どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

放射能の憂鬱

2012-02-18 03:42:19 | インポート
回りで静岡県島田市の広報が、やっと話題になってきた。
この件はネットでは話題だったが、マスコミがいっさい報道してこなかった。なので岩手県では知らない人が多かったようだ。
私のブログからではないが、マスコミに広報のコピーを持って行った人もいる。静岡県産品不買運動を起こそうとか言う話しもある。そのせいか、島田市の焼却灰の報道では、反対派もいるとか言い出している。
この状況は、私としてはとても苦しい。それは放射能の問題を、真面目に受け止めてその中で生活してゆかなければ行けない現実と、怒りに任せて暴走する人をうらやましく感じ、それでは本当にどうなのかという不安を拭えない自分がいる。
60年代から80年代の核実験の影響から類推すれば、現在の岩手県の状況はマシなのかもしれないとかいろいろ都合はつけながら、悩んでいる。
ただ絶対的な事実がある。盛岡近郊でも放射性物資の降下量がセシウムは、毎日の降下物計測の積算値で790MBq/?、4ヶ月放置試料で最大で2992MBq/?が降っている。そして北東北でチェリノブイリ事故から10年目に、乳がんの発生が増大した事実も知っている。
それでは、私らはどうするべきなのだろうか。
福島の農家を、毒を生産しているという人たちがいる。それが正しいとしても、人の職業選択の自由を考えなければ行けない。実際の所、毒を生産したくないのは当たり前だ。おっかなビックリでやっている。
離農する人も増えるだろう。このストレスは想像にありあまるものだ。
それでは、私らは移住するべきなのだろうか。
もう起きてしまっている、福島県人への差別。これをどう考えれば良いのか。更に福島県人で、他県に移住すれば故郷からは逃げたと言われ、逃げた先では差別される。あまりにも悲しすぎる。
そして我々、福島・宮城・岩手の人はどこに移住すれば良いのだろうか。400万を超える人数だ。日本では受け入れが無理だろう。それでは海外は?
その苦痛を受け入れるという事そのものが堪え難いのに、海外すらもはやない。
東京電力を、心の底から憎む。彼らは何もしてくれない、正確に言おう、何も出来ない。それを東北人はよく知っている。国すらも出来るだけの事と言いつつも、実は何も出来ない。そんな事は100も承知だ。
東京電力から保証金をもらえれば良いじゃないのか、そういった人もいる。しかし彼らは出せない状況にある。そしてその保証金を受け取ると、よかったね~と言われてまた違う差別が起きる。
憲法に置ける、居住権そのものが私らには無くなっている。
毒を生産する農家とか、人がすむ土地じゃネ~とか、北朝鮮扱いにまでされてしまった我々には未来があるのだろうか。
そう考える私でも、先の「福島大学の受験倍率」でボロっと書いてしまった。体育の倍率が上がった事だ。否定的な書き方になってしまった。同じ悩みを抱えているのだけど、自分の中にまだ盛岡は安全だという気持ちが出てしまった。
だから、私らの気持ちを傷つける言葉をだす人たちが、とてもうらやましい。
とてつもなくうらやましい。
あなた方は安全だと、自信を持っているのですから。


盛岡私的観光案内・北山散策道

2012-02-16 21:55:05 | まち歩き
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盛岡市の東側には散策道という名の、車道があります。かなり良い散歩道です。高松の池を中心に、愛宕山や松園に通じる道です。特に北山散策道は歴史も感じさせる道です。


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高松の池の脇から出発です。


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赤松の林を通ります。
以外と知られていないのですが、赤松には品種があります。特に岩手はその中の有力な3品種があります。自然状態ではモコモコっとした形になる東山、きれいな三角形になる侍浜、まっすぐな幹が美しい御堂があります。雑種もあるので何とも言えませんが、これは御堂系でしょうか。
冬の赤松は、風雪で幹が洗われて美しいです。



