「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

我が家の「子守歌」と「お経」

2024年03月25日 | 音楽談義

「おもしろうて やがて悲しき 鵜船かな」

「俳聖」芭蕉・・、元禄一年(一六八八)45歳のときの作として知られ「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて」との前詞がある。

<句意>

鵜船が目の前で、華やかな篝(かがり)火を焚きつつ活発な鵜飼を繰り広げる時、面白さはその極みに達するが、やがて川下遠く闇の彼方へ消え去るにつれて、なんとも言い知れぬ空虚な物悲しさだけが心に残る。

胸をワクワクさせた「華やかさ」の後にくる一抹の寂しさ・・、「詩情」にあふれていますね。350年ほど前の作品なのに現代人の心情と少しも変わっていないことに気付かされます。

50年以上に亘って「音楽&オーディオ」に熱中した我が人生も、振り返ってみると「おもしろうて やがて悲しき・・」ですかね(笑)。

さて、久しぶりに音楽の話。

音楽にはいろんなジャンルがあって曲目も数限りないが、どんなに好きな曲目でも何回も聴いていると飽きがくるというのは誰しも経験されることではあるまいか。

歌謡曲とかポピュラーなんかは1曲あたりせいぜい4~5分程度なので仕方のない面もあるが、クラシックだって例外ではない。

たとえばシンフォニーの場合、第一楽章から第四楽章まで起承転結にならって、およそ40分ほどにわたって展開されるものが多いが、そういう中身の濃い曲でも何回も聴いているとほとんどの曲が飽いてくる。

他人に自分の考えを押し付ける積もりは毛頭無いが少なくとも自分はそう。

そういう中で、こればかりは”いつ”、”いかなるとき”に聴いてもホッとして心地よい曲というのがある。

そう、まるで「子守唄」のような存在。

人によって様々だろうが我が家の場合は今のところ3つに絞り込んでみよう。

それはベートーヴェンの「田園」、モーツァルトの「ピアノソナタ全集」、そしてエンヤの「アルバム」。

前二者は「長い時間の経過」という天然のフィルターがたしかな役割を果たしてくれている好例である。                         

「自然の美しさ、優しさ、厳しさ、そして感謝」を高らかに賛美した「田園」はずっと昔のブログでいろんな指揮者の聴き比べ特集を投稿したことがある。

因みにそのときの指揮者を挙げてみると次のとおり。

フルトヴェングラー、クレンペラー、ワルター、ブロムシュテット、イッセルシュテット、ハイティンク、マリナー、ケーゲル、ジュリーニ、ジンマンの10名。カラヤン盤がないのはご愛嬌。後にチェリビダッケ盤も追加。

当時はマリナー盤を自分にとってのベストとして挙げておいたのだが、今ではまず聴かない。自然とワルター盤に還ってしまった。

演奏の良し悪しは別として、もうアタマの中に刷り込み現象のようになっていて、これはもうワルターでないとダメ~(笑)。

次に、モーツァルトのピアノ・ソナタ。これもいろんな奏者がいる。

手元にあるだけでも、アラウ、ピリス、内田光子、ギーゼキング、シフ、グールドといったところだが時によってアラウが良かったり、ピリスだったりするがいつも自然とグールド盤に還っていく。

これはモーツァルトのソナタというよりもグールドのソナタと言ったほうがいいくらいで独自の解釈で自由奔放に弾きまくっていて、一風変わった奇妙な魅力が心を捉えて離さない。

コンコンとまるで汲めども尽きせぬ泉が湧き出てくるような演奏だが、自分にとってはこれはもう「子守唄」を通り越して「お経」みたいな存在といっていい。縁起でもないが通夜のときには魔笛と並んでこれをしめやかに流してもらおうと思っている。

ただしグールド自身の書簡集などを見ると、決してモーツァルトという作曲家を評価しておらず、シェーンベルクやバッハなどに思いを馳せていて、この「ピアノ・ソナタ集」録音への言及は一切ない。

しかし、CD盤の帯封に「世界中のグールド・ファンの愛聴盤」とあるように作品自体が一人歩きしている感がある。

これは演奏家の思惑と人気が必ずしも一致しない実例の一つだろう。

そして最後に「エンヤ」(アイルランド)・・。



前から好きなアーチストだったが、「You Tube」でリモコンのスイッチ一つで簡単に聴けるようになってからは、まず聴かない日はないほど・・。

とにかくあらゆる曲目が豊かなサウンドとともに自然と心に沁み込んでくるし、ついなにがしかの郷愁を覚えさせてくれます。

以上の三つが我が家では「子守歌」と「お経」になっています。

あなたのお宅ではいかがですか・・、よろしかったらご教示ください(笑)。

最後に、久しぶりに「チャットGPT」の登場です。「子守歌」と「お経」の違いを訊いてみました。

子守歌(こもりうた)とお経の違いは、それぞれの目的や内容にあります。

1 子守歌(こもりうた):

子守歌は、子供を寝かしつけるために歌われる歌のことです。通常は、穏やかなメロディと簡単な歌詞で構成されています。親や介護者が子供を寝かしつける際に歌うことが一般的で、子供に安らぎや眠りをもたらす役割を果たします。子守歌は、地域や文化によって異なる歌詞やメロディが存在しますが、その共通点は子供の安らぎを与えることにあります。

2 お経(おきょう):

お経は、仏教の経典や教えを述べた文や歌のことを指します。お経は、仏教の修行や宗教的な儀式で使用されることが一般的です。仏教におけるお経には、般若心経や観音経などさまざまな種類があります。お経は、信仰心を深め、悟りを開くための教えを伝えることを目的としています。そのため、お経は宗教的な文書であり、特定の信仰や宗派に属する人々によって読誦されます。

要するに、子守歌は子供の眠りを助けるための歌であり、お経は仏教の経典や教えを述べた文や歌です。それぞれが異なる目的と文脈で使用されます。

もうどちらでもよろし、精神安定剤の役割さえ果たしてくれれば~(笑)。



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クラシック名曲 全史

2024年03月21日 | 音楽談義

「クラシック名曲全史」に目を通していたら、興味深いことが書かれてあったので後日のために箇条書きしておこう。



「1783年のモーツァルトの音楽会のプログラム」

いわば240年ほど前の「音楽会」の演目なので極めて珍しい。

モーツァルトは1789年に35歳で亡くなったので、換算すると29歳のときの演奏会になる。

ウィーンで開かれた演奏会のプログラムの内容はこうだ。

 序曲「ハフナー」交響曲

 オペラ「イドメネオ」よりアリア(ソプラノ)

 ピアノ協奏曲K415(モーツァルト演奏)

 オペラのシェーナK369(テノール独唱)

 「ポストホルン」セレナードの協奏曲楽章

 ピアノ協奏曲K175(モーツァルト演奏)

 

 オペラ「ルーチォ・シッラ」よりアリア(ソプラノ)

 モーツァルトのピアノ独奏

 オペラのシェーナK416(ソプラノ独唱)

10 終曲(序曲の終楽章)

解説によると、当時の音楽会の目玉演目はいつも声楽であり、注目されるのも声楽家たちだった。

1番と10番はオーケストラだけの演奏で、まだ電気も発明されておらず普及していない時代なので1曲目の序曲は開幕のベル代わりであり、最後の10曲目にあたる終曲は終了の合図だった。

つまり交響曲はベル代わりで「前座」のようなものでありコンサートの華は歌曲だった。

以上のとおりだが、おそらく当時の楽器の性能がイマイチだったので歌曲が隆盛を極めた可能性があると勝手に睨んでいる。

ところで、この「音楽会」がはたして宮廷の「王侯貴族向け」なのか、それとも「一般市民向け」なのか、定かではないが、29歳といえば、あれほどもてはやされていた時期とは様変わりしてきて大衆から「彼の音楽は難しくなってきた」と敬遠されだしたころにあたる。

網羅されている曲目も親しみやすさという点では一筋縄ではいかないものばかり~。


ちなみに、ピアノの名手とされていたモーツァルトの演奏ばかりはとうてい適わぬ夢だがぜひ聴いてみたかったなあ(笑)。

 世界でよく演奏される作曲家ランキング

2018年 1位「ベートーヴェン」、2位「モーツァルト」、3位「バッハ」

2017年 「モーツァルト」、「べートーヴェン」、「バッハ」

2016年 「ベートーヴェン」、「モーツァルト」、「バッハ」

結局、これまで言い尽くされているようにクラシックはとどのつまり「ベートーヴェン」「モーツァルト」「バッハ」に尽きるようですね。

✰ 節度があるモーツァルトの音楽

モーツァルトは父親宛ての手紙にこう書いている。

「情緒というものはそれが烈しかろうとそうでなかろうと、けっして嫌悪を催させるほどまで表現すべきではないし、それに音楽はどんなに恐ろしい有様を描くにしても耳を損なうようであってはならず、そうじゃなくて満足を与え、したがっていつも音楽にとどまっていなければなりません。」

