「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

優しく慰めてくれるシューベルトの音楽

2024年05月15日 | 音楽談義

読書でも音楽でも、そしてオーディオでもおよそ趣味と名がつく世界では微細な点まで他人と 好み が一致することはまず ない というのが我が経験則~。

したがって、他人のご意見は「参考にすれどもとらわれず」を堅持しているつもりだが、プロの音楽家が推奨する曲目ばかりは一度聴いてみたいという誘惑にかられることがしばしばある。

「鶴我裕子」(つるが ひろこ)さんが書かれたエッセイ集「バイオリニストは目が赤い」
を読んだときもそうだった。

             

鶴我さんは福岡県生まれで、東京芸大卒。1975年(昭和35年)にNHK交響楽団に入団され、第一バイオリン奏者を32年間務められた。

この本(新潮文庫)の50頁に、(鶴我さんは
「腹心のレコード」を2枚持っていて、愛聴し始めて20年、雨の日も風の日もこの2枚で心の支えを得ているという行(くだり)があった。

その2枚の内訳とは・・、フィッシャー=ディースカウの「シュトラウス歌曲集」と、もう一枚は「フリッツ・クライスラーの小品集」。

ディースカウは確実に後世に名前が残るほどの大歌手(バリトン)だし、クライスラーは1930年代頃を中心に活躍した名バイオリニスト。

さっそく、ネットで購入しようと
検索したところ両方ともに該当盤なし、仕方なくオークションを覗いたところディースカウは無かったが、クライスラーのがあった。

どんなに当時の録音が悪くてもクライスラーの演奏だけは「別格」と聞かされているので迷うことなく入札に参加し、スンナリ落札。

「フリッツ・クライスラーの芸術10CD」と「高音質復刻盤・オーパス蔵”クライスラー ヴァイオリン小品集”」。



そして、ディースカウの「(リヒャルト)シュトラウス」歌曲集についてだが・・、これはよほどのことがない限り、もう手に入りそうにない予感がする。そこで「You Tube」に望みをかけたところ、アルバムではなく単品があった・・、すぐに耳を傾けてみたところブログ主には少し縁遠い気がした。

仕方なく方向転換して間に合わせのつもりで、手元にある「冬の旅」(シューベルト)を引っ張り出して聴いてみた。ピアノ伴奏はイェルク・デムス。

ディースカウは生涯に亘ってこの歌曲集を7回録音しているほどの熱の入れようで、年齢に相応した歌い方があるのだろう。

          

この曲には少しばかりの想い出がありまして・・、

たしか40歳代前後の頃だったが、当時、大分市南部にお住まいのK先生(医師)宅にかなり出入りしていた。

ある地区の御三家と称された大病院の院長さんで、ご高齢のため既にもう亡くなられているが、広くて天井の高い専用のオーディオルームでタンノイのオートグラフを「TVA1」(M&オースティン)という真空管アンプ(KT88のプッシュプル)で駆動されていた。

今となってはオートグラフの音質は自分の求める方向とは違うと分かっているものの当時は深々とした音色に大いに感心し憧れたものだった。

そのK先生が愛聴されていたのが「冬の旅」だった。

「疎ましい冬の季節に旅をするなんて誰もが嫌がるものだが、あえてそういう時期を選んで旅をする。

人間はそういう困難な環境を厭わずに身をさらす気概が必要なんだ。医学生の頃に友だちと一緒にこの曲をよく聴いたものだよ」ということだった。

「冬の旅」というタイトルのほんとうの意味は必ずしもそうではなかったようなのだが、当時は知る由もなかった。

近年ではごく稀に聴く程度だったが、丁度良い機会とばかりじっくり腰を落ち着けて「新生 AXIOM80」で試聴してみる気になった。

音楽とオーディオは車の両輪ですからね!(笑)


短い生涯に600曲にものぼる歌曲を書いてドイツ・リート(芸術歌曲)の花を咲かせたシューベルトの集大成となるのがこの「冬の旅」。

亡くなる前の年に作曲されたもので、暗い幻想に満ちた24曲があまねく網羅されている。あの有名な「菩提樹」は5曲目。

季節的には春の真っ盛りというのに何だか肌寒く感じる中での鑑賞だったが暗いというか、沈痛に満ちた70分あまりの時間だった。

試聴後の印象となると、シューベルトの薄幸の生涯を全体的に象徴しているかのようだったが、こういう曲目を愛好する人っていったいどういう心情の持ち主なんだろうとつい考えてしまった。

少なくとも叙情的な接し方を超越した根っからのクラシックファンには違いない。

大いに興味を惹かれて、より深くシューベルトの森に分け入ろうと「You Tube」で「シューベルト名曲集」をじっくり聴いてみたが、 聴き馴染んだ親しみやすい旋律 が想像以上に豊富だったのには驚いた。

ほら、昔はNHKラジオで音楽番組を頻繁にやっていたが、その始まりのテーマ曲によく使われていたのが「三つ子の魂百までも」と、記憶に遺っているというわけ。

シューベルトの音楽のテーマは持続性というか発展性が はかなくて長続きしない 印象だけど、ときおりハッとする美しい旋律が出てくる・・、それがテーマ曲にピッタリというわけで、いわば「短編小説の名手」という感じかな~。

あっ、そうそう・・、何方かが 彼の音楽は老人を優しく慰めてくれる音楽 と言ってましたが該当者として正鵠(せいこく=急所)を射てると思いますよ~(笑)。


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オペラを聴くとなぜ頭が良くなるのか?

2024年05月14日 | 音楽談義

「犬も歩けば棒に当たる」という諺がある。

ご存知の方も多いと思うがググってみると、「棒に当たるとは、人に棒で殴られるという意味。本来は、犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれないというところから、でしゃばると災難にあうという意味であった。

現在では、“当たる”という言葉の印象からか、何かをしているうちに思いがけない幸運があるという、反対の意味で使われている。」

ときどき図書館に出かけて本を漁っていると、幸運にも思いがけない書物に 当たる ことがある。

「頭が良くなるオペラ」(著者:樋口裕一)
                                        

まず冒頭に「オペラを聴くとなぜ頭が良くなるのか?」とある。その理由とはこうである。 

「室内楽であれ、オーケストラであれ、オペラであれ、クラシック音楽を聴くと頭が良くなる。それが私の持論だ。

クラシックには微妙な音が用いられる。それにじっと耳を傾けることによって、物事をしっかりと落ち着いて思考する態度が身に付く。

変奏形式などに基づいて論理的に構成されていることが多い。それゆえクラシックを聴いているうちに自然と論理的な思考が身についてくる。

だが、オペラとなるとその比ではない。オペラは総合芸術だ。そこに用いられるのは音楽だけではない。

ストーリーがあり、舞台があり、歌手たちが歌い、演出がある。それだけ情報も増え、頭を使う状況も増えてくる。必然的に、いっそう頭の訓練になる。言い換えれば頭が良くなる」

とまあ、以上のとおりだが、自分の場合は別に頭を良くしようとクラシック音楽を聴いているわけではない。

聴いていて心地いい、場合によっては心を揺り動かされるのが楽しみなわけだが、目下の関心事のひとつは「ボケないこと」なので、一石二鳥になればそれに越したことはない。

本書では具体的に16の有名なオペラが挙げられており、“頭を良くする”ための聴きどころが懇切丁寧に解説されている。

我らがモーツァルトの三大オペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」ももちろん入っている。 

この三つのうち、もし一つでも欠けていたら著者のオペラに対する見識を疑うところだったので好感度100点!(笑)

この中では、最晩年の作品「魔笛」が音楽的には「一頭地を抜いている」と思うが、「頭が良くなる」という見地からはおそらく「ドン・ジョバンニ」ということになるだろう。

いったい、なぜか?その理由を述べてみよう。 

このオペラはモーツァルトの「天馬空を駆ける」ような音楽には珍しいほどの人間臭さがプンプン臭ってくる男女の愛憎劇である。

ご承知の方も多いと思うが、まず簡単なあらすじを述べると、女性と見れば若い女からお婆ちゃんまで次から次に手を出す好色な貴族の「ドン・ジョバンニ」が、神を信じず人を殺した報いを受けて最後は地獄に堕ちていくというもので、第一幕の冒頭の出来事にこのオペラの大切なポイントがある。

ドン・ジョバンニが貴族の女性「ドンナ・アンナ」をモノにしようと館に忍び込むものの父親の騎士長に見つかり、争いになって騎士長を刺し殺してしまう。父を殺されたドンア・アンナは恋人ドン・オッターヴィオとともに犯人を捜し、復讐しようと誓うシーン。

五味康祐さんの著書「西方の音」にも、このオペラが詳しく解説されているが、この館の夜の出来事においてドン ・ジョバンニが父親を殺す前にドンナ・アンナの貞操を奪ったのかどうか、これがのちのドラマの展開に決定的な差をもたらすとある。

言葉にすることがちょっと憚られる 暗黙知 がこのオペラの深層底流となっているわけだが、こういうことはどんなオペラの解説書にも書かれていないし、もちろん本書もその例に漏れないが、このことを念頭におきながらこのオペラを聴くととても興趣が尽きない。

ちなみに、「西方の音」では二人に関係があったことは明白で「さればこそ、いっさいの謎は解ける」と具体的にその理由が挙げられている。

「もしかして・・」と疑心暗鬼にかられる恋人ドン・オッターヴィオ、素知らぬ風を装うドンナ・アンナ、そして臆面もなく他の若い娘にも触手を伸ばす好色漢ドン・ジョバンニとの三角関係、その辺の何とも言えない微妙な雰囲気をモーツァルトの音楽が問わず語らずのうちに実に巧妙に演出している!

