二泊三日の伊豆旅行をしてきた。
伊東温泉の東海館からスタート。
昭和3年に庶民の温泉宿として開業。
玄関 右は中庭
【三浦按針コーナー】
ウィリアム・アダムスは、豊後臼杵の黒島に(ヤン・ヨーステンと共に)漂着した。家康に引見し、米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に通訳と助言を求めた。
アダムスは家康の下命により、伊東・松川河口の厚みのある砂洲で「砂ドック方式」で帆船を造った。
この功績を賞し250石取りの旗本に取り立て三浦按針の名乗りが許された。
宴会場
ヤン・ヨーステンは、和田倉門外の堀の岸辺に屋敷を与えられ、その辺りの地名は彼の日本名「耶楊子(やようす)」にちなんで「八代洲河岸(やよすがし)」と呼ばれた。
「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・丸の内一丁目付近)。
芸者たちと雛壇
伊東の彫刻家【重岡建治コーナー】
> つづく >>
伊東温泉の東海館からスタート。
昭和3年に庶民の温泉宿として開業。
玄関 右は中庭
【三浦按針コーナー】
ウィリアム・アダムスは、豊後臼杵の黒島に(ヤン・ヨーステンと共に)漂着した。家康に引見し、米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に通訳と助言を求めた。
アダムスは家康の下命により、伊東・松川河口の厚みのある砂洲で「砂ドック方式」で帆船を造った。
この功績を賞し250石取りの旗本に取り立て三浦按針の名乗りが許された。
宴会場
ヤン・ヨーステンは、和田倉門外の堀の岸辺に屋敷を与えられ、その辺りの地名は彼の日本名「耶楊子(やようす)」にちなんで「八代洲河岸(やよすがし)」と呼ばれた。
「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・丸の内一丁目付近)。
芸者たちと雛壇
伊東の彫刻家【重岡建治コーナー】
> つづく >>
立派な旅館です。
玄関の軒唐破風が気品と風格を感じさせます。
伊東温泉と言えば「ハトヤ旅館」しか知りませんでした。
昔「伊東に行くならハトヤ、ハトヤに決めた」の
CMがよく流れていました。
>呉羽山に白い花が咲き誇ります。なんだろうと思ったら、梨畑でした。とても印象的な白い花々でした
富山にも梨畑があるのですね。
白い花がきれいですよね。
歩き過ぎとは違う病だとは申していましたが・・・❔
母も、健康のためといって1~2駅を歩いてました。しかし、アッという間に亡くなりました。
健康に気を使っても、病は無遠慮に襲いかかるものです。ほどのよい健康維持が好さそうではあります。
iinaは、1日7~8000歩ほどをあるいています。
東海館は昭和に建てられた旅館ですから、イトウにゆかりのある三浦按針コーナーをしつらえたのだと思います。
古い旅館は、趣がありますね。
お蔭さまで、宿代の20%割引に2000円のクーポン券がつきました。