![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/58/68257269cb072da1090eba8f0d78d0a8.jpg)
奥の「南無妙法蓮華経」の碑は、歌舞伎「御存 鈴ヶ森」でこの碑を舞台中央に建て、幡隋院長兵衛が白井権八(実名平井権八)に「お若いの、待たっせえやし」と声をかける所だそうだ。実在した権八は、ここで処刑される運命を背負っていた・・・。
この碑は、処刑者の供養のため、元禄11年(1698年)池上本門寺の貫主・日凱(にちがい)が建てたもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/0a/6cbd584281786f6f108acb5119360f6c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/5a/14b6431afc8fe59bea947c553affa76c.jpg)
磔刑木柱用の礎石 火炙刑鉄柱の礎石
鈴ケ森刑場は、1654年(慶安4年)に開設され、1871年(明治4年)の閉鎖までに10~20万人がここで処刑された。
死刑の方法は様々であり、磔にされて串刺し、火炙り、斬首など残酷極まりない処刑がこの刑場で行われてきた。
天一坊(幕府乗っ取りの企て)、八百屋お七(放火)、平井権八(同僚殺し及び辻斬り)、白木屋お駒(夫殺し)たちが、ここで処刑された。
北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場、西の入口(甲州街道)沿いの八王子の大和田刑場(または中仙道入口の板橋刑場とする説もある)とともに、江戸三大処刑場といわれた。
なお、「鈴ヶ森」という地名の由来は、この近くにある磐井神社の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったためといわれている。
浜川橋![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/d6/7311c47e452a7bc627ae1e4ba2c7f50a.jpg)
涙橋の名は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた。 <完>
「①品川宿」にもどる
この碑は、処刑者の供養のため、元禄11年(1698年)池上本門寺の貫主・日凱(にちがい)が建てたもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/0a/6cbd584281786f6f108acb5119360f6c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/5a/14b6431afc8fe59bea947c553affa76c.jpg)
磔刑木柱用の礎石 火炙刑鉄柱の礎石
鈴ケ森刑場は、1654年(慶安4年)に開設され、1871年(明治4年)の閉鎖までに10~20万人がここで処刑された。
死刑の方法は様々であり、磔にされて串刺し、火炙り、斬首など残酷極まりない処刑がこの刑場で行われてきた。
天一坊(幕府乗っ取りの企て)、八百屋お七(放火)、平井権八(同僚殺し及び辻斬り)、白木屋お駒(夫殺し)たちが、ここで処刑された。
北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場、西の入口(甲州街道)沿いの八王子の大和田刑場(または中仙道入口の板橋刑場とする説もある)とともに、江戸三大処刑場といわれた。
なお、「鈴ヶ森」という地名の由来は、この近くにある磐井神社の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったためといわれている。
浜川橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/d6/7311c47e452a7bc627ae1e4ba2c7f50a.jpg)
涙橋の名は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた。 <完>
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_cloud.gif)
現在の死刑は一瞬のうちに死に至りますが、当時は惨い方法だったのですね。
家族との別れの「涙橋」。イタリアにもありました。
イタリアのヴェネツィア(ベニス)に「溜息橋」があります。
溜息橋はドゥカーレ宮殿から地下の牢獄へ渡る橋です。
囚人がこの橋を渡ると2度とこの世に戻ってこられないと言われ、橋の小窓からこの世に別れを惜しみ溜息をついたと云う逸話から「溜息橋(ためいきばし)」と呼ばれています。
洋の東西を問わず、昔は同じような悲しい別れがあったようですね。
知名度は高いでしょうね
「市中ひきまわし」とか
「さらし首」とか 本当に有ったのでしょうね
怖いですが・・・
要は 処刑される様な事は しない事ですね。
夏の暑い季節には、冷たい素麺が特別においしいです。^^
そうめんといえば、奈良の大神神社で食べたことを想います。たつの市も、お水がおいしいのでしょうね。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/6ec483cd9280f0ae46099d2d35c3e006
ベニスにも罪人が溜息をついた橋があるのは、何処も同じ思いが働くのですね。これで、鈴ケ森刑場と小塚原刑場に、
足を運びました。
ただし、処刑場には妖気が漂っているのか、 帰ってから調子を崩しかけましたから、 興味本位で立ち入るべきでは
なさそうです。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/9a292ed5d9c3d98b4b5aac4156220c24
この世とも思えぬ姿になります。
雨ヶ池 泥の中から 蓮の花 / iina
>要は 処刑される様な事は しない事ですね。
江戸時代は、荒っぽい下手人探しをしたらしく、自白を強要されたり無理矢理に罪を背負わされて、処刑された者も
多かったといわれています。
鈴ケ森刑場には、そんな無念の妖気が漂っているのか、帰ってから腹が痛いような身体がすぐれぬ状態になりかけ
ました。
此処は、心霊スポットであるようですから、興味本位で訪ねるのは避けた方がよさそうです。(^^ゞ
三大刑場かどうか知りませんが、板橋にも刑場はあったようです。(特定されていません)
新選組組長 近藤勇が板橋宿での脇本陣で拘束され、
政府軍の御調を受けた事実が残っており、板橋刑場で処刑されました。
埼京線板橋駅(たぶん東口)前に永倉新八がつくった近藤勇の墓があります。
嬉しいものです。
近藤勇が、板橋刑場で処刑されたのであれば、江戸には三つほどの処刑場があったと考えられそうです。
つい、怨念とか祟りとか、信じてしまいそうな雰囲気が漂っていました。
夜は怖いかも・・・
更家さんが買うのですから、ハウツーものが受けるはずです。
品川宿の周辺だけを巡るつもりでしたが、鈴ケ森刑場まで 4kmほどというので、欲張ってみました。しかし、涙橋から先が
遠かったです。
小塚原刑場を何度が行っているので、小塚原よりは磔と火あぶりの礎石が残るため、生々しく感じられました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/6bde1259c689852bc46910c8b7a013e0