平成25年11月26日に公開された「国立大学改革プラン」がある。それをどうするのかは今各国立大学内で話し合われているのだが、その内容があまり良くない。一部では国立大学では文系部門は私学に任せて、理系は国立に任せようと言う風に解釈されている。実際ネットでもそう議論されているし、私が集めた情報でもその流れにある。
まあ平成16年の独法化でも、平成28年度までに自前で食って行けるようにしろ!という話だったが、まだ緩かった。25年に出たのはかなりキツイもので、今から3年間でどう変えるのか、かなり難しいものがある。
昔と違い大学の教育ですが、相当改善はされて来ています。多分どの大学でもそうだと思います。ただこれも実際入学する学生が幼くなっており、それにあわせないと授業が成り立たない状況にあるから努力して来たわけです。その上、優しく解りやすくするために時間を使うようになり、深く専門的な領域まで講義できない状況にあると思います。狭く浅くしか講義できないとなれば、当然どんな講義もそこそこの内容しか無くなります。大学教育としてはどうなのかと言う問題もあるわけです。
今回国立は理系、私学は文系というニュアンスのあるプランですが、これは昔っからいわれて来たこと、私学文系・国立・理系と同じです。確かに私学にはユニークな教授がいますし各界で活躍している卒業生が多く見られます。ただこれには、以前私学だとお金持ちが多かった事と、もともと受験科目が少なかった事で突出した人が集まっていたからともいえます。またそれら教授は授業数が多いので極めて多忙、そして卒論指導も抱える学生の多さからどうしても手が回らない状態にあります。そう言った中での自由さからユニークな卒業生を排出できているともいえます。
国立理系なのですが、やはり私学の教授の多忙さからどうしても研究が思うように出来ない側面があります。結果長期にわたっての研究ではどうしても国立の方が有利になります。私学の方が実は研究予算が多かったり最新設備があったりするのですが、時間の問題が大きいと思います。
ただやはり国立文系は時間の制約が少なく、充実した教育を受けられる環境にもありいい教育が受けられるのですが、なぜか地味です。この理由には、国立には基礎系の先生を多く集める傾向にあると思うからです。なので社会に出てからすぐに役立つ事ばかりではないのが多いです。そして私学に比べると研究予算が低いのが問題になります。少ない予算で、コツコツと資料を集め続けて行くしか無い、そう言った違いがあります。
世の中すぐに使える知識ばかりがもてはやされますが、実際にはすぐに使えるものはすぐに使えなくなると言う麺もあり、基礎的な所から応用して行くほうが長続きできると言うのは確かだと思います。国立文系教育の良さはここにあるのですが、一般的には軽んじられていると思います。
逆に実学の代表である工学部、東工大が有名ですが、基礎教養科目の充実を歌っています。これはなぜかと言えば、実学の問題点を考えているからです。工学はタコツボに陥りやすい所があります。先端を走れば走るほどその領域しか知らなくなる傾向にあります。幅広く深くと言うのでは先端は走れないわけです。そのため横串として教養が必要だと考えているのです。また新たな発想力には違う領域の知識が必要だというのが、まあスティーブ・ジョブスではないですけど、かなり解られている事です。そのためにも基礎教養は重要だと東工大では考えています。
さて組織変更となると、文科省は新機軸をいれろと言うのが通例でした。ただ単にリストラするのではなく、新たな発展性を盛り込まないと審議してもらえないわけです。するとそれにあわせて新規に教員を雇ったりするわけで、自然に人が増えて行くわけです。退職する先生もいるのですが、再編で新しい項目なんか付け加えると当然新しく人が必要になったりします。
平成16年から新機軸を作り活性化させろと言う、方向性で逆に国立大学が肥大化しているフシもあります。ただそれでも各大学でその新機軸を使って、発展させて行こうとしていたのですが、ここでまた再編となりますと、今までは何だったのかとなってしまいます。
最大の問題は、地方国立には明快なブランドがなかった、ということです。実際は凄い業績があったとしても「国立」の名前でどこか「帝大」と区別されて来た歴史があります。そこをなんとかしようと、ブランディングをどうしようかとがんばったのが、平成16年以降の話です。そのブランディングが成功したかどうかはともかく、また振り出しの戻る可能性があるわけです。