著者曰く、「モーツァルトの音楽の本質がここにある気がしてなりません。モーツァルトの音楽には節度があるのです。

モーツァルトは時代ごとに変わった見方をされてきていますが、それはつまりいずれの時代も自分たちが求めるものをモーツァルトの中に発見しているということです。彼の音楽は相手がどんな角度から求めてきたとしても相手を満足させることができるのです。」

200年以上もの歳月をかけて沢山の人々から厳しい 篩(ふるい) を掛けられながら生き残る音楽とはそういうものなんでしょうね~。



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「名曲斬り込み隊」を読んで

2024年03月16日 | 音楽談義

週一度の図書館通いでたまたま目に触れて借りてきたのが「宮本文昭の名曲斬り込み隊」。

                           

「宮本文昭」さんといえば著名なオーボエ奏者だが、世に名曲の解説本は多いものの、実際に演奏する立場からの視点による解説本は意外と少ないのが実状。

また、オーボエという楽器は管楽器全体を引っ張っていく存在だから、そういう視点からのアプローチも面白そうなので読み始めたところ、つい引き込まれて一気読みしてしまった。


本書で取り上げてある名曲は以下の8曲。

 モーツァルト「ディヴェルティメントK.136」  「協奏交響曲K.364」、  
チャイコフスキー「交響曲第5番」、  ベートーヴェン「交響曲第3番英雄」、 5 ブラームス「交響曲第1番」、  リムスキー・コルサコフ「シェラザード」、  マーラー「交響曲第9番」、  ブルックナー「交響曲第8番」

いずれも比較的ポピュラーな曲ばかりだがいくつかピックアップしてみた。

のK・136はオペラなどの大曲を除くとモーツァルトの中で一番好きだと言ってもいいくらいの曲。トン・コープマン指揮の演奏がダントツにいいが、本書でもコープマンのCDが紹介してあった。

                    

この曲では特に第二楽章が好みだが「悲しいというのではないんだけど晴れやかでもない、そこはかとない哀しみが漂う、これまた名曲です。」(本書35頁)と、あるがたしかにそう思う。

「モーツァルトの哀しみとは何ですか?」と問われて、それを言葉で表現しようなんてとても無理な相談だが「それはK・136の第二楽章を聴けば分かりますよ」というのが、まっとうな解答というものだろう。

言い換えると、この曲を聴いてもし感銘を受けなかったら、その人はモーツァルトと縁がないとあきらめてもらうしかない(笑)。

ケッヘル番号が136と非常に若いが、わずか16歳のときの作品だというからやはりミューズの神が与えた天賦の才には、ただひたすら頭(こうべ)を垂れるほかない。


は正式には「ヴァイオリン、ヴィオラと管弦楽のための協奏交響曲」(K・364)というが、これまた大好きな曲で、宮本さんとはとても波長が合う。いろんな演奏者を聴いてみたが、最後は五嶋みどり(ヴィオリン)さんと今井信子(ヴィオラ)さんのコンビに落ち着く。
                      
                 

取り分け第二楽章については「深い憂愁につつまれた楽章だ。23歳のアマデウス先生が希望に胸を膨らませて向かったパリで失意を味わい、”もののあわれ”を知ってしまったのだろうか。モーツァルトが全作品の中でもめったに見せたことのない、ほとんどロマン派と見まごうばかりの彼のプライベートでセンチメンタルな一面が垣間見れる。」(本書210頁)

ヴァイオリンとヴィオラの優雅な絡み合いの何とも言えない美しさに不覚にも目頭が熱くなってしまう。この辺の微妙な表現力となると「AXIOM80」の独壇場で魅力全開である。

五嶋さんも今井さんも楽器は「グァルネリ」だというが、日頃よく耳にするストラディヴァリよりも美しく聴こえるので、(AXIOM80とは)相性がいいのかな~。


次に3、4、5、6、7は割愛して最後ののブルックナー「交響曲8番」についてだが、これは周知のとおり1時間半にも及ぶ長大な曲で、著者(宮本氏)が高校時代に毎日繰り返し聴いて感銘を受けた曲とのこと。

プロの演奏家になった現在では分析的な聴き方になってしまい、高校時代のように「あ~、いい曲だなぁ」と音楽に心を委ねきることが出来ないと嘆いておられる。


これはほんの一例に過ぎないが、総じてこれまで自分が見聞したところによると純粋に音楽を心から楽しもうと思ったら「音楽を商売」にしないのがいちばんのような気がしてならない(笑)。

ブルックナーについては、天下の「五味康祐」さんが次のように述べている。

「ブルックナーの交響曲はたしかにいい音楽である。しかし、どうにも長すぎる。酒でいえば、まことに芳醇(ほうじゅん)であるが、量の多さが水増しされた感じに似ている。これはブルックナーの家系が14世紀まで遡ることのできる農民の出であることに関係がありそうだ。都市の喧騒やいらだちとは無縁な農夫の鈍重さ、ともいうべき気質になじんだためだろう」(「いい音、いい音楽」)

さて、ブルックナーの8番はチェリビダッケの指揮したCDを持っているが、これは超絶的な名演とされる「リスボン・ライブ」盤(2枚組:1994年4月)である。
                      


おいそれとは簡単に手に入らない稀少品だったが、近年「復刻」されて堂々と販売されているので、一気に値打ちが下がってしまったが(笑)、いかにもブルックナーらしい堂々とした重厚感にあふれる曲目である。

本書は演奏家、指揮者の視点からの分析もさることながら、著者の音楽への愛情がひしひしと伝わってくるところが実にいい。クラシックの愛好家でまだ読んでいない方は機会があれば是非ご一読をお薦めしたい。

 


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音楽って何だろう? 音っていったい何だろう?

2024年03月13日 | 音楽談義

音楽ってなんだろう? 音っていったいなんだろう?

こういう根源的な問いに対して明確な回答は望めないとしても少なくとも手がかりらしきものを与えてくれるのが「武満徹・音楽創造への旅」である。



とはいえ、内容を一括りにして表現するのはブログ主の手に余るので、(武満氏の)音に対する考え方が一番如実に表れていると思う「海童道祖と“すき焼き”の音」(467頁)の箇所から引用してみよう。

海童道祖(わたづみどうそ:1911~1992)は単なる尺八演奏家に留まらず宗教家にして哲学者だが、武満氏と小さな座敷で同席して名曲「虚空」を聴かせるシーンの叙述である。

「目の前にはスキヤキの鍋があってグツグツ煮えており、外はダンプカーなどがバンバンと走ってうるさいことこの上ない。そういう環境のもとで、尺八の演奏を聴くうちに、僕はいい気持になってきて、音楽を聴いているのか、スキヤキの音を聴いているのかダンプカーの音を聴いているのか分からないような状態になってきた。

それらの雑音が一種の響きとして伝わってくると同時に尺八の音色が前よりもくっきりと自分の耳に入って来る。演奏が終わって海童氏が“武満君、いま君はきっとスキヤキの鍋の音を聴いただろう”と言われたので“たしかにそうでした”と答えると、“君が聴いたそのスキヤキの音がわたしの音楽です”と言われる。

ぼくは仏教とか禅とかは苦手で禅問答的な言い方はあまり好きじゃないのですが、そのときは実感として納得しました。」

つまり、音楽の音の世界と自然音(ノイズ)の音の世界が一体となっている、そこに武満氏は日本の音楽の特質を見出す。

海童同祖は重ねて次のように言う。

「法竹(修行用の尺八)とする竹にどんな節があろうが、なにがあろうがいっこうに差支えない。物干しざおでも構わない。ほんとうの味わいというのは、こういうごく当たり前のものに味があるのです。ちょうど、竹藪があって、そこの竹が腐って孔が開き、風が吹き抜けるというのに相等しい音、それは鳴ろうとも鳴らそうとも思わないで、鳴る音であって、それが自然の音です。」

さらに続く。

「宇宙間には人間の考えた音階だけでなく、けだもの、鳥類、山川草木たちの音階があります。宇宙はありとあらゆるものを包含した一大響音体なのです。どんなノイズも、クルマの音も、私たちが喋っている声も我々には同じ価値を持っている。それぞれに美しさがあります。いわゆる調律された音だけではない音たち、それから音のもっと内部の音、そういうものに関心があります。つまり音楽の最初に帰ろうとしてい」るわけです。

以上のことを念頭におきながら昨日2枚のCDを聴いてみた。
         

いきなりこういう音楽を聴くと、これまでの西洋の音楽、つまり「旋律とリズムとハーモニー」にすっかり麻痺してしまった耳にとって違和感を覚えるのは当たり前だが、これから繰り返し繰り返し聴くことによって、はたして耳にどう馴染んでくるのか楽しみなことではある。