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さて、横川省三の銅像があった所。戦中の物資供出で無くなってしまいました。
横川省三は戦前の盛岡では最高の英雄です。詳しくは
http://ja.wikipedia.org/wiki/横川省三
この人物は、確かに冒険家です。業績は確かにすばらしいのですが、「特別任務班第六班班長」という肩書きが重いです。要はスパイだったという事です。朝日新聞社時代からスパイだったとも言われています。日露戦争を勝利に導いたスパイです。
現在の基準ではどうかと思いますが、戦前教育では地域の英雄として教えられていたものだったようです。また横川省三も部下を盛岡で固めていたと、盛岡では伝説になっています。なのでその系列のスパイが盛岡からかなり輩出しているとも言われています。
更に岩手県の地縁・血縁主義ともいえる団結力がスパイには最高の、秘密を墓まで持ってゆくと評価が高かったようです。
ようですとか、言われてますとかアヤフヤなのはスパイの話しだから。本当に彼らは歴史に出てきません。ただ昔横川省三の木像を建立したというニュースがあったのですが、その時の出席者の印象が異様だったという記憶もあります。なんというか、横川省三の説明をしないとか、目配せだけで何かやっている感じとか。
オープンなのに閉ざされているなにか。
ただしやっぱりこぼれ話はあります。日中戦争で南京落城の直前まで蒋介石は、SXしていたというもの。伝説です。




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この道は愛宕山に続いているのですが、愛宕山の雑木林の美しさと違うたたずまいです。



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歌碑があったりします。盛岡ゆかりの教育家・歌人・書家の小田島弧舟の石碑です。書いている歌ですが、後で写真から読めば良いだろうと思ってましたが、読めませんでした。こういった石碑の解説文が脇にあったのですが、なんと歌を書いていない。
なのでネットで検索。「われひとり よのつねびとの みちこえて しづかにゆかむ さびしかれども」
47歳の歌のようです。私にはちょっとこの覚悟は出来そうにも無いです。


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盛岡の東には、こうしてリンゴ畑が広がっています。


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廃棄物でしょうか、変なオブジェです。



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こちらの道を向かうと、我が家に近い所に出ます。



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標識が充実していますが、肝心要の場所に無いような。とはいっても道に迷ったとしても大した事はありません。


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実際山なのですが、住宅地のど真ん中でもあります。散歩している人が多いです。今日はきれいなお姉さんとすれ違いました。


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もしも家を買えたら?この家は良いですね。昨年ずいぶん手直しをしたようです。



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ロケーションがすばらしい。そして家の脇のコブシの木がすばらしい。あと盛岡の古い農家にしては、キッチリとした総2階です。盛岡の民家は基本、屋根裏を広げた作りが多いのでイマイチなのです。



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さて北山散策道なのですが、ここからよくわからなくなります。なのでいったんこの三ツ割から、北山の寺町に向かう事にします。


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途中に金比羅様があります。そこに向かう坂なのですが除雪がキッチリしています。これは地域住民の努力と、南斜面の賜物でしょう。



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本当に急な坂です。


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金比羅様の鳥居に辿り着きました。実はまっすぐ行けば良いのだろうと思っていたら、ちょっと曲がらなければ行けなかったようです。



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金比羅様がナゼここにあるのかは、真面目に考えるべきです。榊山稲荷の山を越えた裏側、小本街道に面しています。


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さて奉納されたこの額、陶器で出来ています。麓にある木村レンガの寄贈品です。



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実は今回は、オーバーホールしたレンズと、修理したカメラ、そして中古で買った核安の円偏光フィルターのテストもかねています。現時点で非常に満足しています。特にこの12-24㎜F4レンズのコントラストが改善しました。しかも12ミリ側ですから言う事ありません。解像度も若干よくなりました。


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これは誰が寄贈したのかよくわからないのですが、やっぱり木村レンガでしょうか。文字の所を何かで覆って焼成しています。
この程度は誰でも出来るとフツー思うでしょうが、実は以外とかなり難しい事に挑戦しています。



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レンズテストをしています。オーバーホールしてコントラスト向上、解像度安定というのは今までの経験ではなかった事です。とはいえこの画像、ヤワヤワに直しています。


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階段がガタガタで、ちょっと怖い下り坂です。慎重に降ります。
3年ぶりで金比羅様に来ましたが、かなり整理されていました。以前は変な寄贈物が脇にありました。例えば鋳物屋さんの寄贈物とかです。
金比羅様と火を扱う職業というワケの解らない状態です。本来は違う神様だったと思われます。
江戸時代、神社仏閣の建立は制限されていました。幕府へ許可を求めないと大規模なことは出来ないので、民間信仰とかイロイロ使って拠点を作ったようです。
その上明治維新で神様登録制限したものだから、よくわからない事が多いです。



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城下町では、こういった準軍事拠点と信仰がないまぜになっている地点が数多くあります。
逆説的に、世界的に見ても紛争が起きやすい地域とかがポイントであります。そこも似たように軍事拠点だったりします。軍事と宗教という何ら関係のなさそうな話しですが、実は大きい話しだと思います。エルサレムなんて地中海最大のポイントですし。