大学ですと卒業生が出るまで4年かかるわけです。そして初の卒業生が出て、就職と言う形で世間に評価されて、それを最低4年続けないと教育機関としての評価が出ないわけです。そして一人一人の先生には実績があっても、学部名や学科名が変わると、世間からの認知度が下がるわけです。そこをアピールしても、有名な先生であったとしても数年はかかるわけです。そこの門下生であっても、人事から知らない学科だね?となったりするわけで、コロコロ組織変更する弊害はもの凄く大きいわけです。
それを3年後にスタートさせて5年ごとに見直して行くと言うのでは、ブランディングが出来ないわけです。「国立大学改革プラン」の中には「PDCAサイクルを行い」と書いていますが、このサイクルを1回すのに最低1年、実際には卒業するまでの4年かかるわけで、はっきり言ってPDCAサイクルは大学教育にとっては無縁です。また検証過程が煩雑になりがちで、たまたま偶然入学者のレベルが高かっただけだったりする事もあるわけです。そして何を持って成功と言うべきなのかは、本当に難しいわけです。
そう言った意味では「国立大学改革プラン」と言うのは安っぽいコンサル的なもので、結論のでやすい理系教育に的を絞り、「選択と集中」とかPDCAサイクルとかの用語で、いかにも経営らしくしていますが、根本的には全く無意味なプランになっています。
そう言った意味では、私学の「建学の理念」を重視した大学経営の方が参考になるのではないのかと思います。
東工大の例ではないですが、理系教育って本当に問題があります。最近のSTAP 細胞の例もあります。
イノベーションを起こすには、更に違う発想能力が必要だと言うのも解っています。そしてその能力は測定できません。これでは大学教育で、PDCAサイクル何か回しようが無いわけです。
ただこのプランですが急速に進められています。その急ぎ方が少し尋常ではありません。
この20年間に少子高齢化が予想されているのに、公立大学の新設を認めたり短大の大学昇格を認めたりしてきました。そして生涯学習教育を取り入れろとかイロイロやってきた文科省ですが、またしても失敗するのでしょうか。
まあ平成16年の独法化でも、平成28年度までに自前で食って行けるようにしろ!という話だったが、まだ緩かった。25年に出たのはかなりキツイもので、今から3年間でどう変えるのか、かなり難しいものがある。
昔と違い大学の教育ですが、相当改善はされて来ています。多分どの大学でもそうだと思います。ただこれも実際入学する学生が幼くなっており、それにあわせないと授業が成り立たない状況にあるから努力して来たわけです。その上、優しく解りやすくするために時間を使うようになり、深く専門的な領域まで講義できない状況にあると思います。狭く浅くしか講義できないとなれば、当然どんな講義もそこそこの内容しか無くなります。大学教育としてはどうなのかと言う問題もあるわけです。
今回国立は理系、私学は文系というニュアンスのあるプランですが、これは昔っからいわれて来たこと、私学文系・国立・理系と同じです。確かに私学にはユニークな教授がいますし各界で活躍している卒業生が多く見られます。ただこれには、以前私学だとお金持ちが多かった事と、もともと受験科目が少なかった事で突出した人が集まっていたからともいえます。またそれら教授は授業数が多いので極めて多忙、そして卒論指導も抱える学生の多さからどうしても手が回らない状態にあります。そう言った中での自由さからユニークな卒業生を排出できているともいえます。
国立理系なのですが、やはり私学の教授の多忙さからどうしても研究が思うように出来ない側面があります。結果長期にわたっての研究ではどうしても国立の方が有利になります。私学の方が実は研究予算が多かったり最新設備があったりするのですが、時間の問題が大きいと思います。
ただやはり国立文系は時間の制約が少なく、充実した教育を受けられる環境にもありいい教育が受けられるのですが、なぜか地味です。この理由には、国立には基礎系の先生を多く集める傾向にあると思うからです。なので社会に出てからすぐに役立つ事ばかりではないのが多いです。そして私学に比べると研究予算が低いのが問題になります。少ない予算で、コツコツと資料を集め続けて行くしか無い、そう言った違いがあります。
