幕末期に活躍した次の四大名を「幕末の四賢侯(しけんこう)」と呼ぶ。幕末の小説によく登場するも よく知らない。
その四賢侯を軸に司馬遼太郎が「酔って候」の短編集に採り上げていた。
史籍をよみ、歌を詠んだ教養人でありながら、酔態をさらして“狼候"といわれた十五代土佐藩主・山内容堂。佐幕と勤王に揺れる血気盛んな生き様を描いた「酔って候」。議論を酒のツマミにしたかのようと形容。
薩摩藩主・島津斉彬亡き後、実権を握った島津久光。後の大久保利通との親交、狐を馬に乗せたようにして時代の流れに翻弄される久光の姿を描く「きつね馬」。
伊予の宇和島城下の提灯張替え屋嘉蔵が、蒸気軍艦船の建造に携わる「伊達の黒船」で身分制度のやかましさがおかしい。
密貿易の資金で軍艦や機関銃を作る佐賀藩主・鍋島閑叟。諸藩の中で最強最大の洋式陸海軍を持ちながら、勤皇、佐幕いずれにも属さず、動乱期の最後の瞬間に「薩長土肥」となり、その強大な武力を放出し徳川軍をほろぼした「肥前の妖怪」。
四賢侯は次のお殿さま。
・越前福井藩第16代藩主・松平春獄(松平慶永)
・宇和島藩第8代藩主・伊達宗城
・土佐藩第15代藩主・山内容堂(山内豊信)
・薩摩藩第11代藩主・島津斉彬
島津斉彬を除き、他の三人はすべて他家から養子として入った殿様ばかり。色々な事情があったにせよ、優秀な人材だから乞われて養子として藩主を継いだ当人も思いがけなく藩主となったことで、なにかを成し遂げたいという志(養子心理)をもっていたと思われる。
薩摩藩主の世子斉彬は、曾祖父の前々藩主・島津重豪のお気に入りで若い頃から英邁の呼び声の高かったが、斉彬の父斉興が斉彬を嫌い、側室お由羅の産んだ久光を藩主にさせたくてなかなか藩主の座を譲らなかった。
伊達宗城や松平春嶽とともに仲介役となって幕府の老中阿部正弘に訴え、将軍家慶の計らいで斉興を強制的に隠居させ、やっと斉彬が藩主になった。このとき、斉彬-宗城-春嶽が結びついた。
土佐藩第13代藩主・豊熈が34歳で急死、その跡を継いだ藩主・豊惇までもが急死。
山内家は断絶、土佐藩取りつぶしの危機に、土佐藩家老らが奔走、前藩主の未亡人(島津斉彬の妹)から島津斉彬や親戚の黒田長博、もちろん伊達宗城、松平春嶽らの口添えで老中首座の阿部正弘に働きかけてもらい、分家の22歳だった豊信(とよしげ)後の容堂を養子として何とか藩主継承。斉彬-宗城-春嶽に容堂が加わる。
将軍継嗣問題では、次期将軍に徳川慶福を推す「南紀派」井伊直弼に対し、一橋慶喜を推す「一橋派」島津斉彬、伊達宗城、山内豊信、水戸斉昭であった。春嶽の懐刀とよばれた福井藩士橋本左内が一橋派のために東奔西走。井伊は、水戸斉昭に謹慎、春嶽と尾張藩主徳川慶勝に隠居、謹慎、一橋慶喜と水戸藩主徳川慶篤を登城禁止処分にした。
また、1853年の黒船来航に、次の三藩が早々に書籍だけを頼りに蒸気船を造り上げた。
日本で最初に建造した蒸気船は、黒船来航からわずか2年後の1855年に薩摩藩が「雲行丸」を竣工させた。
宇和島藩でも、同じ1855年に藩主伊達宗城が蒸気船を完成させた。
ペリー来航3年前の嘉永3年、国富充実した佐賀藩は、外船防衛のために長崎砲台の大工事をはじめた。大砲も西洋銃も火薬も、総て自製で行った。閑叟は、独立割拠主義者で洋式兵器のあらゆるものを自藩で作り出せる能力を持とうとしていた。
1853年に佐賀藩が蒸気機関車や蒸気船の雛型 (模型) を製作したのは、黒船来航以前から研究をさせていたからだった。
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その四賢侯を軸に司馬遼太郎が「酔って候」の短編集に採り上げていた。
史籍をよみ、歌を詠んだ教養人でありながら、酔態をさらして“狼候"といわれた十五代土佐藩主・山内容堂。佐幕と勤王に揺れる血気盛んな生き様を描いた「酔って候」。議論を酒のツマミにしたかのようと形容。
薩摩藩主・島津斉彬亡き後、実権を握った島津久光。後の大久保利通との親交、狐を馬に乗せたようにして時代の流れに翻弄される久光の姿を描く「きつね馬」。
伊予の宇和島城下の提灯張替え屋嘉蔵が、蒸気軍艦船の建造に携わる「伊達の黒船」で身分制度のやかましさがおかしい。
密貿易の資金で軍艦や機関銃を作る佐賀藩主・鍋島閑叟。諸藩の中で最強最大の洋式陸海軍を持ちながら、勤皇、佐幕いずれにも属さず、動乱期の最後の瞬間に「薩長土肥」となり、その強大な武力を放出し徳川軍をほろぼした「肥前の妖怪」。
四賢侯は次のお殿さま。
・越前福井藩第16代藩主・松平春獄(松平慶永)
・宇和島藩第8代藩主・伊達宗城