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密かに円偏光フィルターを使っていましたが、はっきりと使いました。以外と難しい。なんというかコントラストを上げるために使うというより、色のコントロールも要求されるようです。色温度が変わるようです。
こんな事も知らなかったのと怒られそうですが、このフィルターとっても高いものですし偏光フィルターのわざとらしさも嫌なもので、使う気にならなかったものです。
とりあえず厄介です。どう使えるか今後の課題になりそうです。



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小さいリンゴ選果場とポンプ井戸です。



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三ツ割トンネルがこの道の下に出来たので、不要になったと思われていますがかなり交通量があります。




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リンゴの直売所があります。県庁まで歩いて15分でしょうか、無人販売所です。



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この地域のリンゴ農家の中心地だから出来るのでしょうか。
さて、私青森出身なのでリンゴにはうるさいです。個人的に20年前から流行の矮化栽培の木のリンゴは、フレッシュで鮮烈な味わいですが、マイルドで繊細なバランスのニュアンスはこの辺りに多い古い栽培方法の古木から生まれます。とはいってもこの三ツ割地区のリンゴの評価は聞いた事が無い。
青森でも私の考える最上級のリンゴは青森市浪岡の黒石よりの斜面。黒石も浪岡よりの南斜面で、盛岡の三ツ割地区とかなり近い条件です。木の古さも同じなのですがなぜなのだか、味がボケているように思います。
悪口のように思われるかもしれませんが、逆説的に盛岡近郊のリンゴでおいしいと思うのは、この北上山地沿いのリンゴです。
あと、古い品種を探すとあるのがこの東側です。食べられる歴史という企画は出来そうですね。









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盛岡でも有名な横沢パン。機械を使わない方向でパンを作っています。
チョロっと微妙な言い方をしました。手で生地を練っています。初めのあたりは機械だろうと疑っていますが、一次発酵の前に手で捏ねているだろうと考えています。
ここのパンですが、おいしいのですが今の流行とは全く違います。完璧な安定感です。戦前の技術を洗練させていいった系譜だと思います。戦後に入ったパン文化と、80年以降に入ったヨーロッパスタイルの本格派でもなく、木村屋のアンパンクラスの技術です。
馬鹿にしているように思われると困ります。ちょっと無い味なのです。なんだろう、麦を食べている。そういったら失礼か。素朴ではないが華麗ではない。
最高の日本のパン、でしょうか。






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バイパスの陸橋と街道と、山田線が交差します。



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さて北山の寺院通りにきました。




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この通りは、歩道がロードヒーティングになっているはずなのですが、変なことが起きているようです。
何があったのでしょうか。


1945年の天気を考える・近況

2012-02-16 03:41:43 | お天気
なぜこのタイトルかと言えば、まだ全く調べきっていないという事。でこの辺りをキッチリ調べた人もいた。やっぱり暑い夏だったようだ。
しかしこうして天気の記録を眺めていると、それって本当なんだろうけどどこまで本当?となる。ましてや敗戦の年、スーパーメモリアルデーだ。なにかみんなであの年は暑かったと思い込んではいないのか。
そこで我が家の大家に聞いてみた。ここで1945の冬はどうだったのですか?という質問だ。
とてつもない寒さだった、そうだ。夏はと聞くと、暑かった、だ。
昔下北で撮影した写真で写真展を開いたのだが、そこに当時青森県大湊に、今の盛岡二高から挺身隊で奉仕した女性と出会った。何か私の写真から過去が思い出されたみたいで、とても感激されていた。冬の写真展だったので、彼女が薄い手袋をしているのを気に留めなかったのだが、話しているうちに彼女が手袋を脱いだ。
「奉仕でしたから」
凍傷でケロイドになって、全く回復できない手があった。確か大湊もこの辺りは凄まじいい寒波があったはずだ。
私にはそういった記憶もある。おまけにあまのじゃくだ。本当はなにか確かめてみたくなった。
実際、なんらかの思い込みで暑い寒いと印象づけられる事はよくある。例えば昨年の夏だが、気温変化は意外とたいしたことが無い。






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昨年秋に、今年の夏は暑かったという人が多かった。確かに節電で冷房を切ったり弱めていた人は多かった。これは報道の結果だと思う。確かに7月の気温は高かったが、8月はフツーだ。しかし他の地域では猛暑だった所もあり、それが大々的に報道された。これが反映しているのではないかと。
昨年の夏について、私は2010年の方が暑かったというと、大体誰もが否定する。逆に骨折してリハビリ中の私の方が暑く感じていなければいけない。さてそれでは2010年はどうだったかと言えば、



