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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(233) 甲越 川中島血戦 60

2024年10月25日 17時10分19秒 | 甲越軍記
 戦が落ち着くと武田の本陣では首実検と論功行賞が行われた
信玄は馬場、小幡、小山田の先備えの諸将を賞した
されど戦はまだ続いており、甲州の虎、相州の龍は睨み合ったままである。

そうした緊張するところに、駿州臨濟寺の雪斎和尚と善徳寺の長老が戦場に訪れた
そうして北條氏康、武田信玄に向かい「隣国が干戈を交えるとは愚かなリ、北條も武田もわが今川家とは好み深い家同士である、今川から見れば肉親同士の戦であって、到底見逃せない」と言って調停に割って入り、ついには戦を辞めさせて、三家の和睦をも成立させた。

信玄の嫡子、太郎義信はすでに義元の娘との婚約あり、今川義元の息子、氏真を北條氏康の娘婿と定め、氏康の嫡男、氏政を信玄の娘婿とすることが約され、そして三方に引き上げて行った。

この度の戦では、馬場民部少輔景政、先駆けとしての軍功華々しく、今川家より慇懃の書を賜わる
また小幡入道父子の働きめざましく、のちに信玄が駿河を得た時、加嶋において百貫の地を小幡又兵衛に加増した。

弘治二年に三方同時にお輿入れあった、そのとき武田信玄はかって北条家に解き放った原美濃守入道清岩を所望する
氏康は深くこの勇士の返還を惜しんだが詮方なく甲州へと送り出した。

さて、越後では長尾景虎が去年、関東管領上杉憲政から管領職と上杉の姓、そして憲政から諱を賜り、上杉弾正少弼政虎入道謙信と名乗った
そして憲政に頼まれて相州に兵を出し、北條氏康としばしば合戦に及んだが、留守の間に、信玄は小笠原を滅ぼして、北條、今川と共に三国同盟を結んだ
これによって、駿河、遠江、相模、甲州、中信濃から北信濃にかけて一大敵対勢力国家が完成した

されども、剛勇無双の謙信は少しも怖れず、相模の陣を引き信濃に打ち出て信玄との一戦をもくろむ
重臣の長尾政景、宇佐美定行、千坂対馬、加地安芸、竹俣三河、三宝寺などの古老と明日の相模退口の評議を行っているところに、柴田因幡守治時十五歳が謙信の側にいたが進み出て
「この備えは甚だ不都合ではありませぬか、お歴々の皆様方もこれに同ずるとはいかがでありましょうや」と、恐れもせず申せば、謙信は大いに怒って
「くちばしの黄色い小倅が、歴戦の古老が定めた手配りを難ずるとはけしからぬ」と雷鳴の如し
すると因幡守は、畏まって少し後ずさりをして頭を地につけて申すに
「されば、某を今の今より、お暇を取らせ賜え、拙者はすぐに小田原に走り氏康の先鋒となって越後衆の退口へ攻め寄せましょう
このような備えの越後勢であれば、難なく切り崩して酒匂川よりこの方にて謙信公を討ち取るでありましょう」とこともなげに申す

謙信はしばし考えてから「その方の申す事は至極当然なリ、因幡守、器量抜群なり、明日の殿軍はそなたに任せよう」と言えば、因幡守は大いに喜び、手勢を引率して、少しの隙も無く殿軍を勤めれば越後勢は少しの危うきも無く相州を去る。



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