95. 地球を救う森づくり (前) (宮崎林司著 平成16年5月発行)
本書は森づくりの本ですが、前半では、熱帯雨林の破壊がどのような手順で行われるのか、現地にいてその一端に携わった著者の話には、現地の人々だけでなく、我々日本の消費者の責任をも見えてきます。
ここで私なりの熱帯雨林の定義について述べます。熱帯雨林は年間を通して強い太陽光のもとにあります。この強い太陽光に対抗するために、大量の雨と五層にもなる樹木をもちます。アジアにおいては、最も高いフタバガキの巨木は、60~70メートルの高さになります。
この層から、順に低い層に、太陽光は利用され、地上の着くまでに、その太陽光は利用し尽くされます。このような植物層を形成するには、大量の水が必要となり、雲を形成するための山、海と森をつなぐための川が必要です。
この多様な植物に、一つの植物種には、数種から数十種の昆虫が生息し、川には魚類が生息し、森には、木の葉、昆虫、果実、花蜜を基本食料として、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が、相互の共生と食物連鎖によって、頂点捕食者が形成されますが、捕食者の糞と死体は、菌類によって分解されて、森に還ります。
すなわち、熱帯雨林全体を一つの系と捉えると、熱帯雨林自体が、代謝(物質循環)することによって、巨大な生命体として、エントロピーに逆走しています。これらの熱帯雨林も中心となる巨木を失う時、巨大な生命体としての熱帯雨林も失われます。
『 新しい職場についてまもなく、私は初めての海外出張を命じられました。行先はインドネシアのセレベス島(スラウェシ島)です。千メートル級の山々が連なり、山林が複雑に入り組むこの島で、輸入する価値ある木材が十分にあるかどうかを調べるのが仕事でした。
生まれてはじめての熱帯雨林のジャングル、そのうだるような暑さのなかで山ヒルに血を吸われながら、時にはボートを押しながら川をさかのぼり、道なき道を進みました。
現地のガイドでさえ「フォレスト・ショック」というパニック状態におちいり、彼はとうとう帰ってしまいました。そんななかでもさらに奥地へ進みながら、約一週間の調査を進めていったのです。
当時、熱帯雨林の調査といえば、ただひたすら根気よく、山を歩きながら測定するしかありませんでした。調査区域を幅二十メートルにしぼり、コンパスを見ながら、ひたすらまっすぐに歩いて商業木として該当するものを測定していくのです。
人の意志を働かせないで平均的なデータをとるために、決めた調査区域から逸れないのが絶対条件です。行く手が谷であれ山であれ沼であっても、困難をよけて通ることはできません。
このような地を這うような調査によって、山全体に商業木がどれだけ蓄積されているかを推計してゆく訳です。
こうした熱帯雨林の調査結果、開発するに十分な木材があると判断したら、会社はその山で二十年間にわたって伐採できる林区権(森林開発権)をその相手から買い取ります。
私が出張したインドネシアで、大規模な森林開発が行われるようになったのは、一九六七年の外資法改正以降です。その前年に大統領となったスハルト将軍が、インドネシアの解放経済を進めたのです。
インドネシア政府は外国企業に対して、自国の熱帯雨林の開発を積極的にはたらきかけ、外貨をかせいでいきました。
七十年代には日本をはじめ韓国、マレーシア、シンガポールなどから開発申請を行う企業が相次ぎ、インドネシアの熱帯雨林の広範囲で伐採事業が進められたのです。 』
『 セレベス島での厳しい出張を経験した翌年、私は正式にインドネシアの駐在員としてカリマンタン島のスブルという所に赴任しました。赤道直下の電気も水道も来ないベースキャンプでの暮らしが始まりました。
スブルは、熱帯雨林から木材を伐採・搬出するための最前線の基地です。私はそこのアシスタントマネージャーとして赴任しました。
