本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

理性的本能が菩提の願

2024-05-01 20:29:46 | 十地経

理性と本能というのは

相反する言葉のようです

しかし、

本能ということの中には

ただ動物的な本能

ではなしに根底にある

人間の要求のようなものを

こう呼ばれたのでしょう。

 

「理性は本能というて、

まああ、本能jに対して

理知というんアけど、

これはですね、

分かりやすくいえば

本能というのは、

単に感性的な、感覚的と

いうような本能じゃないん

です。

 

理性的本能があるのじゃ

ないかと思います。

人間の理性というのは

動物の本能と違って、

ただ感性的なものばっかり

じゃない。

こういう意味じゃなしに、

理性というものの、

一つの本能を持っているん

じゃないか。

 

それを願というじゃないか

願と。

菩提の願といったら、

理性的本能じゃないか。

そういうものが何か、

道(どう)とか道(みち)

とかというものが

表しているんじゃないか。

 

何か道(地)とかは

人間が立つところであり、

これ(道)は人間が

歩むところですね。

それは衆生でしょう。

衆生がそこに生き、

またそこに立ち上がる

ところですね。

 

そこを歩むところですね。

そのようなところを

道とか地というのでしょう

だから人間を離れれば、

そういうものは

ないわけです。

しかし、

人間が関係しているけど

人間を超えている。

 

人間…… 、

人間がですね、

自分の足の力で歩むんじゃ

ない。

足の力で歩むものじゃない

我々が困っているのは

立つところが分からない

から困っている。

 

これまでの

持っているような意識じゃ、

なんていいますか

突っ張りにもならん。

自分達の頭の内を考えて

みたところで、

調子のいいときは

いいけど、

ちょっと具合が悪ければ

すぐぐらつくでしょう。

焦ってみたところで、

一向、頼りないもんだ。

 

道というのは

地の内容なんだから。

道というものを内容として

おるものが大地なんだ。

そういうものを求めるのが

大事なんだ。

 

そりゃ、人間が

自分で自分を完成すると、

実質的に何にもよらん

自分になると。

これがつまり菩提です。

 

こういうものは

人間の外にあるものじゃ

ないし、

また、

人間の中にあるものだけど

人間を超えているんだ。

そういうものが

理性じゃないでしょうか」

 

菩提ということは

bodhi(ボーディ)の

音写で、

覚とか智とか道と

訳されます。

ですから、

菩薩ということも

(菩提・薩埵)ボダイサッタ

覚有情と訳されます。

 

こういう心を内面に

持っている、内包している

しかし、

普段は気が付かない。

何か都合の悪いことが

起こると途端に

問題が起こってきて

困ってしまうのですが

何かの拍子で解決すると

その問題は忘れてしまう

 

しかし、

どうにもならない

究極的にも解決できない

問題が起こってくると

そこからが

本当の求道になってくる。

そういう求める心を

菩提心、ここでは

理性的本能と言っている

ようです。

 

なかなか、

普段の意識では

感じ取ることができない

ですから、

こういう本も世間の意識

損得の勘定の意識では

読めないものではないかと

思いますが、

 

読まないと更に遠ざかる

難しくても

読み続けていく

それによって自我の心が

くだけてくるときが

あるように思います

また、それしかない

ようにも思います。

 

 

 

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