159. 不死身の特攻兵について (鴻上尚史著 文芸春秋2018年三月号)
これを紹介しますのは、全ての組織に於いて、上司や上官の命令には、基本的には従うべきですが、自己の信念に沿わない時に、たとえ処罰を受けたとしても、従えない究極の場面は、一生に一度か二度あるかもしれません。その時の参考になればと考え、紹介いたします。
『 九回特攻に出撃して、九回生きて帰って来た佐々木友次さんについての本「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(講談社現代新書)を去年上梓しました。ありがたいことに好評で、版を重ねています。
もともと、佐々木さんのことを知ったのは二〇〇九年、ある本の短い描写からでした。
陸軍第一回の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」の一員だった二一歳の佐々木さんは、出撃のたびに、「特攻」せず、爆弾を落として生還しました。そのたびに、上官は「次は必ず死んでこい!」と叫びました。
二度、大本営は軍神として発表しました。新聞で大々的に報道され、天皇にも上奏されていたので、生きていては困るのです。
それでも、佐々木さんは生きて帰りました。一度は大型船に爆弾を命中させ、もう一度は楊陸艇に至近爆発の被害を与えました。
それでも、上官は体当たりを求めました。爆弾を命中させたら、その後体当たりをしろとさえ言いました。けれど、二一歳の佐々木さんは上官の命令に従わず、九回出撃し、九回生還したのです。
こんな日本人がいたことに僕は衝撃を受けました。今までの「特攻」の常識を覆すような存在でした。けれど。二〇〇九年、佐々木さんの存在は遠い歴史の彼方だと思っていました。
ですが、佐々木さんは生きていました。僕は二〇一五年、それから六年後さまざまな偶然を経て、札幌の病院でお会いします。
佐々木さんは目が不自由になっていましたが、意識ははっきりしていて、第一回の出撃の日にちまで正確に記憶してました。僕は五回お会いして、四回、計五時間近くインタビューをお願いすることができました。
佐々木さんは小柄な人でした。身長は一六〇センチ足らず。この人が、九回も上官の命令を無視して生還したのかと思うと、その秘密をどうしても知りたくなりました。
初期の特攻隊は、ベテランのパイロットが選ばれました。国民の戦意昂揚や時局打開のために、どうしても特攻を成功させる必要があったからです。
けれど、ベテランパイロットであればあるほど「爆弾を命中させるのではなく、体当たりしろ」という命令は技術の否定であり、パイロットのプライドを傷つけるものでした。
彼らは、毎日、激しい急降下爆撃の訓練を積んでいました。だからこそ、爆弾を命中させたいと思っていたのに、上層部はただ一回だけの体当たりを命令したのです。
佐々木さんも、万朶隊の隊長である岩本益臣大尉も反発しました。けれど、多くのベテランパイロットは、命令に従うしかありませんでした。
それが軍隊です。けれど、佐々木さんは生きていたのです。どうしてそんなことができたのか、なぜ途中で上官の命令に自暴自棄にならなかったのか。
なぜ二一歳という若さで死刑にも相当する軍規違反を続けられたのか。僕は何度もベッドの佐々木さんに聞きました。「特攻隊」を調べていけば、そこには「日本」が浮かび上がります。
初期はまだしも、後期、沖縄戦になると特攻の成功率は著しく低下します。けれど、誰もやめようとは言いだしませんでした。却って、精神主義的に美化が進みました。
実態とかけはなれた美化に、当事者である特攻隊員は苦悩します。本書が五万部を突破した頃から、あきらかに読まないまま批判する言葉がネットに出てきました。
ツイッターでは直接、暴言を投げかけられました。読めば、僕は特攻隊をムダ死になどとは一行も書いていないことが分かります。それは日本人が忘れてはならない厳粛な死なのです。
けれど、「特攻隊を冒涜するな」とか「アジア解放戦争の意味が分かってない」と言われます。そんな文章を見ながら、やっかいな時代に僕達は生きていると思います。
読んだ上で批判するなら分かります。けれど、予断とイメージだけで対立していくのは、不毛なことだと悲しくなるのです。それは、特攻隊の時代の精神主義とまったく同じです。
実証的なデータで効果を分析するのではなく、ただ観念で断定していくことなのです。ネットでさまざまな中傷を受けながら、それでも僕は佐々木友次さんの存在を日本人に伝えなければいけないとあらためて思います。
そのためには、「読まないままの批判」にも負けず、発進を続けようと思っているのです。 』
私が、「不死身の特攻兵」を読んで、感心したのは、佐々木友次さんの父親(藤吉)さんの話です。
『 藤吉は、日露戦争の時、旅順の203高地を攻撃する白襷(たすき)隊の一員だった。夜間、白い襷を肩からかけて、高地の斜面を登り、敵陣地を強襲しようという部隊だった。
だが、白い襷は、夜の闇の中でかえって目標になった。ロシア軍の機関銃は白い襷を目標に銃弾を浴びせた。決死隊の白襷隊は全滅に近い悲劇に会った。父の藤吉は、この激戦の中で生き残った。
その時に一つの信念が生まれたそれは「人間は、容易なことで死ぬものでない」ということだった。日露戦争が終わって、藤吉は無事に故郷の当別村に帰って来た。 』
司馬遼太郎の「坂の上の雲」のなかで、203高地の話を読みましたが、父と息子が揃って、大変な窮地の中を生きて帰って来たことは、運の強さは無論ですが、その精神力は私たちも学ぶ何かがあるように感じました。(第158回)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます