さて、前回は我が国の終戦記念日についてと、それに繋がる憲法の話しをしました。
憲法についての私の考えは、前回示した通りになります。
現憲法では、北朝鮮のミサイルも実は撃ち落せません。
更に現在配備されているSM3やPAC3では、全てを撃ち落せません。
北朝鮮は弾道ミサイルが200発は配備されていると言われています。
ボロもありますが、半分の100発が同時に発射されたなら必ず『撃ち漏らし』があります。
全てを防げるものではありません。
そんな能力は世界中にもありません。
米軍ですら不可能です。
その中で北朝鮮がまさか山の中や、田んぼのど真ん中を狙うはずはありません。
都市や社会インフラを狙います。
その場合、一体どうやって国民の命を守るのか?
それを実現する為に憲法をどうするのか?
法律をどうするのか?
その一つの考えとしての意見が前回の記事となります。
例えば、弾道ミサイルや核兵器を我が国も持つのか?それも議論しなければなりません。
弾道ミサイルを防ぐ、無効化する兵器を作る方が技術的にも難しく、コストもかかるのです。
実際に我が国にミサイルを使用するかどうかは、その時の状況によります。
しかし、これに対抗するシステムや兵器の方が、はるかにコストがかかるのです。
核兵器にしても、これを無効化する方がはるかにコストがかかる。
相手の狙いは、そこにあるのです。
こちらは、使用された場合を想定して対抗するシステムを開発しなければなりません。
技術やコストを負担しなければならない。
それだけで相手には有利に働きます。
だからこそ『核には核で対抗する』或いは『ミサイルにはミサイルで対抗する』となってしまうのです。
その方が手早く、安く対抗出来るからです。
我が国はどの手段を取るのか?
はっきり言って『何もしない』や『何もしなければ相手も何もしない』は通用しません。
現実に周辺国に『何か』をされているからです。
それから原発に撃ち込まれたらどうするんだ!とかアホの左翼が言ってますが、原発は『核』攻撃でないと原子炉は破壊されません。弾道ミサイルで破壊されないのは実験からもわかっています。
確かに冷却の設備を失えば福島の二の舞です。
「だから原発止めろ!」は論点が間違いです。例え原子炉を止めたとて燃料はそのままです。
止めても安全ではありません。
本来の論点は『撃たせるな』とか『撃ち落せ』という話しで、逆に原発を止めたとあれば我が国は備えも防御も出来ない、或いはしないのだと間違ったメッセージを送ることになります。
断固として対応する!という態度をしなければ相手に付け入る隙を与えてしまいます。
超一級戦犯
またまた前置きが長くなってしまいました。
しかし、この前置きは必要な前置きですのでお許しを。
我が国の憲法や法律、更に現在の我が国を取り巻く状況を考えてみようと思います。
その上で、数ある歴史の事実の中で先の大東亜戦争の中の出来事を中心に考えてみようと思います。
大日本帝国陸軍に戦争の天才と呼ばれ、世界から恐れられた軍人がおりました。
石原莞爾(いしはらかんじ)
昭和6年(1931)の満州事変の首謀者で柳条湖事件を自作自演で起こした人物として知られてもいます。
歴史上の評価は分かれます。
しかし、この男がこと『戦争』に関してずば抜けた才能の持ち主であるのは間違いありません。
石原莞爾が指揮する関東軍はたった一万程度の兵力で、近代装備を有していた張学良軍を、たった3ヶ月で制圧し、日本の3.5倍の広さがある『満州』全土を占領してしまいました。
これには世界中が驚き、恐怖すら覚えた事でしょう。一躍時の人となった石原莞爾を、当時の世界の政治家や軍人で知らぬ者はいませんでした。
近代戦で兵力差3倍以上は、小さい方が勝てるはずはない。
しかし、石原莞爾は20倍以上の差を跳ね除け、立ち回り勝利してしまいました。
しかし、この石原莞爾は昭和12年(1937)に盧溝橋事件が起きると、支那事変の拡大をめぐる状況で東条英機と衝突することになります。
この政争に敗れた石原莞爾は失脚し、軍人を引退する事になります。
その後、再び彼が世界から注目されるのです。
昭和21年(1946)東京裁判です。
当初は戦犯リストに載っていた石原莞爾ですが、後にリストから外れました。
東京裁判では証人として尋問を受ける事になりました。
膀胱癌で入院していた石原莞爾は、入院先の逓信病院で裁判初日の5月3日からアメリカの検事に病室で尋問を受けます。
その2日目の尋問で冒頭に石原はこう述べます。
「もし陛下が自分に参謀総長を命じたならば、日本はアメリカに絶対負けなかった。だからその時は君は敗戦国だから、我々の膝下にも及びつかないよ」
アメリカの検事を唖然とさせました。
参謀総長とは陸軍の作戦を立案する機関の最高責任者です。
内閣総理大臣と同じく、天皇の任命によりその職に就きます。
『戦争の天才』がこう言ったのだから、石原莞爾を知る者ならば「もし石原莞爾が仕切っていたら…」と考えてしまいます。
日米の立場は逆転していたのではないか?
そして検事は石原に問いかけます。
「今度の戦犯の中で、一体誰が一級か?」
石原莞爾の答えは
「それはトルーマンだ」
自信満々に答え、またもや検事を唖然とさせました。
検事が理由を問うと「わからないのかい?」と答えます。
そして一枚のビラを枕元から取り出し、検事に見せます。
「米国大統領就任式に臨んで『日本国民に告ぐ』とある。ルーズベルトが死んだ直後だから5月頃のビラだがね。このビラは米軍が飛行機から落としたものだ。この一帯はB-29で焼け野原になって いた。こう書いてある『もし、日本国民が銃後において軍と共に戦争に協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず全部爆撃する。だから平和を念願して反戦態勢の機運を作れ!』とね。トルーマン大統領名で書いてあるじゃないか」
更に
「国際法では、非戦闘員は爆撃するなと規定があるにもかかわらず、非戦闘員を何十万人も殺したではないか!国際法違反である。このビラが立派な証拠だ!」
すると検事は「あれは脅しだよ」と言うと石原莞爾は間髪入れずに答えました。
「そうじゃない。このビラの通りに実行したじゃないか!東京では家はもちろん、犬コロまでB-29で軍需工場でもないところまで非戦闘員を爆撃したじゃないか!広島と長崎には原爆を落とした。これは一体どういうことだね?世界の道義に訴えて世論を喚起すべき性質のものだろう。トルーマンの行為は第一級の戦犯だ!一国の元首である大統領ともあろうものが、こんなビラを出したのは蛮行である」
石原莞爾の答え
昭和22年(1947)
5月1日から2日にかけて山形県酒田市にて東京裁判酒田特別法廷が開かれました。
東京に出廷させるつもりが、石原莞爾の病状が悪化した為に、法廷が山形県に出張する事になりました。
検事が満州事変について関東軍の装備は劣弱だったと言うが、奉天を衝くだけの武力を備えていたかの問いかけに対し石原は「死中活を求める以外の作戦は不可能でありました」と述べました。
兵力が増強されなかった為に、最善を尽くして努力したと説明しました。
そして次の証言に法廷は凍りつきます。
「もとより戦争の勝敗は予想されませんが、訓練よく団結よく、作戦よろしければ、必ずしも兵数の劣弱をおそれるものではありません。例えば今次太平洋戦争において、日本の戦力はアメリカに対して非常に劣弱でありましたけれども、作戦よろしきを得れば、必ずしも敗北するものではなかったと私は信じております」
各国の記者が詰めかける正式な法廷での発言。
更に、まだ講和條約も締結しておらず、占領下でのこの発言。
この発言が、その後これ以上追及される事はありませんでした。
しかし、記者達の好奇心を煽るには充分です。
その夜、UP通信とAP通信の記者が石原莞爾を訪問し話を聞いています。
「あなたならどんな戦争をしたか?」
その問いに石原莞爾は答えます。
「補給線を確保する為に、ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島は早急に放棄して資源地帯防衛に転じ、西はビルマの国境からシンガポール、スマトラ中心の防衛線を構築、中部のフィリピンの線に後退、他方本土周辺及びサイパン、テニアン、グァムの内南洋諸島を一切難攻不落の要塞化し、何年でも頑張り得る態勢を取る。
