本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

たんと・タント

2013-10-26 22:29:58 | 住職の活動日記

 「 たんと 」  

れっきとした日本語、

関西、主に京都かな、と思っていましたが

昔から、普通に使われていたようです。

 広辞苑には 「 数量の多いさま 」 

とあります。

 京都では 「 たくさん 」 とか 「 広い 」

というような意味でも使われるようです。

 また、 「 タント 」 という車もあります。

軽自動車ながらたくさん積めて、

室内も広々しているというような意味合いを込めて

名づけられたのではないでしょうか ??

 

    

 

先日、イタリアレストラン 「 タントタント 」 という店を訪ねました。

とても、おいしかったのです。  

何気なく入ったのですが、

 

   

 

店のつくりも、土蔵風でそしてイタリアンという

ミスマッチが何ともいい雰囲気を出しています。

 

   

 

店内も落ち着いたそして使いこなされた

道具類が歴史を感じさせるようです。

 

   

 

ワインの数もたくさん並んでいます。

 

   

 

また、本格的な食材も京野菜や本場イタリアから取り寄せた

チーズやハムもなんともいい、

 

 お店の方とも話していたのですが、

イタリア語でも 「 タント 」 というのは

やはり 「 たくさん 」 という意味があるそうです。

 

 スペイン語の歌でも

「 タント・コモイ・ムーチョ 」 というような

もっと愛してという歌もあるようです。

 

 ぶらりと歩きながら

楽しいお店に出合い、とても得した気分になりました。

 

   

 

お向かいには、姉妹店だそうですが、

ピザのお店もあるようです。

 古い佇まいを残しながら、異国の文化を消化していく

日本人は昔から上手に異国の文化を

自国のものとして再構築していったようです。

 

 また、ディナーでも  …  と思っています。

 

『 レストランテ タント タント 』    ですよ。

 

 

 

 

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「荘厳」するということ

2013-10-26 07:21:52 | 住職の活動日記

 「 荘厳 」 普通には ( ソウゴン ) と読みます。

お経のなかでは同じ字を書いて ( ショウゴン ) と読みます。

「 荘 」 という字は本来、

 おごそか、ただしい、さかん、

というような意味があるようです。

 

 私たちは、本堂とか仏壇を仏具などで

飾ることを 「 荘厳 」 ( ショウゴン ) といいます。

しかし、それだけにとどまらず、

もっと精神的な意味でも使います。

 たとえば、

病気をする。 

と、 「 病気は嫌なもんだ ! 」

とか、 「 病気をして情けない 」 とか感じます。

ここで、よく考えてみると、

病気をするということと 「 いやだな 」 とか、

「 情けない 」 と感じることは別のことなのです。

 『 病気のときは病気するがよろしい 』

といった方もおられます。

だから、病気のときは病気しているのが一番いいのです。

事実は、病気しているのに

元気で活躍していた時のことを思うのです。

 ここで、病気が嫌だ、とか情けないと、

考えることが 「 煩悩 」 なのです。

「 情けない 」 と思うことで、ますます

情けなくなってしまうのです。

 だからそういうときは、

病気をしているときは病気を治すことが

自分の使命である、

と考えると、病気から逃げ出そうとしないのです。

 

 お釈迦さまは 「 二本の矢の喩 」 として諭されています。

病気をすると、

病気という矢を一本うける。

と同時に病気は嫌だ、情けない、

という矢も受けてしまう。

というような表現で語っておられます。

 

 そこで、病気のときは病気になる、

病気でなければわからないような世界を、

健康だったらこんな世界は気がつかないだろうと、

病気したおかげで独自な大きな世界を見出した。

そこに、病気を超えた広い世界を見出してくるのです。

 

 何気なく生活している当たり前の世界に

一つの新しい意味を見出してくる。

そういうときに 「 荘厳する 」 という言葉が

使われてきます。

私たちが悩み苦しむ世界に生きているということは

その悩み苦しみを通して、

本当の新しい意味を見出していく、

悩み苦しみがあればこそ悟りということも見えてくる。

そういう時に、

私たちの生きている 「 穢土 」 ( えど ) を

荘厳する、というように使うのです。

お経のなかには、

 『 穢土を通して浄土を荘厳する 』

というような表現で出てきます。

穢土で生きているということは

ただ苦しんでいるということだけにとどまらず、

浄土を荘厳していく、

そういう貴重な意味を持っている。

というように使われています。

 

 「 荘厳 」 ということも、

お経のなかではもっと身近なものとして

表現してあります。

何気なく過ごす中に、

不平不満で困らない世界を探すより

新しい意味を発見していく

そこに生活が荘厳されていく

ということがあるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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