こんなこと考えるだけでも許されないことなのに、まして梅雨すら開けていないこの時期に。こんな気持ち、抑えるべきなのは頭で分かっているのだが、胸が張り裂けそうになるほど抑えがたい。
ふだんは慎みのある大人として振舞い、周りからもある程度は認めてもらっているはずだ。なのに理性が飛んでしまう。
ああ、いかん、もうこれ以上は黙っていられない。
「阪神が6.5ゲームも差をつけて首位だ」
コテコテのデキシーランドジャズ、「タイガーラグ」が、身体中を駈け抜けている、幸せな日々だ。
こんなこと考えるだけでも許されないことなのに、まして梅雨すら開けていないこの時期に。こんな気持ち、抑えるべきなのは頭で分かっているのだが、胸が張り裂けそうになるほど抑えがたい。
ふだんは慎みのある大人として振舞い、周りからもある程度は認めてもらっているはずだ。なのに理性が飛んでしまう。
ああ、いかん、もうこれ以上は黙っていられない。
「阪神が6.5ゲームも差をつけて首位だ」
コテコテのデキシーランドジャズ、「タイガーラグ」が、身体中を駈け抜けている、幸せな日々だ。
それでも立ち上がらない。
ハードディスクが認識されているのだから、リカバリすればよい。ご本人に了承の確認をとったうえで実行することに。
Windowsが起動しない状態でリカバリをかけるには、電源投入後、VAIOのロゴが表示されたらすかさずF10キーを押す。すると、[VAIOシステムリカバリユーティリティ]画面になる。そして、「次へ」だ。
何とここでブルースクリーンになってしまった。長ったらしい英文が表示される。虚しい気分で書き留めるしかなかった。
何度試しても同じ結果になる。4度目、この時点で断念することにする。修理が賢明のようだ。
データのバックアップをとっておかなかったのが惜しい。昨年、年賀状のために何日もかけて入力したのがはかなく消えてしまった。以前、拙ブログで書いたことだが、リカバリディスクを作っておくことも必要だったように思う。HDDが駄目かも知れないが、手立ての選択肢が増えただろうから。それにしても、すべてがあとの祭りだ。
切ない気分を小田和正の「そうかな」で癒してみた。
ブログの特徴の最たるものにトラックバックがあげられるが、未だに利用していない。ブログでは先輩のmogeさんいわく、
「トラバ返しをしやないかんので煩わしい」
のだそうだ。面倒臭がりにかけては同人種だから、”右へナラエ”を決め込んだ。
さてこのトラバの山、連日、しかも日に2回の時もあって、不徳の致すところか、と、思わず反省しかけたが、
「何でぼくが悔い改めやないかん」
聖人君子は、ひたすら、黙々と、削除に努めた。思わぬ時間を喰ってしまったが、人格を疑われるようなものは捨ててはおけない。
拙ブログに貼られるトラックバックは、本人の趣味嗜好、および人格にはいっさい関係ないものであり、踏んだことによる責任はいっさい負えないことを、あらかじめお断りしておきたい。
怒涛の水曜日と呼ぶにふさわしく、今日も活気がみなぎった。やんちゃ姫様方から元気の素を数多くいただいた。頭の引き出しからかき集めなければ対応できないコンテンツが多く、畢竟、刺激的な授業になり、緊張しっ放しなのだが、とにかく楽しい。もっとも他の日だってみなさんのテンションは同じで、そうかぁ、だから毎日時間が経つのが早いのだ。昨日だってそうだった。時間の足りなさを痛感したし、進め方の稚拙さに思い至り反省もしたばかりだ。みなさんには心から感謝するばかりだ。
で、ようやく昨夜から”ごくせん”を見始めた。ますます時間が足りなくなる。夏休みには娘と『チャングムの誓い』を観るつもりでいるし、時間の有効な使い方を図らねば…。と、まあ、今夜のブログの内容はこんなものだが、水曜夜は抜け殻だ。
久々にWindows Media Playerでインターネットラジオのカントリーを楽しもうと選曲を試みたところ最新のバージョンではどうも勝手が違っている。そこで、「ホンキートンクレイディオ」の公式サイトで、無料登録の仕方から聴き方まで学習させていただいてから、すっかり楽しんでいる。気分はまるで受験生時代だ。"Country_Girls_Only" いきなりリアン・ライムス、デキシーチックス、フェイス・ヒルと来た。初っ端からこの顔ぶれだから、ハマりそうで怖い気もする。