最後に耳よりの話を一つ。

映画音楽についてだが、時代劇の「濡れ場」のシーンによく尺八の音がバックに流れる事があるのにお気づきだろうか。

エロティックな映像が尺八の虚無的な響きと一体となり、やがて哲学的な雰囲気となって、いかにも芸術へと昇華されていくような気にさせるので、まことに日本映画らしい趣だと感じ入っていたところ、こういうシーンでの尺八の起用はどうやら武満氏の発案のようなのである。

時代劇「暗殺」に起用され、武満氏から即興演奏を任された横山勝也氏(尺八)は次のように語る。(468頁)

「体当たりで演奏しましたよ。たとえば丹波哲郎扮する清河八郎が囲っているお蓮という女性がいるんですね。それを岩下志麻さんが演じているんです。清河八郎が初めて人を斬ったときものすごく興奮して、お蓮の家に駆け込んできて、すぐ蒲団を敷かせ、帯をとかせて<オレはいま人を斬ってきた>といって蓮を激しく抱くというシーンがあるんです。

ちょっと長いそのシーンを尺八だけでやるんです。あんな激しい場面に合う既成の曲なんてまったくありません。とにかく音は出しましたが、無我夢中でどんな音を出したかまったく覚えていません。」

~でも武満さんはあのシーンの音楽を凄く気に入っていたようですよ。ああいうのは何度かやってるんですか。

いいえ、ほとんど一発でした。はじめに一回観て、次にもう一回流して、それを見ながらリアルタイムで音を乗せちゃうんです。ほとんどNGなしで一発で決まりました。」

というわけだが、シリアスな時代劇やドラマでも「尺八」の音が聞こえるとつい「濡れ場」を連想するクセがついてしまったようで・・、これはイカン、イカン(笑)。



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「罪深い遊び」とは

2024年03月09日 | 音楽談義

「罪深い遊び」というタイトルに思わずドキッとされた方もいるかもしれないが、残念なことに音楽がらみの話です。もうそんな元気は残っておりません(笑)。

さっそく本論に入りましょう。


音楽にしろオーディオにしろ「聴き比べ」は実に楽しい。

音楽の場合、出所は同じ楽譜なのに演奏によってこんなに印象が変わるのかという驚きは新鮮そのもので、次から次に違う演奏を楽しみたくなる。

オーディオだって使う真空管(初段管、出力管、整流管)によって、音がクルクル変わる「球転がし」ひいては「アンプ転がし」果てには「スピーカー転がし」などの「音遊び」はまさに究極の愉しみとして絶対に欠かせない存在! 少なくとも我が家ではそうです。

ところが、その「聴き比べ」を「罪深い遊び」だと断罪している本を見かけた。興味を引かれたので以下、解説してみよう。

「許 光俊」氏の音楽評論は歯切れがいいのでいつも愛読している。まさに一刀両断、音楽評論家によくありがちな“業界”におもねった雰囲気がみじんも感じられないのでとても清々しい。

初見の方がいるかもしれないので「許 光俊」氏の情報についてざっとお知らせしておくとしよう(ネット)。

「許 光俊(きょ みつとし:1965~ )は、東京都生まれのクラシック音楽評論家、文芸評論家。ドイツ文学、音楽史専攻。近代の文芸を含む諸芸術と芸術批評を専門としている。慶応義塾大学法学部教授。」

氏の著書「クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学」がその本。

              

本書の冒頭(プロローグ)にこうある。

「聴き比べは、罪深い遊びである。さまざまな演奏家が研鑽と努力の末に成し遂げた仕事(そうであることを祈りたいが)を、これは駄目、あれは良いと断罪する。

それはクラシックの愛好家に可能なもっとも意地悪で、もっとも贅沢な遊びである。どうして多くの人々は知らない曲を知る代わりに同じ曲を何度となく聴き直して喜ぶのか。


ベートーヴェンの“第九”を100回聴く代わりに、せめて未知の作品を20曲聴いたら、新たなお気に入りが見つかるかもしれないのに。~中略~。

聴き比べは、陶酔ではなく覚醒へ向かおうとする。信じることではなく、疑うことを本分とする。満足を得ようとして不満を得る。」

さらに「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である。」とあり、そういう醒めた視点から4つの曲目について延々と「聴き比べ」が展開される。

自分は非常に
信じ込みやすいタチなので(笑)「成る程、成る程・・」と素直に頷きながら、つい“お終い”まで読み耽ってしまった。

とにかく、その「聴き比べ」というのが中途半端ではないのである。

1 ヴィヴァルディ「四季」(春)~演奏家のエゴの痕跡~

「精神が欠落した音楽の空白を埋めるかのように、様々な演奏者の録音が山積し(演奏の)実験場と化している。」と、著者は相変わらず手厳しい。

「虎の威を借りる狐」ではないが(笑)、自分もヴィヴァルディの印象として「聴き流しが適当な音楽」のような気がしてならない。もちろん、いいとか悪いとかの話ではなく、こういう音楽が好きな人がいても少しも構わないので念のため。

「イ・ムジチ合奏団+フェリックス・アーヨ」を皮切りに、何と24もの演奏の「聴き比べ」が紹介される。とても半端な数字ではない。それぞれの演奏に対して的確なポイントをついた辛口の指摘がなされていて、著者の音楽への造詣の深さと分析力には脱帽する。

こういった調子で、2 スメタナ「わが祖国」(モルダウ)~内容を再現したがらない指揮者たちの反抗~については、極めて民族的な(チェコ)音楽にもかかわらず、「アメリカのオーケストラ」の心なき演奏への嘆きなどを交えながら、23もの演奏の聴き比べ。

圧巻の3 ベルリオーズ「幻想交響曲」~自我の中で展開する私小説~に至っては、37もの演奏の「聴き比べ」。

作曲家自身のベルリオーズが残した楽章(5楽章)ごとの解説があまりにも“微に入り細にわたっている”ため、演奏家にとってはそれが“がんじがらめ”となっていっさいの想像力が許されず、両者の間に創造的な緊張関係が起きることはないとあり、「今さらながら、かくも多くの下らない演奏が氾濫している事実に呆れるしかない。」(216頁)。

というわけで、「言葉では表現できないことを生々しく伝えることが出来る芸術=音楽」の役割について改めて一考させられた。

本書の読後感だが、「聴き比べ」とはたとえばA、B、Cと違う演奏がある場合にA、B、Cの差異を問題にするのではなく、「Aと作品」、「Bと作品」といった具合に常に演奏と作品の関係を追及しながら、基準となるものをしっかり据えて対比しつつ、あえて演奏同士の間には上下関係をつけようとしていない。」
ことに感心した。

本来、「聴き比べ」とはそうあるべきものなのかもしれない。

翻ってこれをオーディオに当てはめてみるとどうだろう。

いろんな真空管を差し換えて音質テストをするにしても、音楽における作品のような確たる羅針盤があるわけでもないのでハタと困ってしまう。

強いて言えば「原音に対してどれだけ忠実に再生しているか」ということになるのだろうが、この「原音」だって所詮は主観の産物だから始末に負えない。

もしかすると、このことがオーディオ界において「主観に基づいた意見」が「評判」となり、大手をふるって独り歩きする所以なのかもしれない。


音質を左右する要因はいろいろあって、「サウンドが漂うために必要な音響空間の広さ」、「音源」、「アンプ」、「スピーカー」などの組み合わせ次第で真空管だって生き返ったり死んだりするから、「これはイイ」とか「あれはダメ」とか、早計な判断はムチャということが自ずと分かる。

これからは「聴き比べ」を「罪深い遊び」にしないように心がけなければいけないなあ(笑)。

 

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音楽が脳にもたらす効果

2024年03月04日 | 音楽談義

人間はどうやら己(おのれ)にとって都合の良い情報だけ切り取る傾向にあるらしい。もちろん自分もその例に漏れない(笑)。その格好の一例を挙げてみよう。

            


東北大学の教授が書いた「生涯健康脳」は、「生涯にわたって脳を健康に保つ」ためのノウハウを分かりやすく説いた本だった。

この種の書籍は巷に氾濫しているので、ワン オブ ゼムのつもりで読んでみたが、さして目新しいことはなかったものの、それでも気になる事柄があったので列挙しておこう。

もちろん、自分にとって都合のいい情報ですぞ(笑)。

☆ 脳の最高の栄養素は知的好奇心


脳の健康維持のために欠かせないのが毎日の30分以上の有酸素運動とともに、知的好奇心が挙げられている。

たとえば探究心、冒険心、追求心などワクワク、ドキドキが脳の中の神経伝達物質であるドーパミンを活性化させて脳全体をとても元気にする。

したがって知的好奇心を大いに刺激する趣味を持つことは脳にとって素晴らしい効果をもたらす。


☆ 音楽は脳の報酬系を刺激する


「音楽を聴くととても良い気持ちになります。ここでもまた脳の中では凄いことが起きているのです。脳はご褒美をもらったような状態になっているのです。音楽を聴くと脳の<報酬系>と呼ばれる領域が活発になることがカナダの大学の研究で分かっています。