外交的には支那事変の解決に努力傾注する。
特にサイパンの防備には万全を期し、この拠点は断じて確保する。日本が真にサイパンの防備に万全を期していたら、米軍の侵入は防ぐことが出来た。米軍はサイパンを奪取出来なければ、日本本土空襲は困難であった。それ故サイパンを守り得たら、ボロボロガタガタ飛行機でも、なんとか利用出来て、レイテを守り当然五分五分の持久戦で、断じて負けない。
蒋介石がその態度を明確にしたのはサイパンが陥落してからである。サイパンさえ守り得たなら、日本は東亜一丸となることが出来たであろう」
この話しに記者達は納得します。
更に痛烈なマッカーサー批判を展開し、大統領を批判。
アメリカによる都市爆撃、広島長崎への原爆投下、それによる非戦闘員の殺戮。
これを国際法違反だと述べています。
そして
「戦時中、日本の軍隊が悪い事をした事もあった、それは否定しない。私は特に東亜諸民族に対しては平身低頭に謝罪する。しかし、戦場の興奮によって非戦闘員を侵害することは往々にしてあり得ることだ、無論忌むべき行為ではあるが、これら偶発的な大虐殺とは根本的に違う。トルーマンの行為こそ、戦犯第一級中の第一級の行為だ。今日いかに戦勝国がこれを抗弁しようと、公正な第三者と、後世の人類によって歴史的な審判を受けることは免れ得ないだろう。
一国の大統領ともあろう者が、かかる野蛮行為をあえてして、しかも恥ずることもしない。
我々はこの様な者を相手に戦ったことは、なんとも恥ずかしい」
石原莞爾はGHQ相手に臆することなく、思う存分語ってみせました。
しかし、GHQの厳しい検閲によって、この証言は封印されてしまいました。
2へ続く
憲法についての私の考えは、前回示した通りになります。
現憲法では、北朝鮮のミサイルも実は撃ち落せません。
更に現在配備されているSM3やPAC3では、全てを撃ち落せません。
北朝鮮は弾道ミサイルが200発は配備されていると言われています。
ボロもありますが、半分の100発が同時に発射されたなら必ず『撃ち漏らし』があります。
全てを防げるものではありません。
そんな能力は世界中にもありません。
米軍ですら不可能です。
その中で北朝鮮がまさか山の中や、田んぼのど真ん中を狙うはずはありません。
都市や社会インフラを狙います。
その場合、一体どうやって国民の命を守るのか?
それを実現する為に憲法をどうするのか?
法律をどうするのか?
その一つの考えとしての意見が前回の記事となります。
例えば、弾道ミサイルや核兵器を我が国も持つのか?それも議論しなければなりません。
弾道ミサイルを防ぐ、無効化する兵器を作る方が技術的にも難しく、コストもかかるのです。
実際に我が国にミサイルを使用するかどうかは、その時の状況によります。
しかし、これに対抗するシステムや兵器の方が、はるかにコストがかかるのです。
核兵器にしても、これを無効化する方がはるかにコストがかかる。
相手の狙いは、そこにあるのです。
こちらは、使用された場合を想定して対抗するシステムを開発しなければなりません。
技術やコストを負担しなければならない。
それだけで相手には有利に働きます。
だからこそ『核には核で対抗する』或いは『ミサイルにはミサイルで対抗する』となってしまうのです。
その方が手早く、安く対抗出来るからです。
我が国はどの手段を取るのか?
