亡き母には3人の兄弟がいました。
兄弟は長男・母(長女)・次男・三男の順番です。
4人のうち一番早くに亡くなったのは、ワタシの母。
その後、長男、次男が亡くなり、最後に残った三男は兄弟すべてを見送りきっと寂しかったことでしょう。
その三男の叔父を先日送りました…。
怖い(気がしていた)叔父さんが多い中、三男の叔父は気さくで近寄りやすい人でした。
とてもマメで、家族の行事(伯父の勲受章パーティーや法事など)の後には必ず自作のアルバムを送ってくれました。
日本が高度成長期でアゲアゲだった頃、自動車の販売でバンバン売り上げを伸ばし、退職後には自分で行政書士などを務め、とてもよく働きとてもよく稼いだ叔父でした。
叔父はどういうわけかサッポロビールが好きで(というか他のメーカーのビールでは飲まないのです)、偶然ワタシがその会社に就職が決まったときにはとても喜んでくれました。
ワタシは会うたび「ビールがんばってるか?」と聞かれましたが、果たしてそれは本当だったのだろうか?と実のところずっと疑問でした。
だってビール好きなら、どこのメーカーのだってこだわらずに飲むんじゃないかと思ったから。
姉たちと寒い夜に通夜に向かい、祭壇を目にしたとき、あぁやっぱりそれは本当だったんだと再確認するに至りました。
祭壇には叔父の好物としてサッポロ缶ビールとジャムパンが備えられていたのです。
車いすに乗った叔父の写真の手にも星のマーク。
その写真の叔父は町ですれ違ったら気がつかないかもしれないくらい痩せていたけれど、ファミリーでリラックスして撮られた写真にもサッポロビールがありました。
「どうしてサッポロを好きだったの?」
いとこの哲ちゃんに聞いてみても、息子でも理由はわからないらしい。
でも「それ以外飲まない!って言われちゃうんだからさ、用意するしかないじゃんねぇ」と首をひねるばかりです。
そんな叔父でした。
「姉さん、姉さん」と母を慕い、近くに来たときには本当に立ち寄ってくれました。
手土産は必ず草加せんべいでした。
渋る父を「兄さん行こうよ」と説得し、お小遣い以外の費用を全もちでワタシの両親を香港に連れて行ってくれたこともあります。
ワタシがサッポロビール退職時に家族をハワイに連れていこうとしても、絶対に行くと言わなかった父(結局父はお留守番しました)をどうやって説得したのでしょう?
香港から帰ってきた父は、私たち三姉妹にたくさんのお土産を買って来ていて、すごく高揚していたのをはっきりと覚えています。
戦争で苦労してきた父にそんな経験をさせてくれたこと、とてもありがたいことです。
議員をしていた長男の伯父、誰もが知るマンモス大学の理事だった次男の叔父の葬儀はそれはそれは大きなものでした。
栃木の庭から向こうの畑まで、大きな白黒花輪が見えなくなるほど送られました。
市井の主婦だった母の葬儀でさえ、100を超す大勢の人に見送られ感謝したほどです。
けれど三男の叔父の葬儀はひっそりと家族で執り行われました。
それがご時世なのです。
もうお互いが高齢になり、いくら友達同士でも送り送られはできなくなっています。
現に叔父にとっての一番の親友はまだ存命ではあるけれど、落ち込んでしまうのが怖いとの理由で叔父の死は家族止まりで本人には伝えないことになったと言います。
次の日は仕事だったので、私たち三姉妹はお通夜に行きました。
いとこたちと「うちは夜に行く、そっちは翌朝でお願い」と手分けして、叔父が寂しくないようにみんなで送りました。
寒い寒い夜でした…。
もう母の兄弟も父の兄弟もいなくなり、あとは少しの配偶者が残るだけです。
子供だった私たちを導いてくれた人生の先輩が一人また一人と世を去り、いやがおうにも「しっかりしなきゃ」と自覚させられますね。
駅から斎場までの寒空を姉の手をひいて歩いたあの光景はきっと忘れないだろうな。
叔父の冥福を心から祈ります。
本当にありがとう。
行雄おじさん。