楽聖ベートーヴェンはこの不道徳なオペラに激怒したとされるが、ロマンチストだったベートーヴェンと違って、モーツァルトは人間の機微に通じた世慣れ人であることがいやがうえにも感じ取れる・・。

というわけで、「ドン・ジョバンニ」をこういう風に鑑賞して想像力を逞しくすると頭の血の巡りが良くなりそう!(笑)

フルトヴェングラー指揮、以下クリップス、バレンボイム、ムーティなどいずれも名演だと思うが、前述の微妙な雰囲気を醸し出すのが上手いのはやはり「フルトヴェングラー」かな~。

ライブ録音なので音質が冴えず 茫洋 とした風情が漂っているのも寄与しているかもしれない・・(笑)。
          

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「あの頃は良かった・・」症候群

2024年05月11日 | 音楽談義

若い頃にしょっちゅう釣りに出かけていたので、今でもよく「釣り番組」を観ているが、登場した年配の漁師さんたちが押しなべて「昔はよく捕れていたんだけどなあ」と嘆くシーンが実に多いことに気付く。

実際にそうかもしれないが、人間は押しなべて「あの頃は良かった・・」と過去を美化しがちな傾向があるように思う。

それも、”あの頃は”と言うくらいだからそろそろ人生のゴールが見えてきた中高年層にその比率が高いだろうし、さらには当時を振り返ることで自分の「若さ」が持っていた可能性や夢といったものを懐かしむ側面もきっとあるに違いない

ただし回顧談に耽ると「若い人たちから嫌われるだけ」という話をよく聞くのでほどほどにしなければと自戒している。まあ、このブログに目を通している方の大半は高齢者だろうからその点は安心できる・・(笑)。

さて、「あの頃は良かった症候群」に関連して、つい音楽の世界を連想してしまった。

たとえば、指揮者の世界。

トスカニーニ、フルトヴェングラーなど1950年代前後を中心に活躍した往年のマエストロたちに対する賛美はいまだに尽きないように思う。

フルトヴェングラーは先年の「レコード芸術」誌で50人の評論家と読者による名指揮者ベスト・ランキングで堂々と第1位に選ばれており、トスカニーニも第4位と健闘しているほどで、だれもその卓越した指揮振りに口をはさむ者はいない。

                                 

それに比べて今の指揮者の評価は一般的に
「いかにもスケールが小さくて小粒だ、芸術性に乏しい」などの厳しい評価が後を絶たない。

昔の指揮者は実に良かった!

しかし、本当にそうなのだろうか? いたずらに過去を美化しているだけではないのだろうか。

 と、いうわけで、あくまでも私見だが現代の指揮者を見てみると、一番大切とされる「作曲者の意図を理解して忠実に再現する能力」は往年のマエストロに比べて少しも遜色はないように思える。

たとえば、自分の知っている範囲では、「春の祭典」を聴いて度胆を抜かれたワレリー・ゲルギエフ、「魔笛」のDVDを視聴して感心したフランツ・ウェルザー・メスト、ヨーロッパで活躍されている大野和士さんもオペラの指揮で多彩な才能を発揮されている。

しかし、残念なことに昔とは決定的に違うところがあって、それは当時の指揮者たちが絶対的な権力を持つことが許されていたこと。

トスカニーニなどは練習中に楽団員たちに のべつくまなく 罵詈雑言を浴びせ、絶対服従を強いた。その結果当時の録音を聴くとよく分かるが、楽員たちが一糸乱れぬまるで軍隊の行進のように緊張しきって演奏しているのがよく分かる。

楽団員全員の神経が張りつめた「緊張感あふれる演奏」、ここに指揮者のカリスマ性が生まれる余地がある。

フルトヴェングラーも似たようなもので、楽団員たちが「マエストロの指揮ならついていける」と、心酔していたからあのような神がかった演奏が達成できた。

これに比べて、今の指揮者たちは当時とは時代背景がまったく変わってしまっているのがお気の毒~。

すっかり民主化という波が押し進められ絶対的な地位が失われて、団員たちとの距離もすっかり近くなってしまった。

人権重視という背景もあって、音楽以外の雑用も気にしなければならず、これでは指揮者が自分の個性を十二分に発揮しようがないのも事実。

それにもう一つ決定的な違いがある。

1950年代前後は周知のとおりクラシックの黄金時代とされているが、「芸術(クラシック)と娯楽の境界」が現代と比べて比較的はっきりしていたので、指揮者に対する尊敬と称賛が自然に注がれていた。

それに引き替え、現代は両者の境界というか垣根が徐々に低くなってきていて、まあ平たく言うとクラシックが地盤沈下したのか、あるいは全般的に娯楽の質と量が向上したのか、それとも両方の相乗効果なのか・・、どうかするとクラシックが娯楽並みに「コマーシャル・ベース」や「暇つぶし」の感覚で扱われるようになっている(指揮者ブルーノ・ワルター談)。

これでは指揮者の社会的に占める位置づけも当然変わろうというものだ。

結局、「あの頃の指揮者は良かった」というのは事実だろうが、「当時は取り巻く環境に恵まれていたからね」というエクスキューズが必要な気がするがどうなんだろう。



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精神力を向上させるのは幸福ではなく悲しみである

2024年05月08日 | 音楽談義

作家の「マルセル・プルースト」(フランス:1871~1922)をご存知だろうか。

ジェームス・ジョイス(ユリシーズ、ダブリン市民など)、フランツ・カフカ(変身、審判など)とともに20世紀を代表する作家であり、代表作の長編「失われた時を求めて」は後世の作家に大きな影響を及ぼした作品として知られている。

数多くの名言を残したことでも有名で、そのうちの一つ「幸福というものは、 身体のためには良いものである。 しかし、精神の力を向上させるのは、 幸福ではなく悲しみである。」は、思い当たる人がいるかもしれない。

さて、図書館でたまたま「プルースト効果の実験と結果」に出くわした。

   

「プルースト効果」っていったい何?

本書によるとこうだ。

「特定の香りから過去の記憶が呼び覚れる現象のこと。マルセル・プルーストの代表作「失われた時を求めて」で主人公がマドレーヌ(焼き菓子)を紅茶に浸したとき、その香りがきっかけで幼年時を思い出すことからこの名が付いた」とある。

ちなみに、本書のケースでは二人のうら若き男女が受験勉強のときに特定のチョコレートを食べるクセをつけて、テストの直前にチョコレートを食べることで勉強時に詰め込んだ知識が自然に蘇ってくるかもしれないとその「プルースト効果」に期待するというものだった。

その実験を通じて、受験生同士の恋愛模様が絡んできて最後はあっけなく失恋に終わるという内容だったが、青春時代の甘酸っぱい思い出が巧く描かれていた。

さて、人間の知覚は周知のとおり五感として「視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚」に集約されるが、プル-スト効果は「特定の香り」だから「嗅覚」に由来していることになる。

そこで、いやしくも「音楽&オーディオ」のタイトルを標榜する以上、「プルースト効果」の「聴覚版」に言及するのは必然の成り行きだとは思いませんかね(笑)。

つまり「音楽のプルースト効果」

特定の音楽を聴くと分かち難く結びついた過去の記憶(シーン)が蘇ってくるという経験はおそらく音楽好きの方ならあることだろう。

我が身に照らし合わせてみると、50年以上クラシックを聴きこんできた中で、それこそいろんな曲目の思い出があるが、さしあたり2曲ほど挙げてみよう。

✰ ジネット・ヌヴー演奏の「ヴァイオリン協奏曲」(ブラームス)

たしか15年ほど前のこと、とあるクラシック愛好家と親しくさせてもらったことがあり、その方がお好きな女流ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーについて話を伺ったことがある。

クラシック全般に亘ってとても詳しい方だったが、それによると、「レコード音楽の生き字引」や「盤鬼」(五味康祐氏著「西方の音」19頁)として紹介されている西条卓夫氏が当時(昭和40年前後)の「芸術新潮」で、いろんな奏者がブラームスのバイオリン協奏曲の新譜を出すたびにレコード評の最後に一言「ヌヴーにトドメをさす」との表現で、どんな奏者でも結局ヌヴーを超えることは出来なかったという。

自分にとっても、これほどの名演奏(ライブ)は後にも先にもないと思っているし、教えていただいた方にも感謝しているが、残念なことにその方とは今となってはすっかり 疎遠 になっている。

なぜかといえば、我が家の当時のJBLの音を聴かれて「こんな音は大嫌いだ」みたいな捨て台詞を残して憤然と席を立ち、それっきりプツンとなってしまった。

「音が憎けりゃ人まで憎し」・・(笑)、まあ、いろんな鬱憤(うっぷん)が積み重なった背景があったのでしょうよ~。

ヌヴーの演奏を聴くたびに、そのことがつい思い浮かぶ・・。

✰ モーツァルト「ファゴット協奏曲第2楽章」

37年間もの宮仕え生活を送るとなると、それはもういろんな上司に当たることになる。

振り返ってみると、ウマの合わない上司と当たる確率は半々ぐらいかな・・、自分だって欠点だらけの人間だから仕方がない面もあるな~。

まあ、宮仕えとはそういうもんでしょう(笑)。

あれは宮仕えも後半に差し掛かった頃のことだった。それはもうソリの合わない上司に当たって、何かと理不尽とも思える仕打ちを受けた。

それほどタフな精神の持ち主ではないので、とうとう「心の風邪」を引いてしまい、挙句の果てには不眠に悩まされることになった。

そういうときに購入したCDが「眠りを誘う音楽」だった。ブルーレイ・レコーダーのHDDに取り込んで今でもときどき聴いている。

   