報酬系というのは詳しくお話しすると、欲求が満たされたときに心地よいという感覚を与える神経伝達物質を放出する神経系のことです。

会社で給料が上がるなどの良いニュースを聞くととても良い気持ちになってヤル気が出たりしますが、欲求が満たされると予測することでも脳は活性化するのです。


報酬系の領域が活性化されると、灰白質の体積が増えるという報告もあります。よく褒めて伸ばすという事例がありますが、まさにそれに当たります。

つまり、音楽を聴くと欲求が満たされたり、褒められたりしたときと同じような心地よい気持ちに自然となるのです。

また音楽を聴くと一部の領域だけでなく多くの領域の働きが活発になることが分かっています。音楽を聴くだけでも脳にとっても良いのです。

したがって、脳にとって音楽は<百利あって一害なし>なのです。」


とまあ、そういうわけで日頃から音楽を聴くこと、そして、しょっちゅうオーディオ機器を弄ってハラハラドキドキすることは、(現在)いちばん恐怖の対象となっている「認知症」予防のためにとってもいいことが分かった。

したがって、息の続く限り「音楽&オーディオ」を熱心に続けていこうと固く心に誓った次第(笑)。

折りしも先日の「サイエンスZERO」(NHK Eテレ23:30~)では「音楽が脳にもたらすうれしい効果」を放映していた。

アメリカの上院議員(女性)が演説中に拳銃で脳を狙撃され幸い命はとりとめたものの失語症になってしまったが、音楽療法で発声方法を試みたところ劇的に回復した実例が紹介されていた。

「音楽式の発声療法」によって「右脳」(音楽などを司る脳)と「左脳」(論理的な脳)との連携がうまくいったからだそうだ。

またハードロック好き、クラシック好き、ジャズ好きの3人の治験者を例に5曲を聴かせてそのうち部分的に脳が好反応を示した小節をもとに「AI」で好きな音楽を創造して聴かせたところ「好きな音楽」が必ずしも「脳が心地よいと感じる音楽」と一致しないことが判明した。

この興味深い事実から音楽愛好家は「好きな音楽」に限らずあらゆるジャンルに亘って幅広く聴くことが脳のためにいいことが導き出される。

自分はいつもクラシックを中心にジャズ、ポピュラー、演歌、唱歌などジャンルを問わない聴き方をしているが非常に理に適っていたことになる。

つい先日(2月29日)の試聴会ではオペラ「魔笛」というやや高尚な(?)音楽に交じって「美空ひばり」が登場していたことに違和感を抱かれた方がいるかもしれないが、ジャンルを問わない聴き方の好例として受け止めていただけると幸いです・・。


とまあ、縷々(るる)自分の都合のいい情報だけを切り取って投稿したことは争えないので、あまり信用していただけないかもしれませんけどねえ(笑)。



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音楽愛好家のご来訪(2024・2・29)

2024年03月02日 | 音楽談義

前回からの続きです。

オーディオ愛好家にとって「音楽&オーディオ」はクルマの両輪みたいなものだと思っている。

で、どちらに比重をかけているか、つまり「音楽の方」か「オーディオの方」かとなると・・、まあ、趣味の世界なので肝心のご本人が満足さえしていればそれでいいわけだが、なかなか興味深いものがある。

で、今回のお客様たち3名の方々は明らかに「音楽=クラシック」に重きを置いている方々だったので、音質について殊のほかウルサイ方々でなかった・・、我が家にとってせめてもの「救い」だったかな(笑)。

3系統のスピーカーの順番となると、

「ウェストミンスターを交えた3ウェイ」 → 「AXIOM80」 → 「口径20cmのユニット+JBL175ドライバー」となった。

当然、主賓たるお客様たちの雰囲気をそれとなく打診しながらスピーカーを切り替えていったが、いちばん人気があったのは「AXIOM80」で、これがいちばん長時間の試聴となった、やっぱり・・(笑)。



必然的に弦楽器とボーカルが主体の音楽ソースとなった。

モーツァルトでは「ディヴェルトメント K136」(コープマン指揮)、「ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲 K364」(五島みどり&今井信子)

皆さま音楽好きなので「さわりの部分」だけとはいかず、全曲を通してじっくりと耳を傾けられるので「持ち時間」が音を立てて目減りしていく感じ・・(笑)。

そして、旧知のNさんから「オペラ魔笛の夜の女王のアリアをぜひ聴かせてください」「ハイ・・、分かりました」

本日のハイライトとなりました!

          

たまたま手元にあったのがクリスティ指揮の「魔笛」だった。これも名盤として知られている逸品。肝心の夜の女王は美形と美声で有名な「ナタリー・デセイ」で、デセイの夜の女王はこの一枚限りだ。

魔笛には5名の主役が配置されている。

「王子役」「王女役」「高僧役」「夜の女王」そして「道化役」

これら5名の主役に一流の顔ぶれをそろえることはスケジュール的にまず無理・・、どれかの配役に憾みを残すので巷間「魔笛に決定盤無し」と称される所以である。

で、この中でいちばん歌唱の難度が高いとされているのが「夜の女王」・・、ソプラノの中でいちばん音域の高い「コロラトゥーラ」の出番となる。最高音域の「ハイF」が出せるかどうか・・。

夜の女王の出番は「第一幕」と「第二幕」でそれぞれ一回、5分ほどの出番だが、この出来次第で魔笛全体のスケール感が決まるので極めて重要な役どころ・・。

2時間半のオペラなので2枚のCD に収められているが、「夜の女王」の出番はそれぞれ「第6トラック」だと憶えていたので頭出しが早かった・・、な~に自慢するわけじゃないけどね~(笑)。

全員で「デセイ」のコロラトゥーラを楽しみました。あの「グルヴェローバ」(ハイティンク盤)よりは少し落ちるが、まあトップクラスでしょうよ。

それからは「魔笛談義」に移って、「よくもまあ、モーツァルトはあんなひどい台本にこんなに美しい音楽を作曲したもんですねえ」、「モーツァルトは(オペラでは)台本よりも音楽が主体性を持つべきだと主張していましたからねえ」、などと百家争鳴~。

ほかにも「美空ひばり」の「昭和の名曲を唄う」から「夫婦春秋」「舟歌」「釜山港へ帰れ」などで大盛り上がり~。



あっという間に3時間が経過して4時半ごろに帰路につかれた。

帰り際に大先輩のNさんから「スピーカーはすべて上手く鳴ってましたよ、あとは好みの差ぐらいです」と、耳元で囁いていただいた。

「ハイ、どうもありがとうございます」

あっ、そうそう、お一人の方から「いつもこんな音量で聴かれるんですか?」「ちょっと大きすぎましたかね・・」

つい「いいとこを見せよう」とボリュームを上げ過ぎていたようだ、まだ俗気が抜けないようで、やっぱり未熟な人間のままですねえ・・(笑)。



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「ワーグナー」が聴けないシステムなんて

2024年03月01日 | 音楽談義

かねての予定通り、昨日(29日)の午後、小雨の中をついて福岡からお客様が3名お見えになりました・・、雪にならなくてよかった!

13時着の予定が30分ほど遅れたので、道に迷われたのかなと心配になり玄関の前に出ていたところ、30mほど先の曲がり角からひときわ明るい「デイライト・ランプ」が点いた福岡ナンバーの「3ポイントマーク」が悠然と姿を現したときはホット一息~。

やあやあ~、初めまして・・。

お一人は旧知の「N」さんでほかの2名の方々は初対面だったが、すぐに打ち解けさせていただきました。

というのも、3名の方々ともにオペラ「魔笛」ファンだったんですよねえ~、強力な共通基盤があると話が早いですね(笑)。

中にはこのブログを読んで魔笛に親しみましたという方もいて、ほんとうに(ブログの)作者冥利に尽きます!

そもそもこのブログを始めた動機は「魔笛」の素晴らしさを世の中に広く喧伝するためですからね~。そのうちいつの間にか横道に逸れてしまい、「オーディオ」記事があふれるようになった・・、まさに痛恨の極みですぞ(笑)。

というわけで、昨日は我が「音楽&オーディオ史」の貴重な一頁として、実に楽しい一日となりました。

それはさておき、具体的な試聴内容に入る前に受け入れ準備の状況をメモっておこう。

前日の28日(水)からオーディオルームの整理整頓におおわらわだった。少しでも部屋の空間を稼ぐために試聴の出番がないスピーカーを隣の部屋に移そうというわけ。

「もう要らないスピーカーは処分したらどう」・・、家人のご機嫌斜めの声を背に受けながら、「お客さんがお帰りになったらすぐに戻すからな」・・(笑)。

移したスピーカーは「TRIAXIOM」(グッドマン)、「PL100」(モニターオーディオ)、口径25cmのユニットが入ったSPボックスの3系統。まだ努力次第で大化けする可能性を秘めているので、処分なんてとんでもない・・(笑)。


ほかにも図書館から借りてきた本などをすべて移動させて、これで、随分部屋がスッキリした。

その後はいちばん気になるスピーカーの予備テストを行った。何しろ3ウェイなので弄るところが多い・・。



このところ「You Tube」の出番が多かったので、CDトラポで本格的に鳴らすのは久しぶり~。

で、手始めにワーグナーの「ワルキューレ」(ショルティ指揮)を聴いたところ、これは アカン !



