本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

メメント モリ memento mori

2019-06-10 21:15:05 | 住職の活動日記

「メメントモリ」

ラテン語で「死を忘れるな」

という意味です

やがて死ぬのではない

いつも死と共に生きている

そのことを忘れるなということです

それで、

ファッション的には

ドクロや骨をあしらった模様の服

があります

 

キリスト教でも

「エスカトロギッシュに生きる」

ということがあるようです

終末論的に生きていく

やがてではなく、今が終末だと

だから急ぎ信仰せよ

というのでしょう

 

お釈迦様も

修行者は墓場で寝なさいと

いわれています

それは死を忘れてはいけない

いつでも死に立って生きる

いつかは死ぬのでなく

生と死は同時なのだ

それを忘れないために墓場という

そこで寝るように規定されたのです

 

安田先生も講義の中で

「死から始まる生」ということで

 死とは仏教の縄張りの話である。

 神様という宗教も世にあるが、

 それは死を嫌う。

 生まれた方は喜ぶが、

 死は嫌いだというのは、

 宗教としては未成熟である。

 生まれたときには宮参りするが

 死んだときに神様に参る者は

 いない。

 向こうから追い払われてしまう。

 そういうように

 何か見ないものを残しておく

 ということは

 宗教としてまだ未成熟である。

 人の嫌うものを最後まで見ていく

 これが仏教である。

 葬式や墓に深い縁があるのは

 こういう理由からである。

 ただ、

 死を葬式や墓で済ませたから

 仏教は堕落した。

 途中で止まってしまった。

 もっと深く

 追求しなければならない。

 死ということが生の問題である。

 

 生は死に終わるのではない。

 死から生が始まる。

 我々はいつか死ぬのではない。

 いつでも死ぬという

 死を裏にして生きている。

 それが無常である。

 ある時間がたてば、

 やがて死んでいくのではない。

 有ること自身が

 有るがごとくではない。

 

と述べておられます。

 

最近思うのですが

「いのち」ということは大きく

取り上げられます

しかし、

死ということは

悲しいかな、

「死んだら終い」

といわんばかりにいとも簡単に

扱われてしまいます。

 

お葬式もいらない

ひどい場合はお骨もいらないと

お骨は拾っても散骨するとか

海にまくとか

死ということに対する扱いというか

死に対する深い思い

一人で来て一人で死んでいく

そこには命のつながりが

なくなってきているようにも

思います

 

あらためて

宇治の地ということを見直すと

木幡というところには

藤原一門の陵墓・宇治陵があり

藤原頼通は極楽浄土を願い

平等院を建てたのです

阿弥陀如来に導かれ

浄土へ参るという構想で

このお寺を建立したのでしょう

今あるこの自分というのもを

思うと、代々の歴史を感じ

更にその歴史が続くように願って

お寺を建立したのです。

 

一時期は

今自分がこうやって成功したのは

ご先祖のおかげという思いで

お墓を建立することは

大きな願いだったように思います

何もお墓を建てるだけが

いいことではなく

そこにはわからなくても

先祖があり自分がありそして

未来というものを見つめて

命の連続性を見ていたのでしょう

 

そういうところに

なにかしらわかりませんが

死ということを抜きにした

生ということは

根が生えていない生のようにも

思えてきます。

 

「ありがとうございます」

ということも

漢字では「有り難う」

有ること難し

こうやって今有ること自体

難し(かたし)、

難しい(むつかしい)のだと

そういう深い認識から出てくる

言葉なのです。

 

ただただ、

生ということだけ

大切に思うのではなく

死ということの尊厳性

死ということから見直さなければ

本当の生は

分からないような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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