当時、第10トラックの「ファゴット協奏曲第2楽章」(モーツァルト)を聴き、沈んだ心に深~く染み入ってきて「世の中にこれほど美しい曲があるのか!」と思わず涙したものだった。ちなみに、それは娘のお粗末なラジカセで聴いたものだった・・(笑)。

そして、この曲を聴くたびについ当時の「心の風邪」を連想してしまう。

以上、2曲の「プルースト効果」についてだが、いずれもあまり面白くない過去の記憶がつい呼び覚まれてくるのが不思議・・、あっ、そうそう、「夢」だって過去の不愉快な思い出がつきまとってくる傾向が強い。

冒頭に紹介したプルーストの言ではないが、幸福感よりも悲しみ(哀切感)の方が深く記憶に刻み込まれて精神を成長させるのかな・・。

皆様の場合はいかがでしょうか。



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人間性の開放とモーツァルトの音楽

2024年05月04日 | 音楽談義

もうはるか15年以上も前のこと・・、

地元の新聞に、とあるオーディオ・マニアの写真がご自宅の高級装置とともに大きく掲載されていて「素晴らしい音です。どうか興味のある方は聴きにいらっしゃい」と、随分自信ありげだったのでいそいそと出かけて行ったことがある。クルマで30分ほどの大分市内の方だった。

お年の頃は当時で70歳前後の方だったが、高価な機器を購入して部屋にポンと置いただけで「いい音が出る」と錯覚しているタイプで、それは、それは「ひどい音」だった(笑)。

したがって、オーディオの方はサッパリだったが、音楽への造詣はなかなかのもので「結局、クラシック音楽はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人に尽きます。」という言葉が強く印象に残った。

まあ極論になるのだろうが、「当たらずといえども遠からず」かな・・。

(以下、音楽論になるが各人の感性に左右される話なので、それぞれ見解の相違があると思う。したがってあくまでも「私見」ということでまずお断り~。)

クラシック音楽を一つの山にたとえるとすると、この3人をマスターすればおよそ7合目までくらいは登攀したことになろう。

個人的にはそのうちバッハについてはイマイチのレベルで、せいぜいグレン・グールド(ピアニスト)を介して、「イギリス組曲」「ゴールドベルク変奏曲」を聴くくらい。代表曲とされる
「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」にはとても程遠い。

しかし、モーツァルトとベートーヴェンは結構、イイ線をいってる積もり。

モーツァルトはピアノ・ソナタ、ヴァイオリンソナタ、ピアノ協奏曲などに珠玉の作品があるが、やはり最後はオペラにトドメをさす。
結局「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」で彼の音楽は完結する。

ベートーヴェンでは交響曲の2~3つ、大公トリオ、ピアノ・ソナタの最後の3曲(30番~32番)と後期の弦楽四重奏曲群があれば充分。

この二人の試聴期間を振り返ってみると好きになった年代がはっきり区分されていて、20代の頃はベートーヴェンだったが、30代後半からモーツァルト一辺倒でそれがず~っと今日まで続いている。

ベートーヴェンの音楽は今でも好きだが、年代が経るにつれて押し付けがましさを感じてやや敬遠している。

その点「モーツァルトの音楽は自由度が高く飛翔ともいうべきもので、ある程度人生経験を積まないとその本当の良さが分からない」、まあこれは自分だけの思いだろうと、ずっと胸に秘めてきた。

ところが、
丸谷才一氏の「星のあひびき」を読んでいたらふとこのことを思い起こす羽目になってしまった。

            

該当箇所を要約してみると・・、

「20世紀は「戦争と革命の世紀」だといわれるほど、むごたらしい殺戮の世紀であった。これに関連する死者数は何と1億8千7百万人にものぼる。こういう血まなぐさい百年間でもほんの少し功績はあった。
ピーター・ゲイという著名な歴史学者はこんなことを言っている。「暗澹たる20世紀が誇りうるほんの僅かの事柄の一つが、モーツァルトの音楽をそれにふさわしい栄光の位置に押し上げたということである」。

モーツァルトの音楽が脚光を浴びることが20世紀の誇りうる事柄の一つとは、彼のファンの一人として素直にうれしくなるが、ちょっと「大げさだなあ~」という気がしないでもない。

そもそも「戦争」や「革命」と同列に論じられるほどクラシック音楽が重要だとは到底思えないけどね~(笑)。

それはさておき、問題はモーツァルトの音楽が20世紀に入って見直されたという事実。

本書によると19世紀は道学的、倫理的な時代であり、モーツァルトのオペラは露骨な好色趣味のせいで軽薄、淫蕩的とされ、ベートーヴェンの方が圧倒的な人気を博していたという。

たしかにモーツァルトの「フィガロの結婚」は召使の結婚に初夜権を行使したがる領主を風刺した内容だし、「ドン・ジョバンニ」は主人公が好色の限りを尽くして次から次に女性に言い寄るストーリー。

モーツァルトも「女性大好き」人間だったので、まるで自分が主人公になったかのように作曲に没頭した。そうじゃないとあれほどの迫真の音楽は完成しない。

つまり、人間の本性を包み隠さずにさらけ出す彼の音楽が露悪趣味のように受け取られてしまったわけだが、20世紀に入ると19世紀への反動が出てきて、人間性の開放という観点から、文学、絵画、音楽への新たな発見、見直しが行われ、その一環としてモーツァルトの音楽も大いに見直された。


モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったが、彼の音楽は死後、ずっと現在と同じくらい人気があったものと思ってきたのでこの話はちょっと意外に感じた・・。

モーツァルトの音楽に何を感じるか・・、人それぞれだが「露悪趣味」から「人間讃歌」まで、時代の流れや己の人間的な成長とともに受け止め方が変わっていくのが面白い。

とにかく、一見軽薄そうに見えて実はいろんな「顔」が隠されていて、聴けば聴くほどに とても一筋縄ではいかない音楽 であることはたしかだと思う。

この連休中、旅行に行かずにたっぷりと時間に恵まれた方々・・、「You Tube」でモーツァルトの音楽に耳を傾けて 人間性を開放 しましょうや~(笑)。



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バッハの鑑賞を通じて「己を無にする」ことの難しさを悟る

2024年05月01日 | 音楽談義

指揮者にしろ、演奏家にしろ音楽に携わる人の著作は非常にタメになることが多いので、図書館で目かけたら必ず借りることにしている。

                     

とりわけ、日本の女性ヴァイオリニスト「千住真理子」さんは、演奏はともかく「お人柄」にひそかに敬愛の念を抱いている演奏家の一人なので「ヴァイオリニストは音になる」を興味深く読ませてもらった。

207頁に「バッハは自分を消さないと弾けない」との小見出しのもとに次のような叙述があった。

「バッハは私の人生そのものであり、私の心の中にある聖書、神でもある。バッハは一生追い続けていくと思うのですが、バッハを弾くときというのは<お坊さんがミソギをする心境ってこんなかなと思う>そこまでいかないとバッハが弾けないと思っています。

それはどういうことかというと、<自分を表現しよう>と思ったら弾けなくなるのがバッハなのですね。<こう弾こう>と思ったら弾けなくなるし、<こういう音を出そう>と思ったら弾けない。つまり自分というものをいっさい消し去らないと、バッハは入れてくれない。バッハの世界に入れません。

要するに<無になる>ということなのですが、これは大変難しい。これこそなにかお坊さんの修行というのが必要なのかなと思ったりします。<無になったぞ>と思った瞬間は、なったぞと思ったことがもう違います。ふっと無になっていて、するとまた邪念が出てくるのですね。

<あ、次は、二楽章はこう弾こう>と思った瞬間にまた自分に戻ってしまう。<どうやって自分を捨てるか>というのがバッハとの闘いで、たぶん私は生涯バッハを弾くたびに、そうやって修行をしていくのだなと思います。それでも好きな曲がバッハですね。」

以上のとおりだが、文中にある「自分を無にする」ことの難しさ・・、自分のような凡人であるがゆえに、この歳になっても骨身に沁みてわかっているつもり(笑)。

そして、これまでいろんな作曲家の音楽を手広く聴いてきたものの、いちばん苦手とするのがバッハの音楽である。どうも肌に合わないのだ。

「平均律クラヴィーア曲集」をはじめバッハの残した作品は、後続の作曲家達にとって常に教科書であり御手本だったという意味から「音楽の父」とも称されるバッハ。

バッハが自分のレパートリーに入ると音楽人生がもっと豊かになるのは確実なので、これまで世評高き「マタイ受難曲」をはじめ、「ロ短調ミサ」などに何度挑戦したか分からないが、その都度、「お前は縁なき衆生(しゅじょう)だ!」とばかりに場外へはじき出されてしまう(笑)。

前述の千住さんの記事からも伺えるが、どうやらバッハに親しむには「無になる」ことが演奏家のみならず鑑賞する側にも必要かと思うが、どうも自分には邪念が多くてそういう資質が無いのかもしれないと諦めかけているが、そういう自分に最後のチャンスが巡ってきた。同じ千住さんが書かれた先日の新聞記事にこういうのが載っていた。

                      

バッハの「シャコンヌ」の素晴らしさに言及しつつ、「4分半を過ぎたあたり、小さい音で音階を揺らしながら奏でるアルペジオの部分。涙の音が現れます。~中略~。巨匠といわれる演奏家のCDをひととおり聴きましたが1967年に録音されたシェリングの演奏が別格です。完璧で心が入っていて、宇宙規模でもあり・・・。すべて表現できている。<神様>ですね。」

う~む、ヘンリク・シェリング恐るべし!幸いなことに、シェリングが弾いた「シャコンヌ」を持ってま~す(笑)。

            

もういつ聴いたろうか・・、はるか忘却の彼方にあるCDだが、バッハの音楽に溶け込める最後のチャンスとばかり、この程じっくり耳を傾けてみた。「涙の音」が聴こえてくればしめたもので ひとつのきっかけ になれば・・。

だが、しかし・・、真剣になって耳を澄ましたものの、この名演からでさえも「涙の音」どころか、そのかけらさえも感じ取れなかった、無念!

