本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

回心転身(えしん・てんしん)

2023-09-06 20:45:37 | 十地経

「身」ということが

どうも腑に落ちなくて

この辺りを行きつ戻りつ

しているのですが、

 

「回心転身、

転身の身の場合、

身という字を書くし、

回の場合、

心という字を書く。」

 

同じ変わるといっても

心の場合は回転の回になる

身の場合は転になる

身と心では

同じ変わるといっても

転と回と厳密に分けている

のです

 

身ということは

何度も読み返しているのです

がどうもしっくりこない。

講義では道元禅師のことを

出して、

 

「道元禅師は、

心身脱落(シンシンダツラク)

といっています。

心身脱落というのはつまり

心身の回転です。

転依テンエなんです。

唯識の言葉では転依と

いうことをいうんです。

いい言葉です。

依止エシの回転という。

唯識の教学では

転依ということを

いうんです。

 

道元禅師は心身脱落といった

ただ心身脱落というと、

心身がなくなったことだと、

そこをまた固定するんです。

だからして、

心身脱落というと、

心身の他に何か脱落という

ようなものを特別に考える。

 

それではいかんから、

脱落心身と、

すぐ言い返してくる。

心身の脱落、

脱落ということで

本当に心身が成り立つんだと

こういう具合にね、

言い返してくるんです。

心身脱落・脱落心身と」

 

心身脱落ということも

辞書を見ると

「心身共に

このままでありながら、

この身心は我が物である

という執着を離れて

無心の境界に入るのをいう」

とあります。

 

いわれてみれば

自由であるようですけど

身も心も我が物として

執着しているのです

これは意識するしないに

かかわらず根の深いものです

「俺が、自分が」と

何かにつけて「我」

自分というものを

表に出してきます。

 

それからもう一点、

講義で、

「経験はそのままでいいんだ

ただ煩悩が、

欲が深いとか、腹が立つとか、

そういうようなことは

さわらなくてもいいと

いうんだ。

その成り立つ場所を変えよ

というんだ。」

 

と前にも出てきました

成り立つ場所、身を変えよ

そういう腹が立つとか

それを縁として

自分を変えていく、

深めていく、といいます。

 

ふと思うのは

日頃何気なく唱えている

「十善戒」

不殺生・不偸盗・不邪淫と

続きますが

ある知り合いの方

どうもこの十善戒が

引っかかるというんです

どうにも自分は守れない

特に「不邪淫」が …

でも、

そこが気になるというだけ

まだ立派で、

何も気にならなく

唱えている方が問題です。

 

しかし、

この「十善戒」

どの一つを取ってみても

守れるものではありません

なぜ、守れない戒を

繰り返し唱えるのか

という問題が残ります。

 

「美味しい、けどごめん

いのちをいただきます」

最近はグルメで

特に美味しいものを求めて

次から次に食べ尽くしている

のですが

そこには

食べなければ生きられない

ごめん、といいつつ

反面、美味しいという

大きな矛盾があります

 

食べれば殺生

食べなければ

自分を殺生してしまう

ということになります

どうにもならない

大きな矛盾に立たされて

生きているのが

私たちの生き様です。

 

身ということも

そういう問題を抱えています

しかし

ただ、当たり前のように

何の矛盾もなく食べている

そういうことを

ふと立ち止まって考える

そういうことが

自分を深めていくことにも

なるのではないでしょうか。

 

なかなか、これ、と

言えるものではないのですが

こういう何かヒントとして

考えることも大事なのでは

ないかと思います。

 

 

 

 

コメント
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