低音域のあまりのプアーさに愕然とした。まったく中高音域が美しいだけの「きれいごとの世界」になっている!

この世の果てまで沈み込んでいくような深~い弦楽器のファンダメンタルな響きが出てこないとワーグナーの音楽は聴けない。

いちばんの原因は低音域用アンプのパワー不足だね・・、すぐに「2A3」シングルアンプと交換したが、これも少し良くなった程度で代わり映えせずにアウト・・。

結局、このところ待機中だった「EL34プッシュプル」アンプの出番となった。



さすがに出力30ワット前後のパワーは伊達じゃないですね! ついでに、ウェストミンスターのローカットを100ヘルツから200ヘルツに上げて、量感を増やすようにした。

これでどうにか「ワーグナー」が少しは聴けるようになったかなあ・・。

次が、スコーカー用のワーフェデール「スーパー10」(10インチ=口径25cm)を駆動するアンプの選定だ。



左が「LS7シングル」アンプ、右が「6A3シングル」アンプで、ジャズなら「前者」、クラシックなら柔らかい響きを買って「後者」だね。

結局「6A3」シングルで行くことにした。

で、当日もそのままこの3ウェイシステムがトップバッタ―として聴いていただくことになった、予定外の順番だったけどね~。

以下、続く・・。



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スピーカーと相性のいい曲目の選択

2024年02月28日 | 音楽談義

つい先日のブログ「聴かぬが花・・」で述べたように、ぼちぼち県外からのお客様がお見えになる日が迫ってきた。

長年に亘って培ってきたお互いの「オーディオ文化=音楽的センス+音響的センス」が衝突して火花を散らすわけだから、面白くないはずがない・・(笑)。

後者の「音響的センス」についてはどういうスピーカーを聴いていただくか、概ね3つに絞ったところだが、問題は前者の「音楽的センス」である。

さて、どういう曲目を聴いていただこうか・・、はたと迷ってしまう。

もちろん3名の方々の好み優先だし、持参されたCDがあればそれが最優先だが、まあクラシック、ジャズ、そしてポピュラー、歌謡曲、唱歌などを網羅しておけば大丈夫かなあ・・。

おっと、そういえばスピーカーによって得手不得手の曲目があるので前もって選択しておく必要があるぞ~と、これを書きながら今思いついたところ(笑)。

たとえば・・、

1 AXIOM80+サブウーファー



このユニットの能力を引き出すためにはヴァイオリン演奏が必須だが、どのCD盤が最適かな・・。

優秀録音・優秀演奏で思いつくのは「プレイズ バッハ」(ヒラリー・ハーン)、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲1番」(オイストラフ)、「ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲」(五島みどり&今井信子のコンビ)、シベリウスのヴァイオリン協奏曲(アッカルド)あたりかなあ。

あっ、そういえば「今井信子」さん(80歳)は、この度「日本学士院会員」に推薦されてましたね。新聞で拝見しました。日本が生んだ世界に誇れる数少ない演奏家の一人なので大いに納得です。

とはいえ「学士院会員」ってどういう役割を果たしているの?(笑)

次に、

2 「ウェストミンスター+スーパー10+075ツィーター」の3ウェイ



当然のことながらスケールの大きい重量級のシンフォニーの出番となる。「新世界」(ケルテス指揮)、「大地の歌」(クレンペラー指揮)、「ワルキューレ」(ショルティ指揮)あたりかな~。


3 「口径20cmのユニット+175ドライバー(JBL)+サブウーファー(100ヘルツ以下)」



このSPならどんな曲目でも「90点以上」で対応できそうなので選ぶ必要はあるまい・・、ただし駄耳による自己採点なので少々危なかしいけどね~(笑)。

ボーカルの分野では「スパニッシュ・ハーレム」、島田祐子さんの「芭蕉布」「花の街」、加藤登紀子さんのアルバム「知床旅情」あたりかな~。

おっと、ピアノ曲が無いなあ・・、グールドのソナタは録音がイマイチなので、ピリスといこうか~。カサドシュの「ピアノ協奏曲22番」も外せないし・・。

そして忘れちゃいけないのが「You Tube」だっ!

パナソニックのブルーレイ「DPーUB9000」(再生専用)を使い、DAC「D2R」(SMSL)とのコンビで「192Hz」のハイレゾ再生はかなり「いい線」を行っている。

もし、お客様に気に入っていただけると次から次に選曲できるので「CDトラポ」の出番が無くなる・・、実を言うとこれが我が家の実情だけどねえ(笑)。

というわけで、これから押し入れに直し込んだCD盤を探すとしよう~。

おっと、その前に部屋の整理整頓が先だね~(笑)。

最後に、現時点での我が愛する「クラシック音楽ベスト10」を掲げて終わりとしよう。

1位 「魔笛」(ハイティンク指揮) 2位 「ピアノ協奏曲22番」(セル指揮 カサドシュ演奏) 3位「ピアノソナタ32番」(バックハウス) 4位 「ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲K364」(五島みどり・今井信子)

5位 「ドビュッシーのピアノ曲集」(ベロフ) 6位 「シベリウスのヴァイオリン協奏曲」(アッカルド) 7位 「交響曲第6番 田園」(ワルター指揮) 8位 「大地の歌」(クレンペラー指揮) 9位 「オペラ ドン・ジョバンニ」(フルトヴェングラー指揮) 10位 「ディヴェルティメントK136」(コープマン指揮)

もし読者の皆様と一致する曲目があれば、こよなくうれしいのですが・・(笑)。



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巧言令色、仁あること少なし

2024年02月26日 | 音楽談義

世界の趨勢を決めると言っていいほどの大事なアメリカ大統領選挙が今年(2024)の11月に行われる。

そして、あのトランプさんが予備選5連勝(2月26日現在)のもとで共和党の代表指名が確実視されている。おそらく再びバイデン現大統領との一騎打ちが予想されており、勝利の可能性が高いとされている。(裁判の結果次第だが・・)

あの「品のかけら」もない人物が再び大統領になるというのが信じられないが、「パワー、威勢、ハッタリ」を重視するというのか、それがアメリカという国のダイナミックさなんだろう。良きにつけ悪しきにつけウクライナをはじめとしたいろんな紛争がリセットされる可能性が高い。

もしトランプ大統領が実現したら・・、(最近「もしトラ」という言葉を紙面でよく見かける~笑~)、日本としてもお付き合いが大変だろう。

今は亡き安倍さんは上手く調教してましたね・・、そのときの相互理解のための道具が「ゴルフ」だったのは周知のとおり~。

政界、実業界、芸能界など、ゴルフは付き合う時間の長さからも社交道具として大いに重用されているようだ。

それにひきかえ、クラシック音楽やオーディオとなると多勢に無勢・・(笑)。

何代か前の総理だった小泉さんはオペラ・ファンで有名だったし、福田康夫さんはいわゆる通好みのバルトークを愛好されていた

トランプは例外としても、国際人として活躍する前提として専門的な仕事の知識以外にも基礎的な教養として文学、絵画、音楽など幅広く芸術の分野にも通暁しておく必要があるとはよく聞く話。


たとえば、「芸術に親しむ」に関連してガッカリした思いをしたのが、「文藝春秋」における
、立花隆(故人)さんと佐藤優さんという現代を代表するような知性の持ち主の対談だった。

是非読んでおきたい本としてそれぞれ100冊の本を紹介し推薦されていたが、いずれもが知識というか知性を優先した難しそうな本ばかりで、芸術関係の本が皆無か、あるいは極端に少なかったのが妙に印象に残ってしまい非常に「潤い」が欠けている感じを抱いた。


人間にとって「知性と感性」はクルマの両輪みたいなもので、人生に幅と”ゆとり”のない「頭でっかちの知的バカ」をこれ以上量産していったいどうしようというんだろう・・、とまあ、偉そうに~(笑)。

で、話はもどって相互理解のための道具しての音楽の話。

もちろん人間同士のコミュニケーションに言語は欠かせないが国ごとに使っている言葉が違うのが大きな難点。

戦後すぐとは違って近年では日本人でも英語がペラペラの堪能な人はいくらでもいるが、フランス語、ドイツ語、イタリア語、中国語なんてことになるとおそらく全部操れる人はそうはおるまい。通訳や便利な翻訳変換機を介してみてもお互いの”人情の機微”にまで触れるとなると ”イマイチ” だとは容易に想像できるところ。