世の中すぐに使える知識ばかりがもてはやされますが、実際にはすぐに使えるものはすぐに使えなくなると言う麺もあり、基礎的な所から応用して行くほうが長続きできると言うのは確かだと思います。国立文系教育の良さはここにあるのですが、一般的には軽んじられていると思います。
逆に実学の代表である工学部、東工大が有名ですが、基礎教養科目の充実を歌っています。これはなぜかと言えば、実学の問題点を考えているからです。工学はタコツボに陥りやすい所があります。先端を走れば走るほどその領域しか知らなくなる傾向にあります。幅広く深くと言うのでは先端は走れないわけです。そのため横串として教養が必要だと考えているのです。また新たな発想力には違う領域の知識が必要だというのが、まあスティーブ・ジョブスではないですけど、かなり解られている事です。そのためにも基礎教養は重要だと東工大では考えています。
さて組織変更となると、文科省は新機軸をいれろと言うのが通例でした。ただ単にリストラするのではなく、新たな発展性を盛り込まないと審議してもらえないわけです。するとそれにあわせて新規に教員を雇ったりするわけで、自然に人が増えて行くわけです。退職する先生もいるのですが、再編で新しい項目なんか付け加えると当然新しく人が必要になったりします。
平成16年から新機軸を作り活性化させろと言う、方向性で逆に国立大学が肥大化しているフシもあります。ただそれでも各大学でその新機軸を使って、発展させて行こうとしていたのですが、ここでまた再編となりますと、今までは何だったのかとなってしまいます。
最大の問題は、地方国立には明快なブランドがなかった、ということです。実際は凄い業績があったとしても「国立」の名前でどこか「帝大」と区別されて来た歴史があります。そこをなんとかしようと、ブランディングをどうしようかとがんばったのが、平成16年以降の話です。そのブランディングが成功したかどうかはともかく、また振り出しの戻る可能性があるわけです。
大学ですと卒業生が出るまで4年かかるわけです。そして初の卒業生が出て、就職と言う形で世間に評価されて、それを最低4年続けないと教育機関としての評価が出ないわけです。そして一人一人の先生には実績があっても、学部名や学科名が変わると、世間からの認知度が下がるわけです。そこをアピールしても、有名な先生であったとしても数年はかかるわけです。そこの門下生であっても、人事から知らない学科だね?となったりするわけで、コロコロ組織変更する弊害はもの凄く大きいわけです。
それを3年後にスタートさせて5年ごとに見直して行くと言うのでは、ブランディングが出来ないわけです。「国立大学改革プラン」の中には「PDCAサイクルを行い」と書いていますが、このサイクルを1回すのに最低1年、実際には卒業するまでの4年かかるわけで、はっきり言ってPDCAサイクルは大学教育にとっては無縁です。また検証過程が煩雑になりがちで、たまたま偶然入学者のレベルが高かっただけだったりする事もあるわけです。そして何を持って成功と言うべきなのかは、本当に難しいわけです。
そう言った意味では「国立大学改革プラン」と言うのは安っぽいコンサル的なもので、結論のでやすい理系教育に的を絞り、「選択と集中」とかPDCAサイクルとかの用語で、いかにも経営らしくしていますが、根本的には全く無意味なプランになっています。
そう言った意味では、私学の「建学の理念」を重視した大学経営の方が参考になるのではないのかと思います。
東工大の例ではないですが、理系教育って本当に問題があります。最近のSTAP 細胞の例もあります。
イノベーションを起こすには、更に違う発想能力が必要だと言うのも解っています。そしてその能力は測定できません。これでは大学教育で、PDCAサイクル何か回しようが無いわけです。
ただこのプランですが急速に進められています。その急ぎ方が少し尋常ではありません。
この20年間に少子高齢化が予想されているのに、公立大学の新設を認めたり短大の大学昇格を認めたりしてきました。そして生涯学習教育を取り入れろとかイロイロやってきた文科省ですが、またしても失敗するのでしょうか。