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最高気温から、残暑の30度越えまでかなりの猛暑だ。2011は7月の暑さがすごいが、お盆過ぎから急速に涼しくなってゆく。2010は、この残暑が酷いのだ。
さてここから1945年の天気を考えたいのだが、私の予想では1945はとてつもなく寒くとても暑い年で、そのギャップが酷かった、と考えている。
しかしこれを考えるためには、当時の人がどう感じていたのかを考えさせるデーターが欲しい。これを単純に気温データーから見えないだろうかと考える。このためには、当時の平均気温のデーターがあれば簡単だが、それは無い。おまけに1945年は全国がどうだったかも比較しなければ行けない。そうすると盛岡だけでどうこうとは言えない。
おまけというかなんというか、私がこうしてグラフにしたりしている気象データーだが、気象庁のインターネット上のデーターベースを使っている。これはエクセル形式ではない。なので表をコピーアンドペーストで移植している。当時の平均気温のデーターを復元するのに、30年分のコピーアンドペースト作業が必要になる。幸いにして月平均のデーターしか無いので、作業としては軽いのだが回数が多い。そして全国を見るとなると、1945年だから主要都市になるが、札幌・仙台・東京までは大体みんな納得するだろう。新潟は裏日本代表で必要だ。しかし大阪・福岡となれば、なんで名古屋が無いのとか、京都が無いとか言われそうだ。なお広島は考えたが、1945年の記録がどうなのかといった問題がある。どうもあの状況で観測していたようだ。
もちろん観測点を増やすのがただしい。しかし作業量が変な事になっている。大体そのコピーだけで1ポイント1時間で、それを整理するのに1時間なのだが、コピーしたデーターが正しいかを検証する作業があったりする。
初めたのはいいのだが、こうやってくると欲が出る。
1940年代は異常気象の年だ。この異常っぷりは1945年の寒さと1948年の暖冬だ。もしも右翼が、皇室の安寧を損ねた結果だと言ったら、そうかもしれないと思うほどの異常だ。ここも見てみたい。
次がもう解っている事なので、その異常気象の40年代を挟んで30-60年の平均で見てしまおうという事だ。これは実は問題がある。気象庁の言う所の平年気温は過去30年だからだ。しかし盛岡中心に考えたいので、データーとしては1924年からしかない。現在の30年平均と齟齬がある。
そこで1945年を中心に、1929から1960年の平均を取る事にした。そこで実は計算を間違っている。
1945年を中心にした平均となると、30年から60年の平均になる。なので余計な年まで計算に入れてしまった事になる。これで比較して良いのかとなるが、ここは40年代の異常気象が大きいと言い訳してしまおう。
それでは、過去のデーターが信じられるかといえば、実は変な所もある。例えば最深積雪量もついでに見ているのだが、計測したりしなかったりという統計ではあり得ないデーターがある。特に1953年あたりから降雪量のデーターはあるが最深積雪のデーターは計測していないようだ。これを計測するようになったのは、もしかすると80年代なのかもしれない。そこは後で盛岡データーから見てみる。
最深積雪のデーターは、昔は東京でも雪が積もったという話しを裏付けるものなのだが、今見ている地域でも、どう考えても計測をあきらめているのか、思いついたようにやっているのか解らないほど、断片的に最深積雪のデーターがあって、あまり信憑性の無いデーターになっている。
とりあえず、確定申告の領収書をまとめるよりめんどくさいほどの数字が並ぶ。とはいえお天気の話しだ。簡単に考えてもらいたい。
今の所、かなり面白い結果になりそうだ、ということは確かだ。


ニコンD-70の思い出

2012-02-15 19:29:34 | インポート
さて今から書き始める事を、マトモに受け取ってはいけない。というのはこのカメラ世間一般では、決して評判の悪いカメラではない。そして未だかつて私が手放してはいないという事だ。



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まず第一にこのカメラ、ニコンのユーザーインターフェースを確立したカメラだ。当時としては傑出してよかった。逆に当時のニコンの高級機に限って、直感的とは言えないインターフェースだった。そしてストロボのシンクロスピードが1/500秒、機械式とCCDのシャッターを併用したハイブリットシャッターだ。現在でもこのシンクロスピードの記録は破られていないだろう。
要はアマチュア向けというより、結婚式や卒業アルバムのカメラマン向けの業務用に近いスペックだった。


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写りはこんな感じ。近赤外線の感度が高く、赤外写真も撮れる。しかしもしかすると色かぶりが発生しているのか、黄色かぶりのトーンの発色になりがちで苦労した。
久しぶりに、CCDの写りを見たがハッキリした感じがいい。C-MOS系の発色とかなり違う。