その点、音符で成り立つ音楽は世界の共通言語みたいなもので実に相互理解に手っ取り早い。

たとえば、あの「テイラー・スフィト」(アメリカ)が世界中を席巻しているように~。

で、自分の場合ともなるとモーツァルトのオペラ「魔笛」とかグールドが弾くピアノ・ソナタが好きと分かっただけで、瞬間的に百年も前からの知己のようなうれしい気持ちになる。


同じ感性を共有する喜び、親しみは言語を通じて分かり合えるよりもずっと心の奥深くまでつながるような気がするのが不思議だが、これは人によって様々で自分はどちらかというと感性的人間かもしれないと思うことがある。

場面、場面で適切な言葉を操るのが苦手なタイプで文章を作成する方が時間の余裕があるだけまだマシ~。おそらく頭の回転が ”イマイチ” なんだろう(笑)。


しかし、弁解するわけではないがあの「論語」(孔子)に「巧言令色、仁あること少なし」という警句があるようにいくら言葉を尽くしてみても限界があるような気がする・・。

で、作曲家や演奏家、曲目などの好みが共有できる人に巡り会うのは本当に難しく、自分の周囲を見回してもオーディオはさておいて作曲家や曲目の好みが”おおかた”でも一致する人はまずいない。改めて人間の気質というか感性の複雑さは筆舌に尽くしがたいほど~。

全国を捜し歩いてようやく巡り会えるようなものだろうが、作家の石田依良(いら)さんの著作「アイ・ラブ・モーツァルト」には魔笛とかグールドが好きとかあるのでホントにうれしくなる。

そういえば
五味康祐氏の「いい音、いい音楽」には代表作品を聴けばその作曲家がどんな音楽家であるかが分かるとあった。(92頁)

偉大な音楽家ほどその代表作に人間性、民族性、芸術観の全てを表出しているという。

たとえば、大バッハであれば「マタイ受難曲」、ヘンデルなら「メサイア」、ショパンでは「24の前奏曲」、ブラームスでは「交響曲第1番」とあったが、モーツァルト、ベートーヴェンについては文中に記載がない。

この二人、クラシック音楽を語るときに絶対外せない存在だがあまりに代表作と目される作品が多すぎて絞り込めなかったのだろうか・・。



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オーディオ機器の製作者は音楽愛好家であって欲しい

2024年02月22日 | 音楽談義

高校時代のオーディオ仲間たち(4名)といまだにメールの交換をしているが、そのうちのU君から次のメールが届いた。

「先日、NHKのBSでストラディヴァリの番組がありました。ご存知かと思いますが、ストラディバリとはイタリア・クレモナで名工ストラディバリが製作したヴァイオリンの名器で、それを扱った番組でした。ご覧になりましたか?」


                 


しまった!どうやら貴重な番組をウッカリ見逃してしまったようで、「残念です。観ていません」と返信したところ、さっそく次のメールが届いた


「面白く興味深い内容でしたよ。色々な角度から検証していましたねぇ~。それでも、人間の歴史の中で科学万能の現世においてさえも再現は出来ない様ですね。職人魂(霊)の為せる 技(術)でしょうか?」

関連して、桐朋学園大学を卒業して指揮者として武者修行のため渡欧したO君(現在は福岡で音楽アカデミー開設)からもメールが届いた。

「私の留学はザルツブルグ・モーツアルテウム音楽院の夏期講習から始まったのですが、ザルツブルグ音楽祭を初めて聴いたのがカラヤン指揮の<アイーダ>でした。(幸いなことに、宿の主人がチケットをゆずってくれたのです)

全ての点で余りにもスゴくて《ブッ飛ばされた》ことを覚えています。この時、舞台上で演奏された(古代の)トランペットがYAMAHA製だと聞きました。ヤマハが管楽器を手がけた最初の事例でしたが、結果は良かったと思います。

この時、ヤマハはヨーロッパの金管楽器の名器を入手して、全ての部分の厚みの変化や、金属の質などをコンピューターで分析しながら開発したと聞きました。この方法で、それ以後のヤマハの金管は優れたものを作っています。

その後、ウィーンのスイートナーのクラスで学んだのですが、あるとき日本から帰国したばかりのスイートナーがヴァイオリンを抱えて教室にやってきました。

“使ってみて欲しいと言われて、ヤマハから預かって来た”と言って楽器を生徒に見せ、ヴァイオリンの生徒が弾いて“うん、いいイイ”と言っていました。

後で聞いた話ですが、ヴァイオリンの銘器をコンピューターで詳しく分析して、そのように作ろうとしたそうです。しかし、どうしても本物に近い楽器にまでは作れなかったようです。金属では成功したのですが、(自然の)木が相手ではコンピューターも分析しきれなかったように思います。


また、ヤマハの工場に行った時、聞いた話ですが、スタインウェイを入手して、全てバラバラに分解してから、組み立て直すと<ヤマハの音>になってしまったそうです・・・やはり職人(名工)の『感性』が重要な鍵を握っているのでしょうか。」

金属ではコンピューターの制御が利いたけど、(自然の)木では無理とは注目すべき事象ですね。

オーディオの究極の課題となる(スピーカーの)箱の材料は木ですからね・・、やっぱり難しいはずです。


そういえば人間の感性が重要なカギを握っている例として往年の名器とされる「マランツ7」にまつわる話を思い出した。

「マランツ7」といえば、1950年代の初めに市販のアンプにどうしても飽き足りなかった大の音楽好きの「ソウル・B・マランツ」氏(アメリカ)がやむなく自作したプリアンプの逸品である。

ある専門家がそっくり同じ回路と同じ定格の部品を使って組み立ててもどうしてもオリジナルの音の再現が出来なかった曰くつきの名器だと、ずっと以前のオーディオ誌で読んだことがある。

おそらく、言うに言われぬ、言葉では表現できない細かいノウハウ(神業)の積み重ねがあるんでしょうねえ・・。


感性が求められるオーディオ機器の典型的な例として挙げてみたわけだが、これを敷衍(ふえん)すると、一つの命題が導き出される。

それは「オーディオ機器(アンプとスピーカー)の製作に携わる方は少なくとも音楽愛好家であって欲しい」

大学の工学関係科を卒業したというだけで音楽に興味を持たない人たちが(メーカーで)機器づくりに携わることは、まるで
「仏(ほとけ)作って魂入れず」で、使用する側にとってはもはや悲劇としか言いようがないと思うんだけどねえ・・(笑)。



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「糟糠(そうこう)の妻は堂より下さず」とは

2024年02月19日 | 音楽談義

先だって指揮者の「小澤征爾」さん(以下、敬称略)が亡くなりましたね・・。好きな指揮者ではなかったので無視を決め込もうと思ったのだが「物いわぬは腹ふくるるわざなり」(「徒然草」)なので・・(笑)。

小澤征爾で思い出すのがこの本「小澤征爾さんと音楽について話をする」(村上春樹編)。


                

片や日本が生んだ世界的指揮者だし、片やベストセラー作家なので組み合わせの興味もある。小澤氏の長女と村上氏の妻が「大の友達」との縁で実現した対談で、その対談もたったの一回きりということではなくて2010年から2011年7月にかけて様々な場所で機会をとらえて実現したものだという。

ざっと、ひととおり目を通したが、先ず何よりも村上春樹氏がクラシックにこれほど造詣が深いとは驚いてしまった。周知のとおり、この人は本格的な作家になる前にジャズ喫茶を経営していたので、ジャズ一辺倒とばかり思っていたのだが、本書を読む限りクラシックにも相当詳しい。

ハイレベルでのクラシックとジャズの「二刀流の使い手」は村上氏だけかもしれない。

ちなみに彼のオーディオ装置は古いJBLの3ウェイシステムである。アンプはアキュフェーズときている。

長い間に亘ってこのシステムにより音楽を聴く確固としたメルクマール(指標)を培ってきたので今後も変えるつもりは一切ないそうである。(ステレオ・サウンドのインタビュー記事より)。

これは一つの見識ですね・・、多数の方々から「爪の垢でも煎じて飲め!」と言われそう(笑)。


ただし、肝心の彼の作家としての作品にはどうも波長が合わない。エッセイは別としてあまり読みたいと思う作家ではない。その理由がすぐには思い浮かばないのも不思議だが、何となくとしか言いようがない。図書館で新刊書を見つけてもおそらく借りることはないだろう。

一方の小澤征爾も立派な指揮者なんだろうがそれほど身近な存在ではない。彼が(指揮棒を)振った曲目の中で、どういうものが”極め付け”なのかというと、すぐに思い浮かばない。

たとえば「第九」(ベートーヴェン)、「ドン・ジョバンニ」(モーツァルト)とくればフルトヴェングラーが指揮したものを聴いておかないと話にならないが、残念なことに「この曲目なら小澤の指揮したものを聴いておかねば」というものがない。まあ、自分が知らないだけかもしれないが・・。

