浅田真央選手、その練習風景、
同じことの繰り返しの練習です。
佐藤コーチも、
「 繰り返し、この我慢との戦い 」
とおっしゃっておられます。
今までやって来たことを全部捨てて、
一から見直し、基本からやり直す。
練習では何度でもできても、
いざ本番になると、失敗してしまう。
練習に練習の積み重ね、
それしかない と、
日々の練習に取り組んでおられます。
ということを聞いて、
仏教の修行も繰り返しの積み重ねです。
「 数習 」 ( さくじゅう・さくしゅう ) ということがあります。
お経の中では、
「 善法に於いて数修し、数習す 」
という言葉で出てきます。
「 数数修習 」 ( さくさくしゅうじゅう )
修行も一回できたくらいで、出来たと思うな !
繰り返し繰り返し、
「 数 」 を重ねて書き、無限にというような
ニュアンスも表すのではないでしょうか。
修行し習得しさらにくりかえすと、
努力の向こう側というか、
努力が努力でなくなってくるまで、
そのことをまた別な言葉で
「 無功用 」 ( むくゆう ) ともいい、
「 常修 」 ( じょうしゅう ) ともいいます。
「 功用 」 ( くゆう ) とは身口意の動作ということです。
この動作が自然 ( しぜん ) のままの状態を
「 無功用 」 ( むくゆう )
このことが 「 自然 」 ( じねん ) ということにもつながります。
昼も夜も、寝ても覚めてもということです。
努力でやるというと、やっぱり暇がある。
休む時があります。
修行しているという意識がなくなるまで、
もう、手段と目的の区別がない。
やること自身が目的。
その日その日が目的。
結果なんか眼中にない、
そういうところに 「 無功用行 」 という
努力がなくなってくる心境があると思います。
ニーチェというかたが、
「 初めはラクダのように、
なかはライオンのように、
最後は子供のように。」
ということをいわれたと思います。
修行の最初は 「 従順 」 ということが大切です。
言われたことは素直に聞いて実践する。
ライオンは責任を象徴しています。
世間の誘惑に負けず、勇猛に真理を求めていく。
そして最後は子供のように、
遊びも仕事も区別がなくなる。
すべてが遊びであり、すべてが仕事となるような
そういう何かのためにとかいうことがない、
「 自然法爾 」 ( じねんほうに )
というような、努力ということがなくなってくる
ということも、
「 無功用行 」 ということです。
浅田真央選手を見ていると、
まさにその繰り返しの練習が
「 無功用行 」 ( むくゆうぎょう )
そのもののような気がします。
経典は 「 数数修習 」 ( さくさくしゅうじゅう )
繰り返し繰り返し、読んでいく、
ほんとうの言葉に触れていく以外に
道はないようです。
その日その日が目的です。
読んでこうなるというような結果が目的ではない。
読み続けることが 「 常修 」 です。
修行しかない、ということです。
繰り返し、 繰り返し です。