ところが、その二ヶ月後にやって来た新しいマネージャーが早々にサマリンダという町の支店長に異動となり、しかも新しいマネージャーが補充されることもなかったため、すべての問題が経験の浅い私にふりかかってきました。
やがて本社から「お前がマネージャーをやるように」という辞令が降り、私は二八才の若さで百八十名のベースキャンプの責任者になってしまいました。
私は現地スタッフに最低限の単語を少しずつ教わることから勉強を始め、半年かけて、なんとか問題なくインドネシア語でコミュニケーションができるようになりました。しかし言葉がわかるだけでは、仕事になりません。
ベースキャンプでの仕事は多岐にわたりました。まず伐採しようとする山の調査から始まり、伐採のための効率的な道路建設の立案、インドネシア林業省の年間伐採許可取得、実際の道路建設と続き、ようやく伐採となります。
切るのは直径六〇センチ以上の太い木です。切り倒して丸太にした木はトラクターで道路に運ばれ、そこでトレーラーに積み込まれ、マハカム川という川のログポイントまで運ばれます。
ここで検品・計量を受けて官庁の許可をもらってから、丸太は筏に組まれカリュウのサマリンダという町まで曳航されていきます。ここまでが私の仕事でした。
一連の作業は何班にも分かれて、雨の日以外、毎日続けられます。三人いた日本人の現場監督からは、安全で効率的な作業のための改善の提案が毎日のように、私のもとに持ち込まれてきました。
彼らはみな四十代で、私よりずっと先輩にあたります。経験豊富な現場監督の提案は、生産効率や故障の割合などを数字で把握してみると、どれも的を射たものばかりでした。
私は納得できる意見は尊重し、それに沿ってどんどん現場を改善していきました。最も大きな改善点は、労務管理についてでした。勤務状況をごまかしたり、会社のものを勝手に持ち帰るような従業員が多かったのです。
私はマネージャーになってから半年で百八十名いた従業員の三分の二を入れ換え、まじめに働くものだけを集めました。
また賃金制度も改めて「固定給プラス出来高払い」を導入し、まじめに働けば評価してもらえるが、不正直なことをすればクビになる、ということをキャンプ全体に浸透させてゆきました。
総務の面でも、事務所内の机の配置をマネージャーである私がすべて見渡せるように変え、一人一人に報告させるようにして、個々の仕事のシステムを少しずつ改善してゆきました。
相手を信頼して教え、育てていく。良い仕事をしたらほめて、それを給料に反映させていく、こうした改善によってベースキャンプは急速に生産性を上げることが出来ました。
初年度に日本に送った原木は八万立方メートルで、これは前年の二倍にあたります。二年目にはさらに生産能力が上がり、十二万立方メートルになりました。
マネージャーとしての二年間が過ぎたとき、東京から社長が視察にやって来て、「東京に戻るように」との辞令が伝えられました。 』
『 六〇年代後半から始まった高度成長とともに、日本では住宅の建築ラッシュが起こり、木材需要が急激に高まりました。こうして七〇年代から八〇年代にかけて、日本は東南アジアの熱帯雨林から切り出した原木丸太を大量に輸入するようになります。
一九七〇年から一九八〇年の間に日本がインドネシアから輸入した木材の総量は、約二億千三百七十三万立方メートル。これを森林面積に換算すれば約千二百万ヘクタール、実に日本国土の三分の一の広さになります。
しかもマレーシアなどからの輸入もありましから、この時期いかにたくさんの熱帯雨林が日本の住宅のために切り出されたかが推測できるでしょう。そのまっただなかの時代に、私は森林開発の現場に深くかかわっていました。
インドネシアのカリマン島スブルから東京本社 に戻った私は、営業管理の仕事をしながら、林区の売買の話があれば海外の森林調査へ出掛けていました。そのような日々を二年間過ごしたあとで、今度は、同じカリマン島でもマレーシアのサバ州へ赴任することになりました。