子どもの頃のことだ。朝、鈍い鉛色の空が覆うとき決まって我が家に海鳴りが届いたものだ。残響をともない、古びた家屋を揺さぶるかのごときその音は、不気味さを湛え、臆病なぼくは布団から出られなかった。
国府の浜からこの鵜方の町までは4キロばかりか。小高い丘を越さなければならず随分遠く感じるが地形図でみれば拍子抜けするほど近い。それでも海から波の打ち寄せる音が聞こえる日はそれほどあるものではない。
都会並みの喧騒を覚える現在、自然の音に耳を傾けることが少なくなったと思う。日常の生活に文明の音を受け入れてしまうがあまり、感覚が鈍化してしまったのだろうか。そういえば、懐かしい音がある。ちょうど今頃の季節、ポンポンポン、ポンポンポンと、英虞湾を行き交う船の焼玉エンジンの音がよく響いたものだった。湾上のラッシュアワー、真珠養殖の最盛期だった。
サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が流れている。流行ったころ、
「静寂に音があるのか」
と、高校生だったぼくは驚き、禅問答のように思えて解釈に苦しんだ。音楽にも深く感じ入り、思索に努めたこともあったのだ。当時の懐かしい音源を見つけた。P.F.Sloan 孤独の世界だ。ベトナム反戦の波は日本にも押し寄せ、ガキのぼくにも無関心ではいられなかった。過激な歌詞を含む反戦ソング、バリー・マクガイアが歌う『明日なき世界(Eve of Destruction)』は、放送自粛にもかかわらず世界中を席巻したが、その作者がP.F.Sloan(スローン)だ。
教会の鐘の音が聴こえるかい?
天使の泣く声が聴こえるかい?
うってかわって内省的で静かだが、歌詞は深い。
Macによる作品は教室でも珍しいのではないだろうか。オーサリング(HP作成)ソフトは、例のGoliveだ。動画がメインのページだからQuicktimeが必要になる。
Macだと、この動画の取り込みと加工が実に簡単だ。付属のiMovieというソフトにいくつかの動画ファイルをドラッグアンドドロップするだけで、トランジット(場面切り替え)など好みのパターンが選べ、お洒落で印象深い作品にできあがるのだ。もちろんwindowsでも処理は可能だが、カメラなど機材に付属しているものの、アプリケーションを用意する必要があるし、また、このソフトがいささかショボイことがある。
加工が簡単だ、と、処理は可能だ、という表現のニュアンスの違い。これは大きい。レストランなら炎を上げるフライパンがフェードアウトして小粋に盛り付けられたお皿がフェイドインする…、こんなのがさらっと作れてしまえば楽しい。また、ホテルなら客室からの眺望をズームやパーンするのみか、180度展開させるページだったらインパクトを与えるだろう。
今回のS氏の作品が皆さんにいろんな刺激をもたらしてくれるだろう。時間があれば、トップページのメールアドレスまで感想を寄せていただけたらありがたい。全国を股にかけ移動を繰り返す彼が、出張先で
「ニヤーッ」
とする顔が目に浮かぶようである。
実は大変なことを忘れていた。高校時代の同級生の個展がボナールで今日までだった。案内までもらっていたのに駆けつけたときには、既に撤収済みで、誰も居ないというありさまだ。最終日は4時までだったのか。
集合場所に馳せ参ずれば人っ子一人居ない…。学生の頃もこうだったなぁ。「木綿のハンカチーフ」をカーステレオで聴きながら帰るしかなかった。
今日、偶然にも同じようなことを考えていました。
右傾化っていうか正常化だと思うんですよね。当然の主張をできるようになったっていうことで…。
右傾化とか言ってるやつのほうがよっぽど偏ってると思います。
七夕の夜に艶っぽさの欠片(かけら)もないことに心を傾けていいのだろうか。彼は釣り人だ。
誰も居ない磯にひとり竿をたらしていると沖から見知らぬ船が近づいて来て…