やっぱりバッハは鬼門だなあ・・、そもそもバッハとモーツァルトの両立は難しいのかもしれない。

バッハを愛好する人で「魔笛」が死ぬほど好きという人はこれまでお目にかかったことも、聞いたこともないんだから~。

と、言い訳して秘かに溜飲(胸のつかえ)を下げておこう(笑)。



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世の中には 二種類 の人間がいます

2024年04月25日 | 音楽談義

「世の中には二種類の人間がいます。カラ兄を読んだことのある人と読んだことのない人です。」



「ひとつ、村上さんでやってみるか」を読んでいたら、79頁にあったのがこの言葉・・、著者は村上春樹さん。ちなみに「カラ兄」とは「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)のこと。

まるで「敵か味方か」みたいに、こうやってものごとを単純化するととても分かりやすいですね(笑)。
                       

印象に残ったので、引用してみたわけだが「カラ兄」を読むと人生観が変わるという話をよく聞く。「将来、カラ兄のような長編小説を書きたい。」というのが
村上さんの願望だそうだ。

実は先年、娘から「お父さんも読んだ方がいいわよ」と、「カラ兄」(岩波文庫版、全4冊)を受け取ったものの、いまだに部屋の片隅にツンドク状態になっている。

何せブログの更新をはじめ何かと忙しくてね~(笑)。

それにもうこの歳になって人生観が変わっても仕方がないし・・、ま、諸々が一段落した暁には、ひとつ腰を据えて読んでみようかな。


さて、文学の最高峰は衆目の一致するところ「カラ兄」で決まりのようだが、クラシック音楽の最高峰は何だろうか?

あれやこれや言ってみてもクラシック音楽を峰にたとえると、年代順に行けば、登りやすい足場を築いたバッハに始まりモ-ツァルトという頂上を経てベートーヴェンという広大な裾野で終わるようなもの。

で、真っ先に浮かぶのは「マタイ受難曲」(バッハ)だろうが、個人的に思い入れが強いのはオペラ「魔笛」(モーツァルト)である。

またか~(笑)

600曲以上もの膨大な作曲を手がけたモーツァルトだが、その中でも深い感動に満ち溢れたハイテンションの感覚を味わうには何といっても魔笛に指を屈する。40年以上にわたってモーツァルトをひたすら聴き込んできた専門家が言うのだからこれは間違いない(笑)。

さしずめ、冒頭の言葉をもじると「クラシックファンには 二種類 の人間がいます。魔笛を好きになる人と、そうでない人です。」

心強いのは(魔笛には)強力な応援団がいること。けっして孤軍奮闘ではない。

かの畏れ多きベートーヴェンはモーツァルトの最高傑作は「魔笛」だとして、のちに「魔笛の主題による12の変奏曲」を作って献呈しているし、文豪ゲーテだって「人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だ」と述べているし、「五味康祐」さん(故人、作家)だって個人的に好きな曲目のランキングで堂々とベスト1に挙げられている。

どうやら玄人筋に評判がいいようだ。そりゃそうで2時間半に亘る長大なオペラなので、いかに幾多の名曲に恵まれているとはいえ、ずっと聴き通すのに根気がいるのはたしかで初め~て聴く人にはちょっと敷居が高すぎる。

それに真正面から「さあ、聴いてやるぞ」と意気込んで向かい合うと空振りになること請け合い。“ながら族”で聴いているうちに、何となくメロディが耳に焼き付き、そしてだんだん深みにはまっていく。そして最後はもう魔笛を聴かないと夜も日も明けない、このパターンが一番自然だ。

「クラシックという広大な森に分け入ったからには魔笛を好きにならないと大損をしますよ~。」と、声を大にして叫んでおこう。


とはいえ実際に試聴するのはこのところ年に3~4回に留まっている。

若い頃から魔笛に淫してしまいCD、CDライブ、DVDなど、もっといい演奏はないものかと、とうとう50セット近く買い集めて(おそらく日本一のコレクションだと思う!)聴きまくってきたので、耳が倦んでいる面もある。いかなる名曲でも聴き過ぎると敬遠気味になるのは音楽ファンなら先刻ご承知のとおり。


そしてつい先日、魔笛を久しぶりに堪能した。たまたま昔の録画番組を整理していたら見つけたもので、クラシック専門番組「クラシカジャパン」(637チャンネル)による放映を録画したもの。

指揮はアーノンクール(1929~2016)。これは2012年ザルツブルグ音楽祭の出し物で非常にユニークな演出で大きな話題となったもの。


アーノンクールといえば「古楽器演奏に固執する個性派」として知られ、異端のイメージが抜けきれず・・、実はこれまでイマイチだと思っていたのだが、この魔笛は別で違和感なく溶け込めた。歌手たちも若手が主体でまったく名前を知らない歌手ばかりだったが、たいへんな熱演で力量不足を感じなかった。

しかし、「アーノンクールはこんなに “まとも” だったかな?」と疑問を覚えたので、1987年に録音した手元の魔笛(CD盤)を改めて聴いてみた。

            

144分間ずっと耳を傾けたがあまりにも立派な演奏に胸を打たれた。歌手たちもグルヴェローヴァをはじめ超一流ばかり。

アーノンクールは当時とまったく変わっていない・・、過ぎ去っていく時間の中で自分だけが “置いてきぼり” をくった感じ。自分はいったい何を聴いていたんだろう?


もしかして、当時に比べてオーディオシステムを一新したせいかな~(笑)。
 



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音楽鑑賞は「音と音の間に横たわる沈黙」を聴きとることで昇華する

2024年04月19日 | 音楽談義

前回のブログ「オーディオ情報は8割疑え」は今年いちばんのヒット(アクセス数)となりました。

「エンターテイメント」としての「虚実の割り切り方」がどうやら大いに共感を呼んだようですね・・。

ブログ主にしても個人的な「思惑 → 誘導」に色濃く彩られた日頃のオーディオ記事の「禊(みそぎ)」が済んだような気がして、何だかホッとしてちょっと気が楽になりました~、所詮は錯覚なんでしょうけどねえ(笑)。

で、音楽記事の方はどうなんだろう?

やっぱり「似たり寄ったり」かな・・(笑)。

というわけで、実験台として「音楽鑑賞は音と音の間に横たわる沈黙を聴きとることで昇華する」について、ひとくさり~。

昨日(18日)の午前、「サツマイモ」(昼食用)の買い物ついでにオーディオ関係の本でも立ち読みしてみようかと本屋さんに立ち寄ったところ、さりげなく店内に流れていたBGMがモーツァルトのピアノソナタだった。

「ああ、いいなあ!」と、思わずウットリして立ち尽くしてしまった。

このところご無沙汰気味だったピアノソナタ(全20曲)だが、脚本家「石堂叔郎」氏は次のように述べている。

「一生の間、間断なく固執して作曲したジャンルに作曲家の本質が顕現している。モーツァルトのピアノソナタは湧き出る欲求の赴くままに、何らの報酬の当てもなく作られた故か不思議な光芒を放って深夜の空に浮かんでいる」

モーツァルトの作品の中では非常に地味な存在だが聴けば聴くほどにモーツァルトの素顔が顕わになる音楽であり、一度ハマってしまうと病み付きになる音楽でもある(笑)。


急いで自宅に戻ると関連のCDを引っ張り出した。

      

感受性が豊かだった30~40代の頃はたびたび感涙に咽んだものだが、この年齢になるとスレッカラシになってしまい涙の一滴も出てこないが、それでもやはり相性がいいのだろうか、相変わらず琴線に強く触れるものがある。

当時一番耽溺したグールドに始まって、ピリス、内田光子、アラウ、ギーゼキング、シフと聴いてみたがこの年齢になると自然体の演奏が一番ピッタリくる・・、その点グールドはあまりに個性が際立っていてちょっと押しつけがましい気がしてくるのも事実。

その一方、ピリスはまことに中庸を得ていて、気取ったところが無く何よりも「音楽心」があってたいへん好ましい。年齢に応じて好みの演奏家も変わるのだろうか・・。

「音楽は普段の生活の中で味わうものです。何も着飾ってコンサートに行く必要はありません。」が、彼女のモットー(テレビで言ってた!)だが、この演奏も等身大そのままの音楽を聴かせてくれる。

このソナタを久しぶりに堪能させてもらったおかげで、このところオーディオに傾いていたマインドが振り子のように音楽に戻っていったのはメデタシ、メデタシ。これが「音楽とオーディオ」の本来のあるべき姿なんだから(笑)~。

そして、「音楽の押しつけがましさ」で連想したのが以前読んだ「生きている。ただそれだけでありがたい。」(新井 満著:1988年芥川賞)
の中の一節。

                     

「61頁」に著者が娘に対して「自分のお葬式の時にはサティのグノシェンヌ第5番をBGMでかけてくれ」と依頼しながらこう続く。

「それにしても、何故私はサティなんかを好きになってしまったのか。サティの作品はどれも似たような曲調だし、盛り上がりにも欠けている。淡々と始まり、淡々と終わり、魂を震わすような感動がない。バッハやマーラーを聴く時とは大違いだ。

だが、心地よい。限りなく心地よい。その心地よさの原因はサティが声高に聴け!と叫ばない音楽表現をしているせいだろう。サティの作品には驚くほど音符が少ない。スカスカだ。音を聴くというよりはむしろ、音と音の間に横たわる沈黙を聴かされているようでもある。

