て来ている。 ( 人間も含めあらゆる生き物 )


 「 村上和雄先生 」 は その根源的な命の存在を

『 Something Great 』

( サムシング・グレイト ) と呼ばれたのでしょう。


 『 われは、在りて在るもの 』 という言葉が

学生の頃に聞いて、なぜなのか分からないのですが、

ずっと、記憶のどこかに、気になる言葉として残っていたのです。


 大変長い映画でしたので、完璧には見こなすことが

出来ませんでした。

懐かしい 『 ユル・ブリンナー 』 も見ることができ、

この言葉も、思い出させていただいて、

もう一度ゆっくり、はまってみたい映画でもあります。
コメント
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