本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

業道自然(ごうどうじねん)

2023-09-18 19:42:30 | 十地経

自然(じねん)ということも

辞書ではどのように定義

しているか見てみましょう

 

「さとりの世界が

有無のはからい(分別)を

こえはなれて空であり、

真理そのもの(真如)として

それ自身独立自存し、

無為自然といい、

或は善悪の行為によって

因果の法則どおりに結果を

生ずることを業道自然

という。」

 

ちょっと難しいですが

このように厳密に書いています

では講義は、

 

「自然といったことはね、

非常に大事な概念だと

思っています。

まあ、一番広い業道自然

ということですね。

『業』ということは、

今いった煩悩、煩悩もあり、

また業もあり、

また、

業によって苦悩する世界

というものが

出ているわけでしょう。

 

こういうようなものが

現実の世界。

まあ、業で代表しているん

ですけど、

現実の世界というものは。

しかし、

煩悩によって、

迷っていろいろ、苦しんで

いるという。

 

けど迷って苦しんでおる

ということは迷いじゃない。

まあそれは因縁の法則や。

これが不思議なこと。

迷って苦しんでいることも

迷いなら

何もないことになる。

妄想起こして苦しんでいる

ことは妄想じゃないんだ。

 

はっきりした

真理に支えられているんです

それは、妄想と喧嘩している

真理じゃないんだ。

妄想を包んどる真理や。

存在の真理というものは、

そういうもんです。

 

だから、業道自然といって、

業道も、業の因果の世界

もまた自然だと。

ええ加減に考えたことじゃ

あない。

煩悩を起こすということも、

そう考えているんじゃない、

考えを超えとるんだ、

我々が煩悩を起こしてくる

ということは。

 

煩悩を起こせば、

すぐそれによって業が自然に

作るまいと思っても、

作られていく。

作られれば、

それによって作ったものから

縛られる。

自然の法則ですわ。

 

我々が、この煩悩や業で

悩んでいるということも

ですね、

成り立たせるものが

自然なんだ。」

 

というように出てきます

この個所も思い出すのは

煩悩は自分で起こして

自分で苦しんでいると

思っているのですが、

自分が起こした煩悩なら

自分で止められるはずです

また、反対に

今すぐこの場で煩悩を

起こして見よと言われても

起こせるものではありません

 

自分の思いを超えて

起こってくる

そこに業道自然という

ことがあると思うのです。

 

また、迷いだらけで

煩悩も108では足りません

ということも聞きます。

では、

どのような煩悩がありますか

と聞くと、せめて

五つも答えられないでしょう

 

しかし、

煩悩が分かるということは

その煩悩を煩悩と知る

正しい教がが自分の中に

あるはずです。

 

目的地へ行こうと

地図を広げて

見て歩むのですが

道を間違えたかどうかは

正しい地図があるからです

だから、

間違いが分かるということは

大きな問題で

ある面では

さとりという世界が

近づいてきているとも

いえるのではないでしょうか

 

迷っている時は

何が何だか分からなくて

迷っていることも

分からないし

まして正しい方向に

歩んでいるともいえない

そういうことを

真っ暗な闇の世界と

いっているのでしょう。

そこで、

方向も分からず

行き当たりばったり

うろうろしているというのが

私たちのありようです。

 

ですから、

自分の過ちが分かる

ということは

本当は素晴らしいことの

ように思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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