はっきり言って『何もしない』や『何もしなければ相手も何もしない』は通用しません。
現実に周辺国に『何か』をされているからです。
それから原発に撃ち込まれたらどうするんだ!とかアホの左翼が言ってますが、原発は『核』攻撃でないと原子炉は破壊されません。弾道ミサイルで破壊されないのは実験からもわかっています。
確かに冷却の設備を失えば福島の二の舞です。
「だから原発止めろ!」は論点が間違いです。例え原子炉を止めたとて燃料はそのままです。
止めても安全ではありません。
本来の論点は『撃たせるな』とか『撃ち落せ』という話しで、逆に原発を止めたとあれば我が国は備えも防御も出来ない、或いはしないのだと間違ったメッセージを送ることになります。
断固として対応する!という態度をしなければ相手に付け入る隙を与えてしまいます。
超一級戦犯
またまた前置きが長くなってしまいました。
しかし、この前置きは必要な前置きですのでお許しを。
我が国の憲法や法律、更に現在の我が国を取り巻く状況を考えてみようと思います。
その上で、数ある歴史の事実の中で先の大東亜戦争の中の出来事を中心に考えてみようと思います。
大日本帝国陸軍に戦争の天才と呼ばれ、世界から恐れられた軍人がおりました。
石原莞爾(いしはらかんじ)
昭和6年(1931)の満州事変の首謀者で柳条湖事件を自作自演で起こした人物として知られてもいます。
歴史上の評価は分かれます。
しかし、この男がこと『戦争』に関してずば抜けた才能の持ち主であるのは間違いありません。
石原莞爾が指揮する関東軍はたった一万程度の兵力で、近代装備を有していた張学良軍を、たった3ヶ月で制圧し、日本の3.5倍の広さがある『満州』全土を占領してしまいました。
これには世界中が驚き、恐怖すら覚えた事でしょう。一躍時の人となった石原莞爾を、当時の世界の政治家や軍人で知らぬ者はいませんでした。
近代戦で兵力差3倍以上は、小さい方が勝てるはずはない。
しかし、石原莞爾は20倍以上の差を跳ね除け、立ち回り勝利してしまいました。
しかし、この石原莞爾は昭和12年(1937)に盧溝橋事件が起きると、支那事変の拡大をめぐる状況で東条英機と衝突することになります。
この政争に敗れた石原莞爾は失脚し、軍人を引退する事になります。
その後、再び彼が世界から注目されるのです。
昭和21年(1946)東京裁判です。
当初は戦犯リストに載っていた石原莞爾ですが、後にリストから外れました。
東京裁判では証人として尋問を受ける事になりました。
膀胱癌で入院していた石原莞爾は、入院先の逓信病院で裁判初日の5月3日からアメリカの検事に病室で尋問を受けます。
その2日目の尋問で冒頭に石原はこう述べます。
「もし陛下が自分に参謀総長を命じたならば、日本はアメリカに絶対負けなかった。だからその時は君は敗戦国だから、我々の膝下にも及びつかないよ」
アメリカの検事を唖然とさせました。
参謀総長とは陸軍の作戦を立案する機関の最高責任者です。
内閣総理大臣と同じく、天皇の任命によりその職に就きます。
『戦争の天才』がこう言ったのだから、石原莞爾を知る者ならば「もし石原莞爾が仕切っていたら…」と考えてしまいます。
日米の立場は逆転していたのではないか?