沈黙とは譜面上、空白として表される。つまり白い音楽だ。サティを聴くということは、白い静寂と沈黙の音楽に身をまかせて、時空の海をゆらりゆらりと漂い流れてゆくということ。

毎晩疲れ果てて帰宅し、ステレオの再生ボタンを押す。サティが流れてくる。昼間の喧騒を消しゴムで拭き消すように。静寂の空気があたりに満ちる。この白い壁の中には誰も侵入することができない。白い壁の中でたゆたう白い音楽。」

以上、これこそプロの作家が音楽について語る、まるでお手本のような筆致の文章で、自分のような素人がとても及ぶところではないですね~(苦笑)。

サティの押しつけがましさのない音楽の素敵さが充分に伝わってくるが、実は、文中にある「音と音の間に横たわる沈黙」については思い当たる節がある。

以前、クラシック音楽の大先達だった五味康祐さんが生涯に亘って愛好された曲目をベスト10として掲げてあるのをネットで拝見したが、第1位の「魔笛」に続いて第2位にランクされていたのがオペラ「ペレアスとメリザンド」(ドビュッシー)。

五味さんほどの方が愛好される音楽だからさっそく聴いてみようと指揮者の違うCDを2セット(ハイティンク盤とアンセルメ盤)購入して聴いたところ、これがサッパリだった(笑)。
           

気の遠くなるような長い静寂の中を登場人物がぼそぼそと囁くようにつぶやく、まことに冴えないオペラで、メロディらしいものもなく盛り上がりにももちろん欠ける。五味さんほどの方がこんな曲の何処が気に入ったんだろうと正直言ってガッカリした。

しかし、今となってみるとこれはサティの音楽とそっくりで、五味さんはもしかすると「音と音の間の沈黙」を聴かれていたのかもしれないと思えてきた・・、いや、きっとそうに違いない。

この沈黙を聴きとるためには、聴く側にも心の準備として自己の内面と静かに向き合う「静謐感」が必要であることは、クラシック音楽ファンならきっと思い当たるに違いない。

で、「音楽鑑賞は音と音の間に横たわる沈黙を聴きとることで昇華する」なんてことを偉そうに書くと、すぐに馬脚が現れそうなのでこの辺でお終いにしておくのが無難かなあ~(笑)。 


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もっとオペラに親しもう

2024年04月16日 | 音楽談義

「オペラは歌詞の意味がどうもよく分からないので敬遠しているんだ・・」

ずっと昔のこと、とある熱心なクラシック愛好家がこんな呟きを漏らされていたことが、妙に記憶に遺っている。

日本人が食わず嫌いも混じってオペラを敬遠している理由もそこに尽きると思うが、ブログ主の場合は「魔笛」(モーツァルト)によってすっかりそのイメージが覆ってしまった。

歌詞の意味なんか分からなくても構わない・・、オペラとは登場人物たちの役柄、心理、感覚、身体、動き、旋律、ハーモニー、そして音響空間などの総合芸術なんですから・・、というのがその理由。

オペラがレパートリーに入ると音楽人生が充実しますよ~(笑)。

格好の本があります。




解説にはこうある。

オペラには、他の芸術にはできないことが、できるのです。
世界を音楽で表現する総合芸術「オペラ」。

400 年の歴史持つこの素晴らしい芸術は今、制作者たちの拙劣な活動によって、作品の価値を下げられ てしまっているのではないだろうか。

本書は、誰よりもオペラの可能性を信じる演出家ミヒャエル・ハンペによる、本当のオペラを知りたいと思う者たちへ向けた講義である。

オペラが持つ重要な要素の数々について、過去の名作品や、
オペラに関わる人物の言葉等をふんだんに引用して歌うように語り、「オペラとは何か?」という問いの答えに迫る。

すべてのオペラ愛好家、制作に関わる人々、そしてオペラ嫌いや、オペラを知らない人にも読んで欲しい。
読めばオペラの見かたが変わる、画期的なオペラの手引き書。

著者:Michel Hampe(ミヒャエル ハンペ) オペラ演出家・舞台美術家、ケルン音楽大学教授。

というわけだが、表題の中に「学校」とあるように、先生(オペラの専門家)が生徒たちに教えるような調子で全編が貫かれている。

何といっても本書で一番印象に残ったのが「モーツァルト礼讃(らいさん)」に終始していることだった。

たとえば68頁。

「多くがモーツァルトからの剽窃(ひょうせつ)だ」と、オペラ “ばらの騎士” を観たある人が作曲家のリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)に言いました。シュトラウスは平然と、“そうですよ、もっと良い人がいますか?”と答えました。

事実、モーツァルトは最高のオペラの師匠です。すべてを彼から学ぶことができます。彼に関しては“ごまかし”は利きません。オーディションでは歌手の長所も短所も数小節で分かってしまいます。」

といった調子。

次に、彼のオペラが持つ社会性に注目せよとの指示が72頁に出てくる。

たとえば、モーツァルトのオペラに必ずといっていいほど登場する下層階級の人物。いつも下積みのタダ働き同然なので高貴な人々に対して常に反感を抱いているが、その下層階級と上層階級との間でもたらされる何がしかの緊張感が彼のオペラの中で劇的な効果を生じている、とのこと。

そういえば「魔笛」にも、しがない“鳥刺し”のパパゲーノが貴族階級を皮肉る台詞が沢山出てくるが、このオペラは単に美しいメロディに満ちているばかりと思っていたが、こういう鋭い社会風刺の側面にも配意すべきだと改めて気付かされた。

ただし、モーツァルトの下層階級に対する眼差しは実に暖かい。パパゲーノや黒人奴隷のモノスタトスのアリアなどは滑稽さだけではなくて、ほのぼのとした温かさ、優しさが漂っているのが不思議~。

これは本書には載っていないがモーツァルトが当時の階級制度に対して常に不満を持っていたことはこれまでの彼の言動から明らかである。

貴族や権力が大嫌いで、芸術家としての自分の才能に対するプライドがあり、大司教や貴族といった権威に対する反発心が人一倍強かった。


たとえば傑作オペラ「フィガロの結婚」に次のような一節がある。

「単に貴族に生まれたというだけで“初夜権”(召使が結婚した花嫁の初夜を領主が奪う権利)を振り回す伯爵に対して、フィガロは「あなたは、それだけの名誉を手に入れるために、そもそも何をされた?この世に領主の息子として生まれてきた、ただそれだけじゃないか!!」

と辛辣なセリフを投げかける。このオペラが当時、上演禁止になった所以である。

当時は現代からすると信じられないほどの階級社会だったことを彼のオペラを鑑賞するうえで忘れてはならない・・。

最後にもう一つ。「音が多すぎる・・・・」(94頁)。

「音が多過ぎる、モーツァルト君、音が多過ぎますよ」と、皇帝ヨーゼフ二世は≪後宮からの誘拐≫の初演後にモーツァルトに言った。

それに対してモーツァルトは「丁度それだけ必要なのです、閣下」と答えた。

皇帝の言わんとするところは「モーツァルト君、君のやり方はよろしくないですね。君は表現すべき多くの要素を音楽(オーケストラ)に委ねています。性格、状態、気分、表現の微妙な差異、それから無意識のことまでも、それらの要素は本来舞台上のオペラ歌手の役割です」だった。

これはオペラの本質にかかわる事柄でもある。そもそもオペラとは「音楽によって表わされる物語」だが、どんなオペラでも次のような問題点を孕んでいる。

すなわち「大切なのは話の内容か、音楽か?オペラ歌手とオーケストラのどちらが重要か?それらは補完しあうのか?どちらに優先権があり、片方が完全に黙り込んでしまうのか?」というもの。

この相互関係は作曲家によって、オペラによって、そして場面によってさまざまだし、常にその真意が汲み取られなければならない。

音符をまるで言葉や文字のように自由自在に操ったモーツァルトのことだから、「オペラは音楽が主導すべきです」と、舞台表現においても音楽重視となったことは容易に想像がつきますね。

というわけで、本書はこれから「もっとオペラに親しんでみようかな」という方々にとっては、ご一読されてもけっして時間の無駄にはならないと思います~。

とはいえ、もし読む時間があったとするなら世界最高峰のオペラ「魔笛」に耳を傾けられることの方をお薦めします。

「You Tube」に仰山ありまっせえ・・、これほどの名曲ともなると演奏なんて よりどりみどり ~(笑)。



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名盤「サキソフォン コロッサス」の呪縛

2024年04月11日 | 音楽談義

昨日(10日)の記事「口径38cmのユニットを使わない理由」について、クラシックとジャズの楽しみ方の違いを手前勝手な御託で並べたわけだが、後になって「現実と矛盾したことを書いてしまったかもしれないなあ~」とちょっぴり後悔(笑)。

というのも、いまだにジャズの名盤「サキソフォン コロッサス」の呪縛から解き放たれていないのがその理由~。

その辺のいきさつを縷々述べてみましょうかね・・。

先日、いつも録画している「開運!何でも鑑定団」(骨董品の鑑定をしているテレビ番組)を観ていたら、「今は亡き夫の形見です」と、クラシック・ギターを出品されている中年のご婦人がいた。

運営しているダンス教室の経営の一助として活用できればという趣旨だったが、このギターは鑑定の結果、名品と分かって何と500万円の価値が付けられた。そして通常のギターと、この名品のギターの弾き比べをしていたが明らかに後者の方が響きが澄んでいて
ウットリと聞き惚れた。

それに、何といっても両者の決定的な違いは聴いているうちに、きわめて幼稚な表現になるが 胸が”キュン”となって切なくなる とでも言えばいいのだろうか、そういう感じがしてきた。

