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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 150 諸将の本音

2023年02月09日 17時24分57秒 | 貧乏太閤記

 家康は一人ずつ個別に茶室に招き入れて茶をふるまった
秀吉と正反対の家康は茶室も狭く、うっすら自然光が入るが、昼間でも顔も良く見えない薄暗さである
静けさ・・・客はここにいると世間のうるささから解放され、自分の真の姿をじっくりと見つめることが出来るような気がしてくる。
「朝鮮では、たいそうなご苦労をなされたのう」
「われらが勤めでありますれば、特別なことではありませぬ」
福島正則はそう言った、秀吉の子飼いで親戚だ、そう言う返事は家康には予測できていた、だが正則と竹馬の友である加藤清正の話に及ぶと
「虎(加藤)は我らのような南に居た者と違い、雪に覆われ凍える北方の大地にて山脈を越え蛮族とも戦をしたとのこと、われらの比ではありませぬ」
「ほほう、加藤殿の話は儂の耳にはとどかなんだ、殿下も『清正の方は大した強敵もなく、瞬く間に明との国境まで行ったそうじゃ、そのように暇であれば平壌で苦戦している小西を助ければ良いものを』といっておられたが」
「とんでもありませぬ、漢城から戻った虎の家臣たちで、五体満足な者などほとんどおりませぬ、凍傷が一番ひどく、足の指、手の指を失った者は数え切れません、それでも生きて帰れた者はまだよい、三人に一人が朝鮮で死にました
それも戦で死んだのではなく、風土病と寒さと飢えで死ぬものが大部分であったと、朝鮮の水を生で飲むとたちまち下痢腹痛に襲われ、ひどい者は衰弱して死んだとか、朝鮮の水は日本人には合いませぬ」
「ふうむ、名護屋にあっては知らぬことばかりじゃ」
「下人ばかりではありませぬ、毛利輝元さまも渡海後すぐに体調を崩されて、殿下が名医を送ってよこしたほどです、しかも殿下のお子である秀勝さまも朝鮮で病を得て亡くなりましたし、他にも多くの武将が命を落としています
戦で死ぬは本望なれど、飢えや病に負けるとは無念でござる」
このように、秀吉に最も近い福島でさえ朝鮮侵攻に良い印象を持っていないことが、家康にわかった。

 細川忠興などは親の藤孝の頃より、秀吉には臣従したものの、立場的には足利義昭、明智光秀、朝倉義景など敵対側に身を置いていたから、福島や加藤とは立場も思い入れも異なった見方をする。
「徳川大納言様は公平な視野をお持ちの方でござるから、あえて拙者は申し上げたい、できれば太閤殿下を御諫めしていただきたいのです
この戦には何の収穫も意義もありませぬ、大明を征服するなど一気に30万、40万の軍勢を投入すれば可能やもしれませぬが、三成では兵員を一度に輸送することはできません、すなわち大明征服は絵に描いた餅
朝鮮兵は我らの敵ではありませぬ、しかし見えぬところからあらわれ兵糧を焼き、小部隊を襲う、そうなれば飢えるしかありません
とても戦どころではないのです、幸州山城攻め、最初の晋州城攻め、平壌を守り切れなかったのもすべて兵糧が届かなかったり、失ったからです
このような戦を続ける限り、大明どころか朝鮮の支配もままならんでしょう」
家康には、秀吉が絶対権力をふるうご時世にも細川忠興のような見方をする大名がいることに驚いた、ここまで本音を聞けるとは期待していなかった。

 小身の藤堂高虎はもっと露骨であった
「この戦は、やめるべきでありましょう、なぜなら拙者は水軍を率いてわかりますが、輸送能力が全く貧弱である、朝鮮の水軍は黙らせましたが、兵員と物資、兵糧の輸送は1年かけて20万が限界、これでは戦は続きませぬ
冬は日本の寒さの比ではない、戦ができるのはせいぜい半年、冬は南に撤退しなければ凍え死にます。
それよりも帰国してわかりましたが、太閤殿下と関白殿下の間がぎくしゃくしていて驚きましたぞ、名護屋に待機している諸将も浮足立っております
大納言様は既にお気づきでありましょう
わが主、中納言様はまだ若いが大身であります、いずれにお味方して良いかと悩んでおられる、拙者は『北政所様におすがりなさい』とは申しておりますが
本当は徳川様と前田さまに太閤殿下にご意見していただきたいと思っております、これでは戦どころではありませぬぞ
ところがルソンにまで攻め入ってスペインを叩きだすとも申されているとか、陸戦がいくら強くとも、船による兵員輸送が南蛮人とはまったく比べ物になりません、やつらは大海原のはるか遠くメキシコとかいう国からもわたってくるとか、国内に不安を抱えたままルソン征伐どころではありますまい
ここらが引き時かと拙者は思いますが、いかにも拙者は小者の股家来でありまして、どうにもなりませぬ」
このような言葉が秀吉に聞かれれば、たかが8万石の藤堂などの首は飛ぶ
それなのに堂々と持論で秀吉を批判するとは、大バカ者か、よほど胆が据わっている者かのいずれかであろう、と家康は思い、藤堂を見直した。

 黒田長政も、かっては秀吉の片腕として出世レースに大貢献した父、黒田官兵衛が今は粗略に扱われていることに腹を立てている
このような秀吉の大名たちの話を聞くと、豊臣政権も第二世代に移る大変革の時を迎えたと思うのであった
それはすなわち保守的官僚たちの太閤派と、新進気鋭の二世武闘集団の秀次派
に国内が分裂前夜であることを示している
このような閥ができそうなことは、すでに秀吉も捉えているであろうと家康は思った、そして今日の彼らが忌憚なく家康に話したことは、家康を全面的に信頼しているからに他ならない
確かに家康には落ち着いた大尽の雰囲気が漂う、話すまいと思っていても、知らず内に話したくなる安心感と頼りがいがあるのだろう。
(このように若侍たちの口から不満が出るようであれば、近いうちに秀次との間にことがおきるに違いない、しかも二分となれば戦同様の犠牲者も出るに違いない 儂と前田殿は中立を守って、いざと言うときに備えて犠牲者を少しでも減らさねばならぬ、このような愚かな身内争いで国力を落とせば、征服どころか、南蛮人に征服されてしまうであろう)




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