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出たばっかりで予約して買った。そこからが凄まじい話しになる。レンズセットを買ったのだが、買って3週間でレンズの中の部品が外れる事故が起きる。大体1000カットに1度、続けて起きる。これでクレームを出したら全品交換。もうこのレンズはイヤだとなって、ボディのみになった。
なおこの期間に8000枚シャッターを切っている事実が凄まじい。


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で次のボディーなのだが、ピントが悪い。なんかなーという程度なのだが、検査に出した。するとカメラの底がキッチリはまっていない状態で帰ってきた。瞬間的にクレーム修理。そしてこの冬にもやっぱりなーという事で、修理。ペンタミラー交換、AF機構部部品交換という大修理。翌年秋には、シャッターエラーが出まくり、シャッター部品と電源スイッチ、露出制御部の交換。


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ここからシャッター不具合が、1年に1・2回続いた。結局修理で、製品保証期間が2年半以上に伸びた。
このカメラのシャッター音だが、独特な音がする。くぐもったようなパシャ、なのだがこれがシャッターがくたびれてくるとパフ、となって壊れる寸前になるとキュポッ、となる。この音でカメラの状態を判断していた。


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どうもタイ工場での初のデジタル一眼カメラで、初期ロット不良だったようだ。たださすがにここまで直してくると、かなり安定してきた。結果4年間使うのだが、後半はまったく不満が無かった。それにそもそもオリンパスからニコンに切り替えた、初めてのニコンで、使いこなしのためにかなりシャッターを切っていた。年間3万カット以上は撮っていただろう。特に買った直後は凄まじい。3週間で8000カット。交換できたボディーも夏までに2万カットシャッターが切られた。これじゃ壊れる訳だ。


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あんまりもなので、実は予備ボディにD-100を購入したのだが、やはりこのカメラは使いにくかった。遅い、ピントもさほどではなく、インターフェースも悪かった。逆にD-70の稼働率が上がる結果になった。
もう後ろのファンクションボタンなんてズタボロになっている。もう字が読めない。


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かなり安定してきたのと、初期ロット故障の心配から、次のD-80に移るのに時間がかかってしまった。これが更にボディをズタボロにしてゆく。モードダイヤルの文字もかすれてきた。


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液晶も小さいですね。いいところが無さそうなのですがD-80に移る時、D-100を売り払いました。どう考えてもD-70の方が良かったです。


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しかしD-80はイマイチでした。シャッターボタンに問題があったようです。D-80は3年使って、今のD-7000になりました。
しかしこれは、80を買って1年でD-90がでて、そして7000の発売ですから、あっという間に2世代カメラが進歩してしまったという、全く笑えないデジカメの現状があります。
しかしシャッターボタンのメッキがはがれるほど使ったというのも凄まじいです。ボディのプラスティックやラバーも、つや消しの黒なはずなのですが、手ですられてピカピカになっています。



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急速に進化するデジカメの中では、化石のようなカメラです。久しぶりに取り出すと、やっぱりなんかダメでした。とはいっても、このカメラの癖に慣れきっている自分もいたりします。
名機です。D-80に移って1年目にオーバーホールをしました。
さて今のD-7000、ニコンは使い倒せ!といってますが、私が使い倒したらどうなるのか。楽しみにしてください。昨年は骨折で使い倒せませんでしたから。


追記
前回のレンズのオーバーホールもそうだったのですが、D-7000の修理ですが事実上1日で修理したようです。ニコンのサービスが劇的に良くなっているようです。


17年前の写真

2012-02-13 02:03:17 | インポート
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多分1993年か4年の写真だ。阪神大震災のファイルと一緒にあった。



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陸前高田だと思う。


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三陸の街の中では、なにかだだっ広い感じがする街だった。


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岩手と言えば重苦しいイメージがあるが、ここだけはなにか軽やかで、それでいて古い家を大切に使っている町並みだった。



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気仙大工の街でもあった。なんでもござれという名人芸の職人がいた。



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けんか七夕を見に来ていたのだ。


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山車がぶつかり合うのだが、ぶつかり合った時の自分の山車のダメージと相手へのダメージを計算しつつ、自然の素材で組んでゆく、その業がすごかった。



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寄附の書き付けがズラリ。街のイルミネーションとなっている。



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陸前高田は、本当の伝統と文化を持った街だ。


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どんな街に生まれ変わるのか、楽しみだ。
きっと新しく出来る殺風景な防潮堤を、観光地として、自分たちの安楽の場として創造出来るだろう。
もう少しで、震災一周忌だ。