実はいつもそうで、(自分にとって)「いい音」を聴くと低音や高音がどうのこうのというよりも、いわく言い難いような ”微妙な感情の揺れ” が必ず訪れてくるのである。

たとえて言えば恋愛感情にも似たような情動性を感じるわけで、オーディオという趣味を飽きもせずずっと続けていられるのも、原点はそこにあるのかもしれない。


ある程度、酸いも甘いも噛み分けた「人生の古狸」になると、ありふれた日常生活の中で実際に 心を揺り動かしてくれる ものは実に貴重な存在なのである。そうだとは思いませんかね・・(笑)。

と、いうわけでちょっと寄り道をしたが、システム改変の仕上げはいつも好きな音楽を収録しているCD盤を聴いて、 胸がキュンと締め付けられるような思い をさせてくれるかどうかが決め手となっている。

自分の経験ではピアノ曲の再生が一番クセ者で、これをウットリと聞き惚れることができればシステムの改変は半ば目的を達成したことになる。

ほかにも、ヴァイオリンが音響空間を漂うような感じで艶ややかに鳴ってくれれば万全だし、ボーカルでは郷愁を感じさせてくれるように切なく歌ってくれればもう峠を半分以上越したようなもの。いずれも判定者は自分固有の「耳=脳」である。

そして・・、いよいよ最後の関門となるのがジャズの「サキソフォン コロッサス」(以下「サキコロ」)。

             

もう、はるか昔から我が家のテスト盤として君臨しているのがこの盤。録音の違う盤をいくつか持っているが特別録音の「XRCD」盤がいちばん出番が多い。

で、1曲目の「セント・トーマス」の冒頭のシンバルの響きがきれいに抜けているかどうか、やせ細っていないか、そしてサックスとドラムが力強く鳴ってくれるかどうかがハイライト。そして5曲目の「ブルーセブン」のベースの重量感・・・。

もちろんクラシック用のシステムだから「十全」は望みようがないが、どの辺まで到達しているか・・、大いに参考になる。

実はこれまで「サキコロ」の再生には散々苦しめられてきた。何せ録音の感度が非常に低い。たとえばプリアンプのボリュームが通常のCDであれば9時の位置であれば十分なのに、このサキコロに限っては12時程度に上げてやらないと十分な音量にならない。こういう録音は手持ちのCDの中でも2~3枚程度。

したがって「サキコロ」の再生に照準を合わせると、他の曲目とのバランスがいろいろと取れにくくなることもずいぶん経験してきた。

自分が日常聴いているのは圧倒的にクラシックなので、何も「サキコロ」に振り回されなくてもあっさり諦めれば八方うまく納まりがつくわけだが、このジャズの名盤中の名盤は簡単にそれを許してくれそうもない。

クラシックなどからは味わえない「リズム感とノリ」が ”もの凄い” のである。この躍動感だけはまったく別格の存在。

そろそろ「サキソフォン・コロッサスの呪縛(じゅばく)」から解き放されたいのは山々なのだが、もう無理かもねえ・・・(笑)。

最後に、ずっと昔のブログで愛聴盤としてこの「サキコロ」を紹介したことがあるので再度紹介させてもらおう。(抜粋)


題  名

「サキソフォン・コロッサス」(コロッサスには巨像、巨人という意味がある)(収録:1956年)

演奏者

テナーサックス   ソニー・ロリンズ
ピアノ       トミー・フラナガン
ベース       ダグ・ワトキンス
ドラム       マックス・ローチ
 

今更申し上げるまでもなくジャズ史に燦然と輝く名盤である。ジャズという音楽は体質的に受け付けないけれども、この盤だけは別格。まるっきり素人の自分でさえ即興性の楽しさと体が自然に反応するリズムの「乗り」が感じ取れる。

また、オーディオ試聴用としても貴重な盤になっている。システムの一部を入れ換えたときには必ずテスト用として聴くのがこの盤である。

1のセント・トーマスの冒頭のシンバルの一撃(開始後37秒)はツィーター(高域専用のユニット)のレベル測定には欠かせない。極論すればシンバルの音をきれいに聴くためにJBLの075ツウィーターを外せないといっても過言ではない。

5曲のうちで好きなのは1の「セント・トーマス」と5の「ブルーセヴン」。複雑な処理をしたこのXRCD盤の録音の良さには十分満足しているが、何せ録音の感度が低いのが難点。

内容の解説については自分のような門外漢の拙い解説よりも、この盤の制作に携わった当事者と関係者の貴重なコメントが的確に表現していると思うのでかいつまんで紹介しておこう。

≪当事者≫

トミー・フラナガン(ピアノ)
あっという間にレコーディングが終了した。リハーサルもなし。簡単な打ち合わせをしただけでテープが回された。録り直しもなかった。やっているときからこのレコーディングは素晴らしいものになると確信していた。 

マックス・ローチ(ドラム)
ソニーは何も注文を出さなかった。妙な小細工を一切せずにそのときの気持ちを素直に表現しただけだ。豪快で大胆、ソニーの持ち味がこれほど理想的な形で聴ける作品はほかにない。


≪関係者≫

トム・スコット(テナー・サックス)

セント・トーマスのリズミックなフレーズこそ彼ならではのものだ。普通のスウィング感とは違う。それでいて、ありきたりのダンサブルでもない。ジャズ特有の乗りの中で、独特のビートを感じさせる。これぞ典型的なロリンズ節だ。 

ブランフォード・マルサリス(テナー・サックス)

ロリンズのアルバムの中で一番好きなのがサキソフォン・コロッサス。ここではいつにもまして構成なんかまったく考えていない。出たとこ勝負みたいなところがある。それで終わってみれば、構成力に富んだ内容になっている。これってすごい。うらやましい才能だ。この盤は不思議な作用があって、何かに悩んだときに聴くと、必ず解決策が浮かんでくる。お守りのような作品だ。全てのテナー奏者が聴くべき作品だし教科書でもある。

というわけです。

「サキコロ」はクラシックやジャズの範疇を超えた作品といっていいかもしれませんね。

しめた・・、この言葉を「免罪符」とさせてもらおうかな~(笑)。



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「意味がなければスィングはない」を読んで

2024年04月08日 | 音楽談義

ベストセラー作家「村上春樹」さんはこのブログにもたびたび登場してもらっているが、文学以外の余技としての 音楽評論 についてもその表現の巧みさで右に出る人はいないのではあるまいか。

スコットランド在住の 粋人「ウマさん」 も、とても感心されて、先だって次のようなメールをいただいた。

「ハイレベルでのクラシックとジャズの二刀流の使い手は村上氏だけかもしれない」…僕もまったくその通りだと思う。

東京時代、彼が経営していたジャズ喫茶 (ピーターキャット) にはよく通っていたし、彼とは言葉も交わしていた。もちろん、村上氏の経営だとは、かなり後年に知った。彼とジャズの関係は多くの人の知るところだけど、ひょっとしたらクラシックとの関係の方がもっと凄いかも?と、実のところ僕は思っている。なぜか?…

ジャズは、歌にしても楽器にしても、演奏者の個性が嫌っちゅうほどわかる。同じ曲でも、テーマからインプロビゼーションまで、演奏者によってまったく違う。
しかし、クラシックの場合、ごく普通のファンが、ヌヴーとオイストラフの違いをどれほどわかるだろうか?あるいはゼルキンとルーヴィンシュタインの違い…

村上氏は、それらの違いを鮮明に表現することに (抜きん出て) 長けておられる。これは、そこらのクラシック評論家でも敵わないのではと思わせるなあ。

彼のクラシック評論はかなり読んだけど、よくここまで表現出来るもんだなあと感嘆し、演奏者による違いをこれだけ的確に表現出来る人は、ほかにどれほどいるだろうとも思う。つまりジャズよりクラシックの方が凄いってことなんです。

というわけです!

その村上氏が、音楽について書いた著作の一つが「意味がなければスイングはない」(文芸春秋社)。
                       

タイトルの「意味がなければスイングはない」は、デューク・エリントンの名曲「スイングがなければ意味はない」のもじりだそうで、このフレーズはジャズの真髄を表わす名文句として巷間に流布しているとのこと。

「スイング」とは、どんな音楽にも通じる うねり 
のようなもので、クラシック、ジャズ、ロックなどを問わず、優れた本物の音楽として成り立たせている「何か」のことであり、その 何か を自分なりの言葉を使って追いつめてみた結果が本書になった。

読んでみて、この本は実に分りやすかった。作家が書いた音楽評論はどうしてこんなに共感できるんだろう・・。

たとえば五味康祐氏の「西方の音」を嚆矢(こうし)として、小林秀雄氏「モーツァルト」、石田依良氏「アイ・ラブ・モーツァルト」、百田尚樹氏「至高の音楽」そして、この本・・。

まず共通して感じることは、

1 語彙が豊富で表現力が的確

2 ストーリー並みの展開力がある

3 音楽体験の出発点と感じ方、語り口に 素人 と同じ匂いを感じる

といったところだろうか。

しかも内容がジャズばかりと思ったら、10の項目のうちクラシックの評論が3項目あった。

Ⅰ シューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」 ソフトな今日の混沌性

Ⅱ 「ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト」

Ⅲ 「日曜日の朝のフランシス・プーランク」

まず、Ⅰでは世評において目立たず、芳しくないシューベルトのピアノ・ソナタ群のうちでも最も地味なこのソナタがなぜか大好きとのことで、結局15名のピアニストのレコード盤、CD盤を収集したこと、そのうち、ユージン・イストミンというこれまたたいへんマイナーな名前のピアニストがお好きとのこと。

