16.2 言語、文字、数式 (その3)
メソポタミア文明の紀元前3千百年頃、財の種類ごとに特定の形のトークンで計算さていたが、数字が発明され計算の対象物と数とがついに分離した。これら二つの概念は各々の特定の記号で表現されることになり、計算対象物は粘土板に線描絵文字で描かれた。財の単位数は、1,10,60,600そして3600を表す数字によって示された。
この10進法と60進法(暦や角度のため)によって、大きな数量を容易に表現された。これらが数を抽象的につまり計算される対象物から独立して表現された最初のシンボルである。これは今日の財務会計のために、数と単位が発明された。
紀元前2千~1千年に於いて、エジプトにとってもバビロニア人にとっても体積の問題は重要だった。なぜならピラミットや神殿、治水設備の建造に実際に適用された。
建設に必要な物資の量を決定することは、必要な労働者の数や彼らが食べるパンがどれだけ必要かを計算する必要があった。これは、暦、農地の測量、灌漑事業、神殿建設のため、面積計算、体積計算、方程式、幾何学が行われた。
5世紀頃インドに於いてアラビア式10進記数体系が確立し、現代の数学の様式となった。
15世紀末にコペルニクスが「天球の回転について」に於いて、太陽を中心におき、これを静止の基準としたが、主要な構造、つまり恒星や惑星を制御する天球は残っていた。コペルニクスは、太陽の回りを地球が回っているとしながら、それを説明することはできなかった。すなわち重い地球が宇宙空間に浮かぶことを説明できなかった。
コペルニクスが亡くなって1世紀、ブルーノは宇宙は無限で中心がなく、その中の恒星はすべて太陽であるという説を唱え、ケプラーは球が要求する円運動を捨て、惑星の軌道は楕円であると述べた。ガリレオは自分の望遠鏡をつかって、銀河がブルーノの考えたとおりであることを見出し、木星の衛星を発見した。
ガリレオは、地上の運動(力学)と天空の運動を同じ法則によって説明しようとした。彼は、地球の自転という観念に対する障害を、地球が回転するなら地表のあらゆるものは、空気をも含めて回転するから、人々はまるで静止しているような印象を受けると考えた。
17世紀にニュートンは、太陽と地球、地球と月の関係を詳細に観察し、太陽のまわりを地球が回り、地球のまわりを月が回るのを説明するために、引力は互いの質量に比例し、互いの距離の二乗に反比例する、という考えを受け入れ、近代的な慣性の原理を受け入れ、それを惑星の運動に適用した。
彼は、月は投石器の中の石のようなもので、接線方向へ飛び去ろうとはするが、引力によって引き止められているのだと想像した。そして計算により、月をその軌道にひきとめておくに必要な「引力」は重力に等しいこと、じっさいにリンゴを地面にひっぱっている力に等しいことを明らかにした。(近代科学の歩み H.バターフィールド)
ニュートンは「プリンキピア」(自然哲学の数学的原理)として、1687年に出版した。ニュートンは、重力、速度、加速度、距離、時間の関係を説明するため、微分積分を見出した。微分積分が最も威力を発揮するのは、惑星の運動であり、これによって人類は宇宙空間に進出する基礎を確立し、エントロピーに逆走する計算方法を確立した。(第26回)
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