本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

七地沈空の難

2024-05-30 17:53:38 | 十地経

七地沈空・しちじちんくう

の難、ということが

七地の大きな難関です。

空に沈むという。

空ということは、

一切は因縁によって生じる

ということで、

我とか本体とか実体はない

ということです。

それで、一切皆空イッサイカイクウ

といわれます。

 

空は虚無ではなく、

空を観ずることは真実なる

価値の発見ですから、

空のままが妙有であると

いわれます。

 

ただ陥りやすい問題は

空を虚無的にとらえると

悪趣空アクシュクウという世界に

陥ってしまいます。

 

「一地、二地、三地という

ように、梯子段のように

ずっと続いているような、

直線的に、

そういうもんじゃなしに、

何かそこに一つの難関と

いうようなものを包んどる

ということがあるわけです

 

それは一つの方向転換です

これは何ですよ、

頭で考えたというもんじゃ

ないですよ。

やってみないと

そういうことは分からん。

やれば必ずそういうとこに

行きあたるんです。

 

『十地経』というのは

行きあたった人が、それを

超えてきた歴史なんです。

 

七地沈空といってですね、

七地沈空の難

ということがいわれている

それで、

沈空というのは、

経文に当てていえば第六地

なんです。

空というのは、般若という

意味です。

第六地は般若が現前した

という意味ですから。

何もないという意味じゃ

ないんです。

 

空を悟るのは智慧ですけど

空に沈んだら

それは智慧じゃないです。

執着です。

空を悟るというと、

その悟られた空に執着する

というような。

空を固定化するんだ。

 

だから般若でも、

空もまた空ということが

あるんです。

空と固定化すれば

その固定したものもさらに

空でなきゃならんと。

 

その空というものを固定化

すればですね、

それは大いなる有です。

せっかく底が抜けたのに、

その抜けた底を、

抜けた底とというような

ことを考えたらですね、

 

せっかく到達したものに、

停滞してしまうと。

そうするというともう、

停滞する以前に、

ちょっと損したという

もんじゃないんだ。

 

第六地にきてそこで沈滞

すると第五地に下がった

というもんじゃない。

もう元も子もなくなって

しまうというのでしょう。

全部を失ってしまうと。」

 

ここに

修行の大切さがあります。

もうここまで来たから

これくらいでいいだろうと

修行をやめてしまうと

そこに止まるのではなく

元の木阿弥、

すべてをなくしてしまう

そういう危険性が

あるのです。

だからよく言われるのは

修行は死ぬまで

これでいいということは

ないんです。

 

なかなか厳しいようです

けど、歩み続けると

自然無功用行という、

行が遊びになるという

そういう世界が開けてくる

というのでしょう。

 

まだまだの世界ですが、

『十地経』では

そういうことを述べている

ようです。

 

 

 

 

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