本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

実存ということは情熱的に考えることだ

2021-07-08 20:11:57 | 十地経

安田先生の言葉は

こういうように新鮮で

感動的な言葉を生み出して

おられます

 

「実存ということは

 情熱的に考えることだ」

 

というように、

この前後の文章は

「実存ということは何も

考えんことじゃない。

根源的に考えることだ。

欲求ということは情熱だ。

止観といったら考えること、

しかしそれは情熱的に思考する

ということです。

興味半分にやってみるとか、

やった方が得だからやると

いうんじゃない。

 

それがなければ

死ぬるということもできない。

生きることができんのは

当たり前のことだ。

死ぬることもできんという、

そいう真理。

 

そういうのが自己に関する

真理でしょう。

それはもう

情熱を持たざるをえない真理

でしょう。

情熱的な一つの欲求やね。

渇仰的な欲求なんだ。

要求ということもある。

これは静かだ。

宗教的要求という言葉もある。

 

けど要求というものよりも

もっと情熱的な概念でしょうね。

欲求といえば。

要という字は必要とする

という意味でしょう。

必要なものとして求めると、

こういう意味です。」

 

安田先生も静かに見える方ですが

内に秘めた情熱というか

以前、三浦先生より

「この子も熊本ですよ」と

紹介された時

「熊本らしくない顔してるね」

といわれました。

その後の講義で

高群逸枝さんの話が出て

熊本の女性で、女性解放を主張

その女性がとても情熱家で

そういう女性を熊本の人という

印象を持たれたのでしょう。

 

そういう情熱的な人が、

三浦先生も情熱的なな方で

そういうところが引かれたのかも

しれません。

 

「食えんようになる時が

   死ぬ時や」

と、仰っておられました。

一度も職業に就かれず(たぶん)

一度だけ大谷大学の講義をされ

その時は緑のチェック柄の

ダブルのスーツ姿で

それが職業に就かれた最初で最後

だったのかもしれません

あとは、講義に呼ばれ

そこで講義をされ、

その頂かれたものが糧だった

のではないでしょうか。

 

そのように先生の生き様自体が

生死を懸けたものです

ただ座って聞法する

というのではなく

命懸けの聞法

食えんようになるときは

死ぬ時や

ということも事実の言葉です

 

そこには、

先生もよく使われる

アルティメイトコンサーン

(究極的関心)

という、求めずにおれないという

そういう欲求があったのです

 

表面的には静かに見えても

内には燃えるような求道心を

持っておられたのです

 

普通には私たちは損得勘定で

生きているので、

なかなか、究極的といわれても

金銭的なことが先になって

しまいます。

 

しかしながら、

出来なくてもこういう新鮮な

情熱的な言葉には

感動するものがあります。

こういう言葉に触れていく

だけでも

こちらの心が震えるものです。

 

 

 

 

 

 

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