このベースキャンプは数年前からスタートしていましたが、商業木の蓄積量が投資した額をはるかに下回り、事業としては失敗であることがわかっていました。
そこで会社は、この林区から木材をできるだけ早く切り出してローンをできるだけ回収し、事業をたたむ計画を立てました。そのプロジェクトに、私が今度は山林現場の監督として参加したのです。
赴任してしばらくたつと、伐採作業が以前よりも順調になり、木材搬出量が増えてきました。そんなある日、私はトレーラーの運転手と雑談していて、ふとその言葉を耳にしたのです。
「毎日毎日、こんなに大量の木材を切って運んでいるけれども、いったい日本人はこれを何に使っているんだ。木を食べているのか?」それは会話のなかの単なる冗談の一つだったのでしょう。しかし、私にはなぜかグサリと胸に刺さりました。
そう揶揄されても無理はありません。私たちは連日、四〇トントレーラーで何十台も原木を運ぶ作業を繰り返していたのです。それは毎日の仕事ですから何の疑いもない光景でしたが、言われてみれば「本当にそうだな」と納得するばかりでした。
私には思いも寄らない、素朴な一言でした。それまで当たり前に行ってきた森林開発という自分の仕事に、はじめて疑問を抱くきっかけともなった、とても重いことば言葉でもありました。 』
『 森林開発では、商業的に取り引きできるだけの大きな木を切ることが目的になります。これから大きくなる細い木まで、すべて取ってしまうことはありません。もし木を植えて育てる量と伐採の量のバランスがとれていれば、森林破壊が起こらないのです。
七〇年代から八〇年代に日本をはじめとする外国資本が行った森林開発は、明らかに自然界のバランスを崩す乱伐だったことに間違いありません。インドネシアやマレーシアには大きな外貨をもたらしましたが、一方で熱帯雨林は劣化し、減少しつづけました。
それがのちに環境破壊として、世界中から非難を浴びることになるわけです。しかしそれに拍車をかけたのが、インドネシアの農民たちが行った焼き畑と不法伐採でした。
それまでは未開のジャングルで農業など不可能な土地でしたが、木材搬出のための道路が造られたために、耕作地を求める多くの農民が自由に山へ入ってくるようになりました。しかもそこには大木が切り倒されたあとで、もう少しの整備で農地とすることが可能だったのです。
山に入った農民は、森林に残された細い木を切り倒して耕地をつくり、さらに下草を焼き払って、いわゆる「焼き畑農業」を行いました。そこで陸稲を育てたり、バナナやトウモロコシなどを栽培するのです。
しかし、土壌はあまり豊かではありません。連作はきかず、せいぜい三~四年で作物が育たなくなってしまいます。すると農民たちは次の新しい耕作地を求めて移動し、また別の土地で木を切り倒し、焼き畑農業を行います。
それが延々と繰り返され、森林破壊は加速度的に進んでいったのです。日本人の感覚では、国有林であるはずの山になぜ勝手に侵入して農業ができるのか、疑問に思えます。
しかし、山を開墾して「ここはオレのものだ」と畑をつくることは、インドネシアでは古くから習慣的に行われてきたことでした。本来なら、畑をつくったら官庁に届け出て税金を納めて所有権をもらいますが、お金がかかるため正式な手続きを踏む農民はほとんどいません。
国の法律ができる前に、農民たちの間には昔から続いてきた習慣による暗黙の「法律」が存在していたのです。カリマンタン島に昔から住んでいるダヤック族などは、集落をつくって比較的長期間そこに定住し、狩猟と、小規模の伝統的な循環型焼き畑を営みながら森と完全に共生して暮らしてきました。
耕作地をむやみに拡大するのではなく、一定のサイクルで休ませながら焼き畑をまわして使うのです。しかし森林開発がエスカレートしてからは、こうした伝統的な焼き畑の習慣を持たない人々が、次々にカリマンタン島に流入してきました。
政府の推奨した「住民移住計画」によって、人口密度の高いジャワ島やほかの島から、貧しい農民たちが移住してきたのです。