なんぞというシーンがないことを祈るばかりだ。考えるだけでゾッとする話が現実に起こり、何も手出しが出来ない。そして、こういう話をすれば"nationalistic"と色づけしようとする妖しげな動き、摩訶不思議な風潮がある。
そんな思いを吹き飛ばすかのように、梅雨時にはまれな心地よい風が吹く一日だった。中学校のグランドでは野球部員が球を追い、蹴球部員が駆け回っていた。片隅では校長先生が溝掃除の作業に余念がない。事務室のパソコンを保守点検しながら見惚れてしまった。当たり前の光景を当たり前に眺められる幸せだ。こんなオヤジにも気持ちよく、
「こんにちは」
と声をかけてくれる学生の笑顔、この町も捨てたものではない。元気をもらった。
ところで、今日のブログ、新しいワザを使っている。mogeさんのコメント部分に<BLOCKQUOTE>~</BLOCKQUOTE>のタグを使った。さらに、太字の部分をそのまま日記に書くと即反映されてしまうので、「特別な文字を表示させる」手法を用いて活かしている。Web作成モードの日々が続いているのだ。
8年前にはこんな自分がいるとは想像も出来なかった。パソコンの世界が進歩するにつれ、ぼくもその歩みに追随しようとしている。今はゴールを見る余裕さえなく食らいついているものの、先が見えない分不安でもある。今こそ”やんちゃ”になるときかも知れない。
ブラザース・フォアの「七つの水仙」がとてもいいと思った。
私には土地や財産がない。しかし私はあなたに希望の朝と愛の接吻を、そして七つの水仙を贈ることができる
アバウトな大意だが、今ごろの女性にはとても受け入れがたいだろう。が、昔、日本にはアンサーソングができていたのだ。
お金も着物も要らないわ あなたひとりが欲しいのよ
ご存知、「お座敷小唄」だ。彼我の感性、その差異のほどがたまらなく、面白い。
考えるだけでも怖ろしいし、第一、考えたくもないことだ。しかし、現実にそんな被害者が居られることが明らかになったし、加害者がはっきり自白したにもかかわらず、彼らの残されたご家族に曙光の兆しすら見られない。拉致されてから四半世紀、信じられないことに事態の多くが解決していない。
他人事なのだろうか。いや違う。もしかしたら我が身に起こっていたかも知れないことなのだ。今、ぼくたちにはっきり分かることがある。何の落ち度もなくわが子が外国機関の工作員によって連れ去られても、この国は誰も助けてくれないのだ。国家は迅速に解決に向かって対応してくれないのだ。やられ放題なのか。
一部マスコミは、世論がnationalisticな方向に向かいつつある、という。思わず仰け反った。最近では野党党首ですら同様の発言をしている。政権交代にとって微妙な時宜に言うのか。横山ホットブラザーズを呼びたくなった。
「お・ま・え・は・あ・ほ・かぁ」
本気でそう考えているのか? たいした人権感覚だ。ぼくのような素朴な考えを右翼側と決めつけるに等しい発言だ。拉致に対して毅然と
「返せ」
と迫り、世界で唯一の失敗国家が非を認めた時点で、解決に向かって一丸となった強硬な包囲網を敷けば、相手の対応も違っていたことだろう。非道に対してはそれを許さないのが正義だ。それが行き届けば、"nationalistic"なんぞという文言はその時点できれいに消滅したはずだ。
相手に対して誤ったメッセージを伝えかねない、まるで援護射撃(どちらの)のごとき論調に、最近では、マスコミ不信が募っている。ホリエモンが言った、
「マスコミは真実を伝えきっていない」
は正しい(でも、あんたには報道に携わって欲しくない)。
ニュースはネットで。マスコミが伝えようとする商品にはフィルターやレイヤーがかけられ、きついバイアスがかかっているように思えてならないのだ。いくつかのニュースソースを比較参照し、新聞などが伝えきっていない事柄を拾い出すのが日課となっている。
織姫と彦星がこっそり逢引をしている時間帯か。辛くはかない逢瀬だ、それでも年に一度は逢えるのだ。七夕の夜、海の向こうから、父、母を呼ぶ声が聞こえるようで切ない。ぼくの子どもたちであり、兄弟なのだ。