Ⅲの近代作曲家プーランクもお気に入りだそうだが、これもまたやはりマイナーと言わざるを得ない作曲家。

全体を通読して感じたことだが、村上氏はどうも既存の権威とか概念を否定しあるいは しばられない 傾向がことさら強く、一方で目立たず、まったく評価されない、あるいは過小評価されている作曲家、演奏家、曲目に陽を当てるのが随分とお好み・・、いわば反骨精神というのかな。

その流れで、著者独自のクラシック論が以下のとおり展開されている。(76頁~77頁)

「クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは、場合によっては世間の評価とは合致しないかもしれない。

でもそのような 
自分だけの引き出し 
を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。

シューベルトのニ長調ソナタは、その一例として、僕の大事な「個人的引き出し」になっており、おかげで超一流ではないイストミンのようなピアニストたちが紡ぎだす優れた音楽世界にめぐり会えることができた。それはほかの誰の体験でもない、僕の個人的体験
なのだ。

僕らは結局のところ 血肉ある個人的記憶を燃料として世界を生きている   
のだ。」

ブログ主は馬齢を重ねて50年以上「音楽とオーディオ」に親しんできたものの、いまだ 山の頂 を仰ぎ見るような世界だと実感しているが、徒に権威に振り回されず主体性を持つという面で十分考えさせられる話だと思った。

最後にⅡでピアニスト、ルービンシュタインの自伝からの逸話が記載されていたので紹介しよう。ルービンシュタインといえばコルトー、リパッティと並ぶショパンの弾き手として一世を風靡した往年の大ピアニストである。

結局、この逸話も、著者流のナチュラルの流れに位置し、赤裸々な人間像に共鳴したエピソードなのだろう。

ルービンシュタインが「ガイド」に勧められるままに、スペインで訪れたとある高級娼家での話である。

「ドライすぎるシェリーと、夏の暑さと、もわっとした空気と、言葉がうまく通じないせいで私の性欲はどうしても盛り上がらなかった。

しかし、私の生来の虚栄心は、こんなに若いのにインポテントだと女たちに思われる(かもしれない)ことに耐えられなかった。

彼女たちを感心させるには、ここはひとつ音楽を持ち出すしかない。私はそこにあったピアノの蓋を開け、即席のコンサートを開いた。

スペインの音楽、「カルメン」の中の曲、ウィンナ・ワルツ、なんでもかんでも手あたり次第にばりばり弾きまくった。それは目ざましい成功を収めた。黙示録的な大勝利と呼んでもいいような気がするくらいだ。

女たちはいたく興奮し、群がって私を抱きしめ、熱烈にキスの雨を降らせた。宿の主人は、私の飲み代はただにする、好きな女と寝てよろしいといった。私はその申し出をもちろん丁重にお断りした。

しかし、ピアノにサインをしてくれという申し出は断れなかった。

私はいくらかの自負とともに、そこにサインを残した。心愉しい夏の午後の証人として、
まだ同じ場所にそのピアノが置いてあればいいのだが」(同書149頁)。

このサイン入りピアノの実在を是非確認したいものだが、 場所が場所だけに 未来永劫にわたって何方(どなた)かの「拝見した」というメッセージはとても期待できそうにないですね~(笑)。


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音楽の「刷り込み現象」とは

2024年04月03日 | 音楽談義

クラシックはつまるところ「ベートーヴェン」「モーツァルト」「バッハ」に尽きることは、いろいろと異論はあるにしても、もはや定説といって差し支えないだろう。

個人的には、この3人のうちベートーヴェンは歳を取るにつれ何がしかの「押しつけがましさ」を感じ始めてこのところやや敬遠気味になっている。

(ただし第6番の「田園」、「ピアノソナタ30~32番」、「大公トリオ」、「弦楽四重奏曲第14番作品131」は別~。)

そして残るは「モーツァルト」と「バッハ」だが、後者にはどうしても 線香臭さ が鼻について、いまだに馴染めないのが実状だ。

とうとう悔し紛れに「音楽鑑賞上、モーツァルト好きとバッハ好きは両立しない」と、独断的な投稿をしたことがある。

当時のことを回想してみると、


日頃、このブログで大きな割合を占めているのはオーディオ関連記事だが、「いくら いい音 だと言ってもそりゃあ、あんたが勝手に思うだけだろ~」というわけで、全然といっていいほど読者から反応が無い・・、それがことクラシックの話となると個人ごとに拘りというか「譲れぬ一線」というのがあるようで、ある方から次のようなメールをいただいた。

「こんばんは、ブログ 拝読しました。 実を言いますと、私も バッハを聴き始めた頃(中学生になったばかりでした…)は  "線香臭さ" が鼻について あまり好きではありませんでした。一緒ですね(笑)。

それでも 当時、私が持っているレコードが少なかったので、毎日 BGM的に聴いていました。それが良かったのでしょうか、だんだん 好きなフレーズも出来て(ブランデンブルクで言えば 第5番の第1楽章 や 第4番の第3楽章 など)、抵抗感も薄れて行きました。

それに、バッハを聴き始めたのがモーツァルトよりも早かったのも 良かったのかも知れませんね。モーツァルトの音楽は 何の抵抗感もなく、私の中に入って来ましたから…。(笑)

私がバッハに ハマったのは イギリスのロックグループ、プロコル・ハルム の「青い影」という曲を聴いて あの美しいメロディーが 「どうもバッハっぽいな…」と思い、"原曲"を探そうと バッハの曲を聴きまくっていた事が 多分 キッカケなのでしょう。
気がついたら バッハが好きになっていました。何が 幸いするか分かりませんね(笑)」

この率直なご意見の中で興味深いと思ったポイントが3点ほどある。

 頭が柔らかい時期(中学生)に、BGM的にバッハを聴き耽ったこと

 バッハを聴き始めたのがモーツァルトよりも早かったこと

 プロコル・ハルムの「青い影」の原曲を探そうとバッハの曲を聴きまくったこと

実はブログ主も「青い影」が大好きで、学生時代ひたすら聴き耽っていました! 

ただし、そこに留まったままでバッハの原曲を探そうとしなかったことが今となってはメール送信者と(バッハへの親しみ度の面で)大きな距離が開いてしまいましたね~(笑)。


ご存知の方も多いと思うが、動物学者「ローレンツ」が唱えた学説の中に「刷り込み現象」という言葉が出てくる。

生まれたばかりの動物、特に鳥類で多くみられる一種の学習現象で、たとえば目の前を動く物体を親として覚え込み、以後それに追従して、一生愛着を示す現象。」だ。

平たく言えば「最初が肝心」・・。

したがって音楽に最初に接するときは、出来るだけ名作曲家、名演奏を選びましょうね~。

で、オーディオは・・? 音の「良し悪し」なんて最初はどうでもよろし(笑)。



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「我が家の子守歌」について~続編~

2024年03月27日 | 音楽談義

前々回のブログ「我が家の子守歌」について・・、音楽好きならどなたでも「子守歌のような存在の曲目があるはずですからご教示ください」との呼びかけに対して、ありがたいことにお二人さんから反応がありました。

まずはずっと以前にメールをいただいたことがある「Y」さんからご紹介させていただきますが、匿名ということで無断掲載お許し願いますね。(以下「原文」のまま)

「子守歌…………」の記事を拝読させていただき、私の「子守歌」を……と(笑)

オーディオが枕元にあるため 寝る前に音楽を聴く事が多く、まさに「子守歌」です(笑)

良く聴くのは

バッハ 無伴奏ヴァイオリンから、シャコンヌ

パッヘルベル カノンとジーク

モーツァルト ハフナーセレナード 第3~6楽章

ドヴォルザーク 新世界交響曲 第2楽章

グリーク ピアノ協奏曲第2楽章

イギリス民謡集 フォスター 歌曲集 などなど……。

音楽を聴いてから寝ると翌朝、気持ち良く目が覚める気がします。(笑)

ブログ主から以下のとおり。

モーツァルトの「ハフナー セレナーデ」は大好きです。改めて「YouTube」で検索して聴いてみましたが「マリナー指揮」が気に入りました。

第二楽章は絶品だと思います。K250ですからおそらく20歳代の作品でしょうが、モーツァルトに限っては作品の熟成度は年齢にお構いなしですからほんとうの意味での「天才」だという思いを強くしました。

彼の音楽を聴くと、いつも触発され心が洗われる思いがしますので「子守歌」以上の存在といっても過言ではありません・・、もはや生きる術(すべ)ですかね(笑)。

次は、南スコットランド在住の「ウマさん」からお便りをいただきました。

「エンヤは僕も大好きです。
かなり昔のことですが、初めて聴いた時、不思議な音楽だなあと感じ、ほかに比べるものがないとも思いました。
この思いは、今も変わってません。

実は、ダブリンにいる古い友人・ジーンが、エンヤの親しい友人だそうです。「ダブリンに来たら、会わせてあげるよ」と言ってくれてます。

大阪に長らく住んだジーンを知って45年になりますが、彼女は、現在、劇作家、脚本家、作家として、何度も賞を取り、アイルランドではかなり知られる存在です。彼女の脚本・監督の映画に、長女のくれあが出演したこともありました。ジーンは、今も大阪弁がぺらぺらです。

ジーンは、ダブリン南部の海岸沿いにリゾートハウスを所有してますが、そこにエンヤが遊びに来たことがあるとも言ってました。
いずれ、ジーンを訪問したいと願ってますが、もし、エンヤ嬢と会えたら嬉しいですね。

その音楽から、エンヤは物静かな方だと想像してましたが、ジーンが言うには、かなりのおしゃべりだそうですよ。

「田園」ワルター、「モーツァルト・ピアノソナタ」グールド…同感です。」

ブログ主

今朝がた、夢を見ました・・。何と「エンヤ」と一緒にオーディオルームで彼女の歌を聴いているんです! 

