本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自己とは何ぞや

2023-08-07 19:07:29 | 十地経

「自己とは何ぞや」

ということは

仏教の大命題なんですが

仏教ということがずっと

眠っていた状態が

続いたのです

 

白河法皇は

「鴨川の水、山法師、賽の目」

この三つが

自分の思うようにならないもの

としてあげています

信長も、

比叡山の焼き討ち、

一向衆徒の長い戦い、など

時の権力者は

宗教という勢力に悩まされ

いかにして治めるか

ということに

苦労してきたようです

 

そのことをよく見ていた

徳川家康は

宗教とは戦わずに

見方につけたのです

いかに宗教というものを

政の中に組み込み

ある面では利用したのです

 

そのことが

明治維新と同時に

宗教の世界においても

大きな精神革命があった

そのとき

仏教の原点に返り

「自己とは何ぞや」

ということを問い直された

方がおられます

 

講義では、よく

フランスから来られた

ジャクリーンさんのことを

取り上げておられます

 

「昨日、フランスの人で

ジャクリーンという女性が

来られて、

ながいこと私の家で

話しをしていきました。

フランスの修道院の出身で、

そこで教育を受けた人ですが

『歎異抄』によって

親鸞の教えに非常に感動した

 

親鸞という名前を知った

だけで日本にやって来た。

教団のことは何も知らない

のです。

そこらが、やはり

偉いものだと私はいつも

感心するのです。

 

親鸞という名前だけ覚えて

日本に来たという、

その勇気ですよ。

ちょっとこれは

日本人ではできないですね。

その人は今では

キリスト教ではなく

仏教信者です。

けれども生きている精神は

キリスト教です。

 

あれだけの孤独性ね。

民族とか国境というものを

超えて生きている。

独生独死というようなね。

日本ではちょっと

考えられないような女性です

 

その人が私の所へ来て

非常に感動して帰っていった

のは、キリスト教では

あらゆる問題が神に集中する

のですが、

仏教では逆だということです

人間が問題になる。

不可称・不可説・不可思議が

人間のことだ。

神が不可称・不可説・

不可思議ではない。

 

そこらがキリスト教の文化の

伝統とは違った仏教の伝統

というのもだろうと思います

 

人間が

人間にわからないのです。

人間は

人間の認識を超えている

のです。

 

「自己とは何ぞや」

という言葉は清沢先生の

言葉ですが、

自己を問題にするという点に

キリスト教では

ふれられなかったものに

ふれることができたと、

ジャクリーンさんは

言っておられました。

 

そういうことですね。

自覚教です。

自覚のために

法を主張するのでしょう。

法を通して

自己を明らかにする。

法を通さずに

自己を明らかにするのは

独だんです。

 

その法を代表するのが

ロゴスでしょう。

言葉です。

言葉を否定するのでは

ないのです。

そういう意味で

「真理の一言」と。

 

他人の体験を聞く

必要はないのです。

体験はその人の経験ですから

その人にならなければ、

百人の体験を聞いても

自分の体験にはならない。

 

聞くべきものは言葉です。

言葉を通して始めて、

聞けばそこに、

「ああ、ここにあったのか」

と頷くことができるわけです

 

言葉を通して自己に帰る。

自己に帰するような言葉、

説明ではない。

自分を根源に帰すような言葉

本来の自己に帰するような

言葉です。

そういうことがロゴスという

意味だろうと思います。」

 

「自己とは何ぞや」

という問いを忘れたとき

堕落するし

人間として生まれた意味も

色褪せてしまうし

地位や権力財力ということも

意味をなくしてしまう

ということでしょう。

 

 

 

 

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