信じてはもらえないだろうが、ぼくはシャイだ。それに見栄っ張りの部分を自覚する。まるっきり英語を喋れないのではない、と思いたい(いよーッ、見栄っ張り!)。片言でもよいはずなのに、自分の話す言葉が文法的に正しくないと指摘されるのが怖いだけだ、と分析した(いよーッ、見栄…!)。羞恥+誇りを意識をしすぎるのだから、正しい英語を耳になじませれば乏しいリズム感でも何とかいけるのでは(楽天家でもある…)。例えば、冠詞だ。ここは The を使うべきだろうか…、それとも? 人様からみたら些末にこだわっているように見えるだろう。それを繰り返し流すことで克服してやろう、と決意した。
暇があれば必ずかけ、耳にするよう努めているのだが、しかし、何でムカつくのだろう、英語って(短気でもある)。日々我慢の日だ。パソコンの便利さはこんなところにも現われる。気軽に聴けてしまうから。イントネーションというのだろうか、リズムでかぎ分けるコツのようなものは見えてきたが、万全とは言いがたい。それでも続けようとしている、自分がいる。この粘着さ加減は自分でも想定外だ。まあ、いわば文字通り聞き流しているだけなのだから、安易といえば安易な話だ。
テネシー州はナッシュビル、どこにでもあるような街角の公園のベンチで、ひとり黙々とギターで弾き語るカントリー・シンガーの卵がいる。
「お上手ですね。ライマン公会堂でのステージは何時なんです?」
流暢に英語で質問するのは、ぼくの未来の姿か。いつしかうちとけて会話が弾む。ぼくのために新曲を披露してくれるひたむきな女性のブロンドの髪をそよ風が撫でて行く。いい光景ではないか。映画のsceneのようだ。
誇大妄想の気配も濃厚のようだ。
今日は突発的な出張が入った。極端に遅くなった職場のパソコンを見て欲しいというもの。空き時間とのタイミングが絶妙で出向くことができた。冷静に観察すると、システムトレイに、「180search assistant」が常駐しているではないか。この予断と発見はK氏のおかげだ。氏宅のと同じ症状だ。さらに冷静を努めて駆除することができた。
ぼくたちは車を運転するときに必ずダッシュボードの計器類を意識している。それと同じくパソコンだって注意を注ぐ必要がある。いつもと同じ画面かどうか、あるべきところに余分なものが忍び込んでいないか、または、消えていないか。常態を知ることがとても大切だなと実感した一日だ。
ユーミンの「やさしさに包まれたなら」を聴いて発見、荒井由実なのだ。何を今さらなのだが、歌詞だって素晴らしいことに気づいた。いつも発見は遅れてやってくる。
小さい頃は神様がいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱開くときは今
はて、ぼくに娘がいるはずで…、それも立派に成人してくれて…。その幼いころの娘の姿がまぶたに浮かんできて、ほろっとさせられる。
アイロンがけはシュープリ-ムスを聴きながらやると楽しく仕上がることはすでに学んでいる。トイレ掃除はバラードがよいようだ。雰囲気の問題ではなく、ビートが利きすぎると勢いがよ過ぎて跳ね返りに泣くことになる。
一旦働き、まさにその通りで、やるときはやる。が、その頻度が問題にしろ、舐めてもよいぐらい丹念な仕事ぶりだ。言葉のあやで実際に舐める訳ではないとお断りしておく。狭い空間だから、それなりに神経を使いつつビッショリ汗をかいた。あまりに心地よくてついでにシンク周りもと考えたが、これは逆順だろうと差し控えた。半端でおくあたりまさに面目躍如か。
作業中は時宜を得て、カスケーズの「悲しき雨音」がうまくはまったのだが、この懐メロポップス、「悲しき」シリーズってずい分数多くあったような記憶がある。「悲しき街角」、「悲しき足音」、「悲しき願い」…、柳の下のドジョウねらいが日本式だろうか。それにしても「悲しき雨音」ほどリリカルで美しい曲には恵まれていないようだ。
で、気がかりな水不足、ここで確かめた。4日現在、神路ダムの貯水率は46.6%で、わずかだが増加している。慎重を期したこともありトイレ掃除の影響はなさそうだ。よかった。