本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

常修(じょうしゅ)寝ても覚めても

2023-08-09 20:49:11 | 十地経

常修、常に修行する

比叡山には常行三昧堂

というお堂があります

90日間常に阿弥陀仏の名を

唱え続けるという修行です

 

十地経の中に

「無功用行」ムクユウギョウ

ということが出てきました

その反対が「有功用行」

ですが、これは

努力の限りを尽くすという

その反対ですから

無功用ということは

もう努力が努力ということで

なくなってくる

まあ、舞台の稽古とかで

その芸が板に付く

というようなことです。

 

ですから、常修ということは

修行をやっていることが

そういう意識も

修行しているという

意識もなくなってくる

ということです

 

それで講義では

 

「常修ということですね、

日夜常修というんです。

常修ということがですね、

これが無功用行というものを

まさしく表す概念が

常修じゃないかと思う。

 

自然ジネンというものの

中心概念、無功用行の

中心概念が常修じゃないか。

日夜、昼も夜もだ。

寝ても覚めてもです。

目の開いているときだけ

というんじゃないんです。

 

努力でやるという限り、

やっぱり暇がある。

休むときと、

やるときがある。

むしろ努力というような

ものでつかめない。

努力のないところに

常修がある。

 

もう、あることが

修行していることなんだ、

寝ても覚めてもというような

何か分布表を置いて

修行しとるんじゃないしね。

 

もう手段と目標とが区別が

ないんです。

やること自身が目的なんです

結果なんか眼中にないんです

そういうとこに

常修ということがある。

これが無功用行の

面目じゃないか。」

 

というように出てきます。

寝ても覚めても

いい言葉です。

いざやると大変ですが、

何か集中してやるというと

寝ても覚めてもということが

当たり前になってくるし

それがかえって心地よい

という世界です。

 

まあ、ちょっと一服

ということがありますが

タバコを止めたとき

ちょっと一服がなくなって

何かしら寂しい思いをした

ことがありますが

よく師匠から言われたことは

「ちょっと一服なんかいらん

一服する時は死ぬときや」

ということです。

 

講義で言われる

「手段と目標が区別がない

やること自身が目的

その日その日が目的」

何かしら身に沁みる言葉です

 

言い換えれば

その日その日が人生

ということにもなるのでは

ないでしょうか

やがて、ではなく

その日その日がその人の

全人生

そういう日々を送れたら

と思うのですが

やはり何かしら目的のような

ものを考えてしてしまいます

しかし、

事実は

その日その日を全人生として

送っているのです。

 

 

 

 

 

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