彼らは政府から一定の土地をもらった移住者ですが、こうした循環型焼き畑の習慣がないため、数年で次々に新しい農地を開拓し、熱帯雨林の森を焼き払っていったのです。 』
『 われわれが開発した山でも、農民たちがつくった焼き畑に度々ぶつかることがありました。しかし、「勝手に木を切って焼き畑にするな」とは言えないのです。
特にほかの島から移住してきた人々は、ほとんどが貧しい農民で、未開の土地で必死に生活している人々でした。不法侵入者として排除することはできません。
そもそも道路がなければ、このようなことは起きませんでした。したがってこの問題も、外国資本が行った森林開発がもとになっているのです。
ただし根底には、インドネシアの人口問題や貧困問題もひそんでいます。環境問題には人間社会の複雑な要因がからんでいるので、解決も難しくなるのです。
焼き畑農業ばかりではありません。森林破壊は、さらに違法伐採によっても進んでいきました。われわれが森林開発で伐採するのは、一ヘクタール内で四~五本という割合でした。
残されたまだ成木とならない細い木を違法伐採して、現金収入を得る人々が後を絶たなかったのです。こうして熱帯雨林は、ところどころ完全な丸坊主の状態になり、そのままでは再生が難しいほどに破壊されてしまったのです。
熱帯雨林の環境は地球環境にとって、とても大事ですが、地元の貧しい人々の生活をどう成り立たせていくかも重大な課題です。つまり環境を守るには、地元の人々の生活が成り立つような、経済的な裏付けが必ず必要になるのです。 』
『 東京本社でのデスクワークのあいまに、私は海外のさまざまな森林調査にでかけて行きました。一つの案件に約一か月ほどかかるので、年間の三分の一は日本にいませんでした。
こうした忙しい毎日のなかで、私は自然に対する見方が、しだいに変わってきたことに気づいていました。単純にそこに経済的な蓄積があるからという理由で、森林開発にGOサインを出すことができなくなっていました。
会社の仕事の一方で、熱帯雨林は守らなければならないということを意識しはじめていました。それが決定的になったのが、一九八八年(昭和六三年)に起きたNGO「熱帯林行動ネットワーク」によるデモでした。
「マレーシアのサラワク州の原住民の生活を守れ」というスローガンのもと、大きなチェーンソーの模型を持った大勢の人々が、ある商社に押しかけたのです。その商社は、前年の木材の輸入量で国内第一位となっていました。
チェーンソーの模型には「森林破壊大賞」という皮肉な文字が躍っていました。サラワク州は、カリマンタン島マレーシア領の一帯で、インドネシアとの国境周辺にはカブアス・フル山脈などが広がる広大な山岳地帯があります。
ここには太古の昔から、イバン族という山岳民族が森と共生しながら暮らしていました。ところが日本企業による森林開発が広がるにつれて、昔ながらの伝統的な森との共生生活ができなくなってしまったのです。
この事実を知ったNGOが、南洋木材の輸入量が当時、日本一であった商社にデモで押し掛けたのです。このニュースを知った私は、強い衝撃を受けました。
現地従業員の利益も考え、そこに昔から住む人たちも尊重する気持ちをもって、森林開発にあたっていた私にとって、そのデモの真の矛先が、自分自身であることを思いました。それが、大きなショックだったのです。
ただし、そのころの私には、必ずしも自分たちが環境破壊の旗手であるわけではないのだ、という思いもありました。私たちんの伐採事業は、先にも述べましたように、胸の高さの直径が六〇センチ以上の太い木しか切らない「択伐」というやり方を守って進められました。
そのような木は、一ヘクタールでせいぜい四~五本程度です。森林開発というと山を丸裸にしてしまうようなイメージがあるかもしれませんが、決してそのような乱伐をしていたわけではありません。
そういう自負がありましたから、なぜ環境破壊の首謀者のように非難されなければならないのか、という思いもあったのです。しかし彼らの主張を聞いているうちに、環境破壊の大きな原因は、われわれが開発のために切り開いた道路のあることがわたってきました。
