本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「第一義」

2015-06-30 07:15:19 | 住職の活動日記

宇治の地は結構起伏の多い土地、

そういう地形が美味しい宇治茶を

生み出すのかもしれません。

また、散歩するには足腰を鍛えるのに

格好の土地柄ともいえます。

 

黄檗(おうばく)公園から歩き出し、

ちょうど、黄檗山万福寺をぐるりと

回るコース、

怠けた体には、最初の上りの道は

堪えます。

ぐるりと回って黄檗山の三門へ

 

   

 

どことなく中国風な建物、やはり

華僑の方々のお参りが多いようです。

ふと気になったのが、

 

    

 

この額です。

『第一義』とあります。

お寺の名前でなくこういう言葉を掲げるか

と思いつつも、ドキッとしたものも感じます。

 

第一義諦とも勝義諦ともいいます。

反対の言葉は「世俗諦」

諦というじは、あきらめるとも読みます。

あきらめる、は明らかに見る

ただ残念にあきらめるのではなく

ものごとを明らかに見れば

未練なくあきらめがつく

ということで、

ものごとを正しく認識する

という意味で「諦」という字を使います。

 

私たちの関心事はいろいろあります。

健康に、お金に、肩書、や名誉

でも死ぬときは持っていけません。

では究極の関心は … ?

お経の中では「畢竟」(ひっきょう)

という言葉で出てきます。

アルティメイト・コンサーン

究極的関心といった方もおられます。

その「畢竟」つまるところは何か、

という問いかけが「第一義」

ということです。

 

この山門に掲げたこの「第一義」

つまり、生きるか死ぬかの問題

どうしても知りたい

その一つだけを持ってこい、

世間の関心事は持ってくるな

そういう厳しい言葉を掲げているのでしょう。

やはり、夏目漱石もこの言葉が気になったようです。

 

西洋のバルトという方も

ナチスに追われてスイスに行くとき

たまたま一緒にいた日本の留学生が

先生にその心境を尋ねたところ

「エスカトロギッシュに生きています」と、

毎日をこの世の終わりとして生きています。

そう答えたという話があります。

 

そういう一点では

西洋も東洋も共通するものがあるようです。

やはり人間として生きる最終的な

究極的な関心事は同じです。

 

お釈迦さまも、

国を捨て、家庭も捨て、妻も子も捨て

出家された、

世間から見ればひどい話です。

けど、「第一義」というところに立てば

第一にこの問題を解決しなければ

自分の人生が無駄になると

そういう動機が出家ということを

突き動かしたのでしょう。

 

「第一義」このことを

深く受け止めなければ!!!

 

 

 

 

コメント (2)
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