・土佐藩第15代藩主・山内容堂(山内豊信)
・薩摩藩第11代藩主・島津斉彬
島津斉彬を除き、他の三人はすべて他家から養子として入った殿様ばかり。色々な事情があったにせよ、優秀な人材だから乞われて養子として藩主を継いだ当人も思いがけなく藩主となったことで、なにかを成し遂げたいという志(養子心理)をもっていたと思われる。
薩摩藩主の世子斉彬は、曾祖父の前々藩主・島津重豪のお気に入りで若い頃から英邁の呼び声の高かったが、斉彬の父斉興が斉彬を嫌い、側室お由羅の産んだ久光を藩主にさせたくてなかなか藩主の座を譲らなかった。
伊達宗城や松平春嶽とともに仲介役となって幕府の老中阿部正弘に訴え、将軍家慶の計らいで斉興を強制的に隠居させ、やっと斉彬が藩主になった。このとき、斉彬-宗城-春嶽が結びついた。
土佐藩第13代藩主・豊熈が34歳で急死、その跡を継いだ藩主・豊惇までもが急死。
山内家は断絶、土佐藩取りつぶしの危機に、土佐藩家老らが奔走、前藩主の未亡人(島津斉彬の妹)から島津斉彬や親戚の黒田長博、もちろん伊達宗城、松平春嶽らの口添えで老中首座の阿部正弘に働きかけてもらい、分家の22歳だった豊信(とよしげ)後の容堂を養子として何とか藩主継承。斉彬-宗城-春嶽に容堂が加わる。
将軍継嗣問題では、次期将軍に徳川慶福を推す「南紀派」井伊直弼に対し、一橋慶喜を推す「一橋派」島津斉彬、伊達宗城、山内豊信、水戸斉昭であった。春嶽の懐刀とよばれた福井藩士橋本左内が一橋派のために東奔西走。井伊は、水戸斉昭に謹慎、春嶽と尾張藩主徳川慶勝に隠居、謹慎、一橋慶喜と水戸藩主徳川慶篤を登城禁止処分にした。
また、1853年の黒船来航に、次の三藩が早々に書籍だけを頼りに蒸気船を造り上げた。
日本で最初に建造した蒸気船は、黒船来航からわずか2年後の1855年に薩摩藩が「雲行丸」を竣工させた。
宇和島藩でも、同じ1855年に藩主伊達宗城が蒸気船を完成させた。
ペリー来航3年前の嘉永3年、国富充実した佐賀藩は、外船防衛のために長崎砲台の大工事をはじめた。大砲も西洋銃も火薬も、総て自製で行った。閑叟は、独立割拠主義者で洋式兵器のあらゆるものを自藩で作り出せる能力を持とうとしていた。
1853年に佐賀藩が蒸気機関車や蒸気船の雛型 (模型) を製作したのは、黒船来航以前から研究をさせていたからだった。
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幕末から維新にかけての各藩の一連の動きは近代史を学ぶ上で大変重要です。
大いに参考になります。
ありがとうございました。
>栄養価の高いピーナッツが歌が巧いのは、モダンな双子の歌手にふさわしいモダンな名でした
ピーナツは歌がうまかったですね。
自家栽培したとれたてのピーナツも旨いですよ。
ロッキード事件では100ピーナツ(1ピーナツ100万円)が同社に渡ったようですが、ピーナツもいろいろ騒がれましたね。
閑叟が幕末、奇跡的と思えるほどの一藩統制主義で天下の風雲にのぞむことが出来たのは、佐賀藩では
「葉隠」が士風の根幹になっていたため、藩の命令には犬のように従順な藩風があったからだと司馬遼太郎は申します。
「知者は水を楽しみ」、iinaは噴水がバレリーナのように舞うのを、今朝のご挨拶にしました。
伊豆・下田の宝福寺を見学したときのことです。
この寺に、山内容堂と勝海舟との謁見についての資料が展示されていました。
容堂が江戸から上洛する際に、海が荒れ宝福寺に投宿した際に、この寺で、海舟との酒席を設けたそうです。
海舟は、その酒席で、容堂に、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞います。
容堂は、海舟が、酒を飲めないのを承知のうえで、「ならば、この酒を飲み干せ」と、朱の大杯を差し出しました。
ためらうことなく飲み干した海舟は、容堂に赦免の証を求めます。
容堂は、赦免の証として、「自らの白扇に瓢箪の絵を描いた」そうです。
海舟は、容堂に言を左右されぬように龍馬赦免の証を求めたのは さすがです。
山内容堂は土佐藩のお殿さまですから、高知入り時の郷士との軋轢に苦慮したことを知ってますから、郷士を相手にしませんでした。
「船中八策」を、後藤象二郎は郷士の坂本龍馬発案だと受け付けぬと考え、内緒にして進言したことで、容堂は徳川慶喜に大政奉還を建白したそうです。
更家さんの当該ブログアドレスをコメント欄上に置きました。
四賢侯(しけんこう)」を誤変換してみました。
はい、幕末史は勉強になります。
また、思いついたら してください。