それと、これは音楽とはまったく関係ない話だが「人物像」についてあまり好ましくない印象を持っている。以下のことを書こうか、書くまいか随分迷ったが、その是非は読者にお任せすることにして思い切って綴ってみよう。

彼の最初の奥さんは江戸京子(ピアニスト)さん・・。この方もつい先日亡くなられましたね。

この人はかって三井不動産の社長で財界の雄とされた「江戸英雄」氏のご息女である。

そして、小澤征爾はある程度有名になってから、離婚して「ファッション・モデル」と結婚している。

当時、ある雑誌に「苦労している時代に金持ちの女性と結婚して散々利用しておきながら、有名になるとすぐに乗り換えた」とのゴシップ記事を読んだ記憶がある。


どういう事情があったにせよ、外野席から見るとそう映っても仕方がないよねえ。

念のため、「江戸英雄」をググルと、ちゃんと「江戸英雄は娘京子が結婚している間、小澤に金銭的な援助を行っていた」(週刊新潮1979年4月26日号)とあった。

中国の古典「後漢書」に「糟糠(そうこう)の妻」という言葉が出てくる。「貧乏なときから連れ添って苦労を共にしてきた妻」という意味である。今どき滅多に聞かない言葉だが、糟糠とは”酒かす”と”ぬか”のことで粗末な食物を意味する。

格言として
「糟糠の妻は堂より下さず」とあって、これは「糟糠の妻は夫の立身出世の後にも家から追い出してはならない」という意味合い。

つい、日頃の教養が滲み出てしまったが(笑)、こういう戒めの言葉があるくらいだから、古来、中国においても似たようなケースが沢山あったのだろう。もちろん日本においても言うに及ばず。

ちなみに、我が家の場合は立場が逆転していて、「糟糠の夫」が追い出されそう・・(笑)。


同じように音楽家の薄情な話として思い浮かぶのが「ダニエル・バレンボイム」(指揮者兼ピアニスト)。

奥さんだった名チェリストの「ジャクリーヌ・デュ・プレ」が若くして難病で瀕死の床についていたときに病院に寄り付かなかったという話。これもある雑誌で読んだ話で真偽の程を確かめようもないが、火のないところに煙は立たないだろう。

繰り返すようだが、人間性と音楽とはまったく関係ない話だが、所詮、人間は感情の動物なのでそういう「タイプ」なのかと思っただけで何だか冷めてしまう。少なくとも自分はそうである。ちょっとウェットすぎるのかなあ~(笑)。

「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」(レイモンド・チャンドラー)。

さて、肝心の本書の内容である。前述どおりのコンビの対談をまとめたものだが、結論から言えば、指揮者の立場から、そして鑑賞者の立場から音楽に対するアプローチが分かりやすく述べられている。

楽譜をよりどころにして音楽を分析的な聴き方で把握するという意味で非常に参考になった。楽譜を読める人間と読めない人間にとって両者の音楽の聴き方には雲泥の差があるようである。

また、指揮者にとってシンフォニーとオペラは車の両輪みたいなもので、「ワグナーを知らないままで終わるのか」と、カラヤンが小澤氏にオペラを指揮する重要性を述べている箇所があるが、つい、「オーディオ・システムとワグナーの関係」を意識してしまった。

あの独特の弦楽器のファンダメンタルな響きを出すためにどれだけの「血(お金)と汗(手間)と涙(悔恨)」を流したことか、それでもいまだに十全ではない・・(笑)。


ほかにもバーンスタイン、カラヤン、ミレッラ・フレーニとかの有名な音楽家との交流の裏話も非常に面白いし、「レコード・マニアについて」という項目があって、音楽家はマニアにそういう見方をしているのかと目が覚める思いがした。

クラシックファンにして、まだ本書を読んでいない方は、機会があれば一度目を通しておかれても損はしないと思いますよ~。


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モーツァルトはやはり「生身の天才」だった

2024年02月14日 | 音楽談義

「クラシックといっても、つまるところバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン・・、結局この3人に尽きるよ。」とは、よく聞く言葉。

たしかに彼らが欠けたクラシック界というのは想像するだに恐ろしい。


ただし、じぶんの場合はこの40年ほど明けても暮れてもモーツァルトなので、別にバッハとベートーヴェンが居なくなってもさしたる痛痒を感じない・・ま、バッハは少し困るかな(笑)。

「よくもまあ飽きもせずに」といったところだが、あの天真爛漫な何ら作為のない音楽は唯一無二ともいえるもので、とうてい他の作曲家が追随できるものではない。

フルートに堪能なオーディオ仲間が「モーツァルトの作品を吹くときは不思議にウキウキして楽しくなる。」と言ってたが、とても分かるような気がする。

さて、音楽からその人物像に至るまでだれにも負けない「モーツァルト通」だと秘かに自負し、大概のことは精通しているつもりだが、唯一いまだに気になっているのがオペラ「皇帝ティートの慈悲」。

実は、あまり評判が良くないのだ(笑)。

モーツァルトは1791年に亡くなり、その年に作られたのがあの最高傑作とされるオペラ「魔笛」だが、その作曲を中断してわずか18日間で作曲したとされているのが「皇帝ティートの慈悲」だ。

「にわか作り」の失敗作とか、最晩年の作品にもかかわらず「音楽の密度が低い」など散々。

ただし、あの有名なケッヘル博士の分類による作品番号では「魔笛」は「K・620」で「皇帝ティートの慈悲」は「K・621」なので、最後のオペラの称号は「皇帝ティートの慈悲」に当てられてもおかしくないはず。

ここでモーツァルトにおけるオペラの位置づけについて少々述べておくと、それは他の作曲家たちとはまったく違っていて、いわば「金城湯池」のようなもので、世にモーツァルトファンを自称する人は数多いが、真のファンかどうかを嗅ぎ分けるポイントは「オペラを好むか否か」の一点にかかっているといっていい。

彼の音楽の神髄はオペラでしか味わえないものだからである。

たしかにオペラ以外にも傑作は山ほどある。

珍しく己の心情を素直に吐露している「ピアノ・ソナタ群」、(コラムニストの石堂淑郎氏によると「湧き出る欲求の赴くままに、報酬の当てもなく作られた故か、不思議な光芒を放って深夜の空に浮かんでいる」)をはじめ、筆舌に尽くしがたい美しいメロディを持った幾多の名曲があるのを認めるのは吝かではない。

しかし、芝居の中で音楽によって命を吹き込まれた登場人物が生き生きと躍動する感覚と、展開時におけるリズム感、たとえばレチタティーボ(語り口調の叙唱)からアリア(詠唱)などへ場面が切り換わる時などの間合いの美しさと絶妙な呼吸感にはとうてい及ぶべくもないのである。

で、話は戻ってモーツァルトは35年の短い生涯だったにもかかわらず15ものオペラをモノにしているが比較的出来がいいというか有名なのは5つ前後で後はほとんど顧みられることがない。

あの天才にしてアタリ・ハズレがこれほどあるのだからモーツァルトの作品といっても盲信は禁物・・、「皇帝ティートの慈悲」にしても、おそらく出来がイマイチなので「最後のオペラ」にふさわしくないとされてきたのだろうとずっと思ってきた。

そうは言いつつも、「皇帝ティートの慈悲」を実際に聴いてみるに如くはない。どうやら長年の疑問にやっと終止符を打つときがきたようだ。

      

いつものようにオークションで手に入れたCD盤(2枚組)だが未開封の新品だった。指揮はアーノンクール(故人)。

昨日(13日)じっくり腰を据えて聴いてみた。

モーツァルト晩年の音楽に共通している「寂寥感」と「透明感」はたしかに感じられるものの、どこといってとらえどころのないオペラとの印象はどうしても拭えなかった。

「天才とは努力し得る才だ」(「ゲーテとの対話」)と、文豪ゲーテは言ったがモーツァルトほどの天才にしてもある程度の(作曲する)時間は必要だったのかと思うと感慨深い。

モーツァルトはやはり「生身(なまみ)の天才」だったんだなあ・・(笑)。



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ドイツオペラ「魔笛」の魅力

2024年02月04日 | 音楽談義

食べ物の好き嫌いと同じで、音楽も人によって嗜好に随分差があるように思う。

じぶんはオペラ「魔笛」の大の愛好家だが、一方では何度聴いてもその良さが分らない、退屈極まりない音楽という人がいても少しも不思議ではないし、これはいいとか悪いとかの問題でもない。

魔笛はベートーベンの第九などと比べるとポピュラーな曲ではないし、モーツァルトの曲の中では「ピアノ協奏曲」などと比べるとファン層もかなり限られている。

音楽の魅力を口で表現するのは本質的に難しいものがあるが(基本的に言葉で表現できない世界が音楽)、 ”いったい魔笛のどこがそんなにいいのか” と問われた場合にその魅力を適切に表現する言葉がすぐに浮かんでこず、何ともいえないもどかしさを感じているのだがそれを解消し代弁してくれる絶好の本がある。