この道路が焼き畑農業や違法伐採を推進する結果になったからです。われわれがつくった道路を使って侵入し、山を本当に丸裸にしてしまう人々を、先進国に生きるわれわれの論理で、簡単に非難することはできません。
彼らの多くはほかの島から移住してきた農民で、いくつかの場所をローテーションでまわす伝統的な焼き畑の方法を知りません。そもそも、生態系における森の重要性を認識して、森を守らなければならないなどと理解している人は一人もいないのです。
彼らは生き残るために、一生懸命に自然と闘っているのです。違法な伐採にも、経済的な背景があります。合板工場や製材工場への原木を確保できなければ工場は止まり、多くの従業員が路頭に迷うでしょう。
われわれがつくった道路は、われわれが想像もできないような面からも、森林環境に変化をあたえていたのです。 』
『 このような環境破壊は、熱帯雨林に存在する貴重な動植物の種を、地球上からものすごい勢いで消し去っているとも非難されました。熱帯雨林は陸地の七%に相当するほどの広さがあり、そこには地球上の生物の五〇~八〇%の生物が生息していると言われています。
特に熱帯雨林は「生物の宝庫」です。そこには人類にとって食料や薬の原料になる貴重な野生生物種が数多く生息していると見られ、将来の研究成果が期待されています。
熱帯雨林を破壊する行為は、そうした未知の生物種を絶滅に追いやることで、人類や地球の繁栄を妨害していると多くの学者が主張しています。それほど熱帯林、特に熱帯雨林での生物種の絶滅は急速なスピードで進んでいると指摘されました。
こうしたさまざまな意見を聞いているうちに、私は自分たちが行ってきたことの重大さをはっきりと理解できるようになりました。気づかないところで、人間も含めた自然体系に大きな影響を与えてしまっていたのです。
「このまま森林開発を続けていてはいけない。なんとか植林事業を展開できないだろうか」という私の思いは、これをきっかけに日ごとに強くなっていきました。
もしわれわれの会社が環境破壊の元凶であるという抗議デモを受けたら、企業のイメージダウンは相当なものになります。そのダメージを回復するための広告宣伝費は、二十億や三十億では足りないでしょう。
私は社長と会長に直接会って談判し、それだけのお金を植林事業に活用すべきであることを提案しましたが、「会社がもっと儲かって、余裕がでてきたらやりましょう」という結論でした。
こうして私は、自分の人生を自分で切り開き、自分で納得して、心から誇れる仕事をなしとげるために、一八年間勤めた会社を辞め、「自然」と「健康」をテーマとする会社を興す決意をしたのです。 』
ここまでを「地球を救う森づくり(前)」として、森づくりについては、後編へと続きます。
私は、この前半の熱帯雨林の過去から、現在までの歴史がかなりの精度で記述されており、熱帯雨林のすごさとその「はかなさ」がよく記述されていると思います。
これは、メソポタミア文明やエジプト文明が塩害によって、豊かな農地が小麦から大麦、そして不毛の地になるように、はかないものです。熱帯雨林は巨木を中心に多くの樹木によって、強烈な太陽光を何段もの葉の葉緑体によって、光合成をおこなって、地表を太陽熱から守っています。
木の葉から水分として蒸発した水蒸気は、上空で雲となり山にぶつかり雨を降らせます。熱帯雨林は、酸素を供給するとともに、温度上昇をも抑えています。
道路とチエンソーとトレーラー(木材を道路まで引っ張る)と火によって、あっという間に不毛の大地になりますが、元の熱帯雨林に戻すには大変な努力と資金を投下しても、少し近づけることしかできません。
そして、これらを失った時、われわれは、はじめてその重要さに気づくのではないでしょうか。(第94回)
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