本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

未熟だという障り

2022-12-18 20:53:25 | 十地経

書きながら

思い出したのですが

それも苦い思い出です

修行もきつく、また責任も

重くのしかかり

ついに、悲鳴を上げて

「どうか、自分なんか

捨ててくださいと

もう駄目です」

根を上げてしまったのです

 

しかし、

その時は意味も分からず

ただ、きつく叱られました。

ちょうど

講義で出てきたところに

その答えがあったようです

 

「未熟だという意味の

障りなんです。

未熟だという意味は、

足らんのじゃない。

何かそこに

努力が足らんように

思っているけど、

足らんのじゃない。

 

何かやはり、

そこに本来の行というものを

妨げる妨げが

あるんじゃないかと。

 

我々は、

どんな力を持っているか

ということは、

自分で決めるわけにいかない

私はあきません

というようなことは、

越権なんですわ。

私は駄目だということは、

どこにそんな判断を

下す権利があるかね。

それがもうはや、

すでに間違いなんだ。

 

それは、

自分が自分を

所有しているから。

つまり、自分というものは

仏教の立場からいうと、

如来をもっとるんですわ。

如来の行をもっとる、

本来はね。

 

ただ、それを妨げいて、

出せれんのです。

だから、

私はどんなものであるか

ということは、

私の判断では決まらんのです

それを

決めてしまうというところに

何か知らん、

非常に越権ということが

あるんです。

 

私は偉い者だという言い方は

まだ、

そう偉くないんだと

いう具合に、反省することが

できるけど、

私はあかん者だというのは

もっと悪い判断なんだ。

 

わしは駄目な者だという

ことがですね、

それは冒涜に近いですわ。

自己冒涜というような

ものです。

そういうふうに、

自分を決めてしまう

ことがですね。

 

実は、人間には、

人間の分別では、

分別できないような、

大きな何かをもっとる。

それを如来蔵というんです。

あるいは、

仏性というような。

『如来において在るもの』

というんです。

何か、それが一番いい言葉の

ようですね。」

 

と、出ているのです。

なるほど、

ちょっと辛くなると

すぐ逃げ出したくなる。

そういう根性なんですね。

やはりそういうことが

自分を冒涜しているというか

本当の自分が分からない

ということです

師匠はそういう根性を

見逃さなった

今更ながら、そういう根性を

見抜いてくださった

師匠に感謝です。

 

でも、ちょっとやそっとでは

治らないようです。

 

 

 

 

コメント
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