そして検事は石原に問いかけます。
「今度の戦犯の中で、一体誰が一級か?」
石原莞爾の答えは
「それはトルーマンだ」
自信満々に答え、またもや検事を唖然とさせました。
検事が理由を問うと「わからないのかい?」と答えます。
そして一枚のビラを枕元から取り出し、検事に見せます。
「米国大統領就任式に臨んで『日本国民に告ぐ』とある。ルーズベルトが死んだ直後だから5月頃のビラだがね。このビラは米軍が飛行機から落としたものだ。この一帯はB-29で焼け野原になって いた。こう書いてある『もし、日本国民が銃後において軍と共に戦争に協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず全部爆撃する。だから平和を念願して反戦態勢の機運を作れ!』とね。トルーマン大統領名で書いてあるじゃないか」
更に
「国際法では、非戦闘員は爆撃するなと規定があるにもかかわらず、非戦闘員を何十万人も殺したではないか!国際法違反である。このビラが立派な証拠だ!」
すると検事は「あれは脅しだよ」と言うと石原莞爾は間髪入れずに答えました。
「そうじゃない。このビラの通りに実行したじゃないか!東京では家はもちろん、犬コロまでB-29で軍需工場でもないところまで非戦闘員を爆撃したじゃないか!広島と長崎には原爆を落とした。これは一体どういうことだね?世界の道義に訴えて世論を喚起すべき性質のものだろう。トルーマンの行為は第一級の戦犯だ!一国の元首である大統領ともあろうものが、こんなビラを出したのは蛮行である」
石原莞爾の答え
昭和22年(1947)
5月1日から2日にかけて山形県酒田市にて東京裁判酒田特別法廷が開かれました。
東京に出廷させるつもりが、石原莞爾の病状が悪化した為に、法廷が山形県に出張する事になりました。
検事が満州事変について関東軍の装備は劣弱だったと言うが、奉天を衝くだけの武力を備えていたかの問いかけに対し石原は「死中活を求める以外の作戦は不可能でありました」と述べました。
兵力が増強されなかった為に、最善を尽くして努力したと説明しました。
そして次の証言に法廷は凍りつきます。
「もとより戦争の勝敗は予想されませんが、訓練よく団結よく、作戦よろしければ、必ずしも兵数の劣弱をおそれるものではありません。例えば今次太平洋戦争において、日本の戦力はアメリカに対して非常に劣弱でありましたけれども、作戦よろしきを得れば、必ずしも敗北するものではなかったと私は信じております」
各国の記者が詰めかける正式な法廷での発言。
更に、まだ講和條約も締結しておらず、占領下でのこの発言。
この発言が、その後これ以上追及される事はありませんでした。
しかし、記者達の好奇心を煽るには充分です。
その夜、UP通信とAP通信の記者が石原莞爾を訪問し話を聞いています。
「あなたならどんな戦争をしたか?」
その問いに石原莞爾は答えます。
「補給線を確保する為に、ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島は早急に放棄して資源地帯防衛に転じ、西はビルマの国境からシンガポール、スマトラ中心の防衛線を構築、中部のフィリピンの線に後退、他方本土周辺及びサイパン、テニアン、グァムの内南洋諸島を一切難攻不落の要塞化し、何年でも頑張り得る態勢を取る。
外交的には支那事変の解決に努力傾注する。
特にサイパンの防備には万全を期し、この拠点は断じて確保する。日本が真にサイパンの防備に万全を期していたら、米軍の侵入は防ぐことが出来た。米軍はサイパンを奪取出来なければ、日本本土空襲は困難であった。それ故サイパンを守り得たら、ボロボロガタガタ飛行機でも、なんとか利用出来て、レイテを守り当然五分五分の持久戦で、断じて負けない。
蒋介石がその態度を明確にしたのはサイパンが陥落してからである。サイパンさえ守り得たなら、日本は東亜一丸となることが出来たであろう」
この話しに記者達は納得します。
更に痛烈なマッカーサー批判を展開し、大統領を批判。
アメリカによる都市爆撃、広島長崎への原爆投下、それによる非戦闘員の殺戮。
これを国際法違反だと述べています。
そして
「戦時中、日本の軍隊が悪い事をした事もあった、それは否定しない。私は特に東亜諸民族に対しては平身低頭に謝罪する。しかし、戦場の興奮によって非戦闘員を侵害することは往々にしてあり得ることだ、無論忌むべき行為ではあるが、これら偶発的な大虐殺とは根本的に違う。トルーマンの行為こそ、戦犯第一級中の第一級の行為だ。今日いかに戦勝国がこれを抗弁しようと、公正な第三者と、後世の人類によって歴史的な審判を受けることは免れ得ないだろう。
一国の大統領ともあろう者が、かかる野蛮行為をあえてして、しかも恥ずることもしない。
我々はこの様な者を相手に戦ったことは、なんとも恥ずかしい」
石原莞爾はGHQ相手に臆することなく、思う存分語ってみせました。
しかし、GHQの厳しい検閲によって、この証言は封印されてしまいました。
2へ続く