本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

繰り返し !  繰り返し !!

2014-03-23 16:10:15 | 住職の活動日記

 浅田真央選手、その練習風景、

同じことの繰り返しの練習です。

 佐藤コーチも、

「 繰り返し、この我慢との戦い 」

とおっしゃっておられます。

 今までやって来たことを全部捨てて、

一から見直し、基本からやり直す。

 練習では何度でもできても、

いざ本番になると、失敗してしまう。

 練習に練習の積み重ね、

それしかない  と、

日々の練習に取り組んでおられます。

 

 ということを聞いて、

仏教の修行も繰り返しの積み重ねです。

「 数習 」 ( さくじゅう・さくしゅう ) ということがあります。

お経の中では、

「 善法に於いて数修し、数習す 」

という言葉で出てきます。

「 数数修習 」 ( さくさくしゅうじゅう )

 修行も一回できたくらいで、出来たと思うな !

繰り返し繰り返し、

「 数 」 を重ねて書き、無限にというような

ニュアンスも表すのではないでしょうか。

修行し習得しさらにくりかえすと、

努力の向こう側というか、

努力が努力でなくなってくるまで、

 そのことをまた別な言葉で

「 無功用 」 ( むくゆう ) ともいい、

「 常修 」 ( じょうしゅう ) ともいいます。

「 功用 」 ( くゆう ) とは身口意の動作ということです。

この動作が自然 ( しぜん ) のままの状態を

 「 無功用 」 ( むくゆう )

このことが 「 自然 」 ( じねん ) ということにもつながります。

昼も夜も、寝ても覚めてもということです。

努力でやるというと、やっぱり暇がある。

休む時があります。

修行しているという意識がなくなるまで、

もう、手段と目的の区別がない。

やること自身が目的。

その日その日が目的。

結果なんか眼中にない、

そういうところに 「 無功用行 」 という

努力がなくなってくる心境があると思います。

 

 ニーチェというかたが、

「 初めはラクダのように、

  なかはライオンのように、

  最後は子供のように。」

ということをいわれたと思います。

 修行の最初は 「 従順 」 ということが大切です。

言われたことは素直に聞いて実践する。

 ライオンは責任を象徴しています。

世間の誘惑に負けず、勇猛に真理を求めていく。

 そして最後は子供のように、

遊びも仕事も区別がなくなる。

すべてが遊びであり、すべてが仕事となるような

そういう何かのためにとかいうことがない、

「 自然法爾 」 ( じねんほうに )

というような、努力ということがなくなってくる

ということも、

「 無功用行 」 ということです。

 

 浅田真央選手を見ていると、

まさにその繰り返しの練習が 

「 無功用行 」 ( むくゆうぎょう ) 

そのもののような気がします。

 

 経典は 「 数数修習 」 ( さくさくしゅうじゅう )

繰り返し繰り返し、読んでいく、

ほんとうの言葉に触れていく以外に

道はないようです。

 その日その日が目的です。

読んでこうなるというような結果が目的ではない。

読み続けることが 「 常修 」 です。

修行しかない、ということです。

 

 繰り返し、 繰り返し    です。

  

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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