「私のサウンドづくりにピッタリ合うオーディオシステムだわ~」と感心してもらったところでパチリと目が覚めました。もっと続けば良かったのに~(笑)。

ウマさんのおかげで「いい夢」を観させてもらいましたよ~!



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我が家の「子守歌」と「お経」

2024年03月25日 | 音楽談義

「おもしろうて やがて悲しき 鵜船かな」

「俳聖」芭蕉・・、元禄一年(一六八八)45歳のときの作として知られ「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて」との前詞がある。

<句意>

鵜船が目の前で、華やかな篝(かがり)火を焚きつつ活発な鵜飼を繰り広げる時、面白さはその極みに達するが、やがて川下遠く闇の彼方へ消え去るにつれて、なんとも言い知れぬ空虚な物悲しさだけが心に残る。

胸をワクワクさせた「華やかさ」の後にくる一抹の寂しさ・・、「詩情」にあふれていますね。350年ほど前の作品なのに現代人の心情と少しも変わっていないことに気付かされます。

50年以上に亘って「音楽&オーディオ」に熱中した我が人生も、振り返ってみると「おもしろうて やがて悲しき・・」ですかね(笑)。

さて、久しぶりに音楽の話。

音楽にはいろんなジャンルがあって曲目も数限りないが、どんなに好きな曲目でも何回も聴いていると飽きがくるというのは誰しも経験されることではあるまいか。

歌謡曲とかポピュラーなんかは1曲あたりせいぜい4~5分程度なので仕方のない面もあるが、クラシックだって例外ではない。

たとえばシンフォニーの場合、第一楽章から第四楽章まで起承転結にならって、およそ40分ほどにわたって展開されるものが多いが、そういう中身の濃い曲でも何回も聴いているとほとんどの曲が飽いてくる。

他人に自分の考えを押し付ける積もりは毛頭無いが少なくとも自分はそう。

そういう中で、こればかりは”いつ”、”いかなるとき”に聴いてもホッとして心地よい曲というのがある。

そう、まるで「子守唄」のような存在。

人によって様々だろうが我が家の場合は今のところ3つに絞り込んでみよう。

それはベートーヴェンの「田園」、モーツァルトの「ピアノソナタ全集」、そしてエンヤの「アルバム」。

前二者は「長い時間の経過」という天然のフィルターがたしかな役割を果たしてくれている好例である。                         

「自然の美しさ、優しさ、厳しさ、そして感謝」を高らかに賛美した「田園」はずっと昔のブログでいろんな指揮者の聴き比べ特集を投稿したことがある。

因みにそのときの指揮者を挙げてみると次のとおり。

フルトヴェングラー、クレンペラー、ワルター、ブロムシュテット、イッセルシュテット、ハイティンク、マリナー、ケーゲル、ジュリーニ、ジンマンの10名。カラヤン盤がないのはご愛嬌。後にチェリビダッケ盤も追加。

当時はマリナー盤を自分にとってのベストとして挙げておいたのだが、今ではまず聴かない。自然とワルター盤に還ってしまった。

演奏の良し悪しは別として、もうアタマの中に刷り込み現象のようになっていて、これはもうワルターでないとダメ~(笑)。

次に、モーツァルトのピアノ・ソナタ。これもいろんな奏者がいる。

手元にあるだけでも、アラウ、ピリス、内田光子、ギーゼキング、シフ、グールドといったところだが時によってアラウが良かったり、ピリスだったりするがいつも自然とグールド盤に還っていく。

これはモーツァルトのソナタというよりもグールドのソナタと言ったほうがいいくらいで独自の解釈で自由奔放に弾きまくっていて、一風変わった奇妙な魅力が心を捉えて離さない。

コンコンとまるで汲めども尽きせぬ泉が湧き出てくるような演奏だが、自分にとってはこれはもう「子守唄」を通り越して「お経」みたいな存在といっていい。縁起でもないが通夜のときには魔笛と並んでこれをしめやかに流してもらおうと思っている。

ただしグールド自身の書簡集などを見ると、決してモーツァルトという作曲家を評価しておらず、シェーンベルクやバッハなどに思いを馳せていて、この「ピアノ・ソナタ集」録音への言及は一切ない。

しかし、CD盤の帯封に「世界中のグールド・ファンの愛聴盤」とあるように作品自体が一人歩きしている感がある。

これは演奏家の思惑と人気が必ずしも一致しない実例の一つだろう。

そして最後に「エンヤ」(アイルランド)・・。



前から好きなアーチストだったが、「You Tube」でリモコンのスイッチ一つで簡単に聴けるようになってからは、まず聴かない日はないほど・・。

とにかくあらゆる曲目が豊かなサウンドとともに自然と心に沁み込んでくるし、ついなにがしかの郷愁を覚えさせてくれます。

以上の三つが我が家では「子守歌」と「お経」になっています。

あなたのお宅ではいかがですか・・、よろしかったらご教示ください(笑)。

最後に、久しぶりに「チャットGPT」の登場です。「子守歌」と「お経」の違いを訊いてみました。

子守歌(こもりうた)とお経の違いは、それぞれの目的や内容にあります。

1 子守歌(こもりうた):

子守歌は、子供を寝かしつけるために歌われる歌のことです。通常は、穏やかなメロディと簡単な歌詞で構成されています。親や介護者が子供を寝かしつける際に歌うことが一般的で、子供に安らぎや眠りをもたらす役割を果たします。子守歌は、地域や文化によって異なる歌詞やメロディが存在しますが、その共通点は子供の安らぎを与えることにあります。

2 お経(おきょう):

お経は、仏教の経典や教えを述べた文や歌のことを指します。お経は、仏教の修行や宗教的な儀式で使用されることが一般的です。仏教におけるお経には、般若心経や観音経などさまざまな種類があります。お経は、信仰心を深め、悟りを開くための教えを伝えることを目的としています。そのため、お経は宗教的な文書であり、特定の信仰や宗派に属する人々によって読誦されます。

要するに、子守歌は子供の眠りを助けるための歌であり、お経は仏教の経典や教えを述べた文や歌です。それぞれが異なる目的と文脈で使用されます。

もうどちらでもよろし、精神安定剤の役割さえ果たしてくれれば~(笑)。



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クラシック名曲 全史

2024年03月21日 | 音楽談義

「クラシック名曲全史」に目を通していたら、興味深いことが書かれてあったので後日のために箇条書きしておこう。



「1783年のモーツァルトの音楽会のプログラム」

いわば240年ほど前の「音楽会」の演目なので極めて珍しい。

モーツァルトは1789年に35歳で亡くなったので、換算すると29歳のときの演奏会になる。

ウィーンで開かれた演奏会のプログラムの内容はこうだ。

 序曲「ハフナー」交響曲

 オペラ「イドメネオ」よりアリア(ソプラノ)

 ピアノ協奏曲K415(モーツァルト演奏)

 オペラのシェーナK369(テノール独唱)

 「ポストホルン」セレナードの協奏曲楽章

 ピアノ協奏曲K175(モーツァルト演奏)

 

 オペラ「ルーチォ・シッラ」よりアリア(ソプラノ)

 モーツァルトのピアノ独奏

 オペラのシェーナK416(ソプラノ独唱)

10 終曲(序曲の終楽章)

解説によると、当時の音楽会の目玉演目はいつも声楽であり、注目されるのも声楽家たちだった。

1番と10番はオーケストラだけの演奏で、まだ電気も発明されておらず普及していない時代なので1曲目の序曲は開幕のベル代わりであり、最後の10曲目にあたる終曲は終了の合図だった。

つまり交響曲はベル代わりで「前座」のようなものでありコンサートの華は歌曲だった。

以上のとおりだが、おそらく当時の楽器の性能がイマイチだったので歌曲が隆盛を極めた可能性があると勝手に睨んでいる。

ところで、この「音楽会」がはたして宮廷の「王侯貴族向け」なのか、それとも「一般市民向け」なのか、定かではないが、29歳といえば、あれほどもてはやされていた時期とは様変わりしてきて大衆から「彼の音楽は難しくなってきた」と敬遠されだしたころにあたる。

網羅されている曲目も親しみやすさという点では一筋縄ではいかないものばかり~。


ちなみに、ピアノの名手とされていたモーツァルトの演奏ばかりはとうてい適わぬ夢だがぜひ聴いてみたかったなあ(笑)。

 世界でよく演奏される作曲家ランキング

2018年 1位「ベートーヴェン」、2位「モーツァルト」、3位「バッハ」

2017年 「モーツァルト」、「べートーヴェン」、「バッハ」

2016年 「ベートーヴェン」、「モーツァルト」、「バッハ」

結局、これまで言い尽くされているようにクラシックはとどのつまり「ベートーヴェン」「モーツァルト」「バッハ」に尽きるようですね。

✰ 節度があるモーツァルトの音楽

モーツァルトは父親宛ての手紙にこう書いている。

「情緒というものはそれが烈しかろうとそうでなかろうと、けっして嫌悪を催させるほどまで表現すべきではないし、それに音楽はどんなに恐ろしい有様を描くにしても耳を損なうようであってはならず、そうじゃなくて満足を与え、したがっていつも音楽にとどまっていなければなりません。」

著者曰く、「モーツァルトの音楽の本質がここにある気がしてなりません。モーツァルトの音楽には節度があるのです。

モーツァルトは時代ごとに変わった見方をされてきていますが、それはつまりいずれの時代も自分たちが求めるものをモーツァルトの中に発見しているということです。彼の音楽は相手がどんな角度から求めてきたとしても相手を満足させることができるのです。」

200年以上もの歳月をかけて沢山の人々から厳しい 篩(ふるい) を掛けられながら生き残る音楽とはそういうものなんでしょうね~。



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