「ドイツオペラの魅力」(著者:中島悠爾氏、日本放送教会刊)である。

この本は、冒頭から魔笛がドイツオペラの草分けとなる重要なオペラとしてしてかなりのページを割いて詳しく解説しているが、音楽理論よりもオペラ愛好家の立場から素人向きに執筆されていて大変分りやすい。


いろんな疑問に対して説得力のある解答を準備しているのでこの本をガイドにさせてもらって少しでも魔笛の魅力に近づいてみよう。

まず、はじめに魔笛は何といってもオペラだからオペラの特質について述べてみると、

クラシック音楽には器楽(交響曲、協奏曲、室内楽、管弦楽など)、声楽などいろんなジャンルがあるがオペラはこれらとどういう点が違うのだろうか。

1 演劇的な要素

オペラの特質の第一点は、演劇を通して、具体化された音楽を提供することにある。ドイツのソプラノ歌手エッダ・モーザー女史(1972年サバリッシュ盤:夜の女王)が自らの体験を踏まえて実に分かりやすい表現をしている。
                                    

「オペラには舞台装置があり、衣装があり、演技があり、共演者たちがあり、そして色彩豊かなオーケストラがあって、私の歌う内容は視覚的にも聴覚的にもリート(独唱用歌曲)に比べ、はるかに容易に聴衆に伝わっていきます。

いわば、オペラは自分の周りに既に半ば以上構築されている一つの世界の中で歌い、その世界を深めていけばよいので、リートよりはずっと楽です。」


2 人間の声という特質

第二点目は人間の声という特質である。声という音の素材はどんな楽器よりも直接的にはっきりとまた容易に人間のさまざまな感情を表現し得ることにある。

例えば舞台でヒロインが一人たたずむとき、あわただしく登場してくる人物に向かって「まあ、あなたでしたの」と発する、たった一言の中にはこのオペラの文脈に沿って、喜び、悲しみ、恥じらい、ためらい、皮肉、怒りなどごく微妙な心の表現が可能である。

これほどに直接的な感情の表現は人間の声以外のいかなる楽器にも不可能であり肉声という音素材の持つ簡単で直接的な効果、そしてそれを十二分に活用したオペラという形式はやはり最も分かり易く、身近で、一般大衆にも親しみやすい音楽なのである。

以上、まったくの「受け売り」だがオペラの特質は以上の二点で尽きると思う。

さて、楽器としての人間の声がいかに表現力に優れているかということが分ったが、その発声の仕組みをオーディオ機器の終末点として音質に決定的な影響力を有しているスピーカーに例えてみると面白い。

さしずめ人間の喉頭の中央部にある声帯がSPユニットに該当し、肺などの内臓部分がSPユニットを包み込むボックスと考えると決して無理筋ではなさそうだ。

多大の声量を必要とするバス(80~290ヘルツ)歌手を例にとると、まず全員といっていいほど太い喉首と大きな胸板を有し、図体が大きいのも納得がいくと思うが、はたしてどうなんだろう。

いずれにしても「食わず嫌い」がいちばん悪い・・、今では「You Tube」で「魔笛」が簡単に聴ける時代だ。

モーツァルトが35歳で亡くなった年に作曲されたもので、いわば彼の音楽の「集大成」ともいえるし、数あるクラシック音楽の中でも最高峰とされ、あの大先達「五味康佑」さんも好きな音楽のベスト1に掲げられている、そして楽聖ベートーヴェン、文豪ゲーテが最も愛した曲目・・。

全編を通じて、晴れ渡った秋の青空のような透明で澄み切った世界、 ”そこはかとなく” 漂う「物悲しさ」を感じ取れればまずは合格・・(笑)。

「You・・」の第一画面に出てくるオットー・クレンぺラー指揮の魔笛なんかは台詞が入ってないので比較的短時間に聴けるし名歌手ぞろいなので、この「冬ごもり」の中をいかがかな~。


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カラヤンがクラシックを殺した

2024年01月30日 | 音楽談義



音楽コーナーで本を漁っていたら「・・殺した」なんて、物騒な表題が目に入ったのでつい手に取ってみた。

ベルリンフィルの常任指揮者として音楽界に君臨し帝王とも称されて絶大な権力を振るった「ヘルベルト・フォン・カラヤン」(1908~1989)が亡くなってからもう30
年余が経った。

古来「人の評価は死して定まる」とあるが、現在クラシック愛好家の間で「カラヤン」という名前から連想されるイメージとはどういうものがあるんだろう・・。

もちろん ”人それぞれ” だが、この場合演奏の良し悪し云々というよりも、感情的な面から「好き」か「嫌い」かと単刀直入に問いかけた方が適切のような気がする。

で、「嫌い」という中には当時のあまりの人気の高さゆえに、クラシック音楽に似つかわしくないポピュリズム(通俗性)に対して苦々しいイメージを連想される方もいるのではあるまいか。実は自分がそう・・。

たとえば、一曲通しての演奏よりも以前に「アダージョ カラヤン」というCDがよく売れたそうだが、ああいったヒーリング向きのハイライト盤みたいなのがピッタリ合っている感じ。

もちろん、これはあくまでも主観的な見方なので「そんなはずはない、そもそもお前の聴き方が悪い」という意見があっても当然で音楽鑑賞にルールはないし、どんな感想を抱こうと個人の自由。

因みに現在、カラヤンが指揮したCDをどのくらい持っているのか調べてみたところ、
膨大な録音をしている割には意外と手持ちが少ないのに改めて驚いた。やっぱり「カラヤン嫌い」を反映しているといえそう。

1 チャイコフスキー 交響曲第六番「悲愴」

2 モーツァルト 「大ミサ曲ハ短調 K427」

3 モーツァルト 「クラリネット協奏曲 K622」「交響曲第39番 K543」

1は音楽評論家の評判が良かったし、チャイコフスキーの楽風となら相性がいいかもと思って購入したもの。


2は曲目が好きなのでいろんな演奏者を物色したがピタリとはまる演奏がなかったのでやむなく消去法で選択したもの。

3はカラヤンの若い頃は一体どういう演奏をしていたのだろうと1946年と1949年の録音をあえて買い求めたもの。

そのほかモーツァルトのオペラ「魔笛」については「収集狂」なので彼が指揮した1950年盤、1953年盤(ライブ)、1974年盤(ライブ)、1980年盤と4つの版を保有しているがこのうち一番のお気に入りは1950年盤(アントン・デルモータの快唱!)である。

盤が新しくなればなるほど冴えなくなってくるのが不思議(笑)。因みにこの1950年盤はピンチヒッターで指揮棒を振ったもので皮肉にも彼の個性を発揮しようにもできなかった盤だ。

さらに追い討ちをかけるようだがベルリンフィルの旧楽団員(コントラバス奏者のハルトマン氏)が「カラヤンは没後まだ20年も経たないのに忘れられつつあるような気がする、それにひきかえフルトヴェングラーは没後50年以上も経つのに・・・」とのコメントもある。

さて、前置きが長くなったがカラヤンへの個人的な感想はこのくらいにして冒頭に戻って肝心の著書「カラヤンがクラシックを殺した」に移ろう。

著者は國學院大學文学部教授で「宮下 誠」氏。ご専攻は20世紀西洋美術史が中心。本書の「巻頭言」をそっくり引用させてもらう。

「20世紀のある時点で、クラシック音楽は見紛うことなく、一つの”死”を経験した。その”死”は人類という種の、今日における絶望的状況の一断面を鮮やかに浮き彫りにする。

このような事態を象徴的に体現したもののひとりが、ほかならぬ、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、その人であ
る。彼、あるいは彼を取り巻く状況は、時代の病理を理想的に映す鏡である。私たちは、そこに己の姿を映し、見つめ、考えなければならない。」

みなさん、この文章を読んでみて意味が分かります?

率直に言って自分はこういうご大層な御託を並べた文章が一番苦手である。大嫌いと言ってもいい。この調子で本書は延々と展開されていくのだがとうとう内容がきちんと把握できないままに終わった。

どうやら著者は指揮者のオットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルがお好きのようで、両者の紹介にかなりの頁を割かれており、カラヤンと対比させようという狙いがあるようだ。

ともあれ、もうちょっと誰にも理解できるように分かりやすく書けないものかな~。

「音楽云々」以前の問題だね、これは・・(笑)。

ちなみに、著者の「宮下誠」氏をググってみると、

宮下 誠(みやした まこと、1961年 - 2009年5月23日)は、日本の美術史家。専門は20世紀西洋美術史、美術史学史、画像解釈学、一般芸術学。

あれえ・・、何と48歳で早世されている!

「死者に鞭打つ」ようなことを言ってゴメンね・・。



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