「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「神の領域」に到達した演奏

2024年01月26日 | 音楽談義

比較的出入りの激しい我が家のオーディオだが、このところ(ブログで)「鳴り」を潜めているのにお気付きだろうか・・。

そう・・、幸か不幸かようやく「安定化」しつつあるようでして~(笑)。



ふっ、ふっ、ふっ・・、いろいろと紆余曲折があったがとうとう辿り着いたのがこのシステム。

オーディオでいちばん苦労するのは「低音域」だと個人的に思っている。やはりオーケストラのスケール感を少しでも味わいたいと思えば、ここに傾注せざるを得ない。

もちろん「スケール感なんてどうでもいい、かえって邪魔だ」という方がいてもちっとも不思議ではないし、そういう方々には縁のない話になる。

で、ウェストミンスター(改)の「200ヘルツ以下」をムンドルフのコイルで押し込めてやって、オルガンの「地を這ってくるような重低音」を味わうともう病み付きになりますなあ~(笑)。

で、中音域を担当するスコーカーは「200~6000ヘルツ」仕様になっている、6000ヘルツ以上は我が家の最強のツィーター「075」(JBL)の出番。

これらを、2台のプリアンプと3台のパワーアンプで駆動する。

このシステムを聴くとクラシック、ジャズ、ボーカル・・まったく不得手が無く、「これまでで最高の音かもねえ・・」、「95点はいけるんじゃないかなあ・・」と、自惚れてしまうほどだが、読者の信用を得るためにはやはり第三者の証言が必要だよねえ~(笑)。

そこで、近隣のオーディオ仲間「Y」さんの出番になるのだが、当方は「毎日が日曜日」だけれども、土、日となるとクルマの運転にやや不安がある家人のエスコートをしなければならない(笑)、その一方「Y」さんは平日は仕事なのでなかなか日程の折り合いがつかない。

ようやく、平日にもかかわらず昨日(25日)の午後に来ていただいた。

開口一番「いいですねえ・・、3ウェイですけどフルレンジが鳴っているみたいです」と、まずは引き込みに成功した。この後ボロを出さなきゃいいんだけどね(笑)。

いろんな曲目を聴くうちに、「モーツァルトのピアノ協奏曲26番を聴かせていただけませんか」。

実は、これまでの傾向から(Yさんの)お気に入りの音が出ているときは「〇〇を聴かせてください」、その一方、音が気に入らないときは(口直しに)「AXIOM80を聴かせてください」と、くるのでたいへん分かりやすい方である(笑)。

で、「ああ、戴冠式ですね・・、あいにく持ってないんですよ~、あっ、そうだYou Tubeで検索してみましょう」

やはり「You・・」は便利がいい、「26番」を打ち込むとズラリと演奏者一覧が登場した。

「あれっ、カザドシュ盤がありますね。これを聴いてみましょうかね。」

ところがいかにも録音が古くて音が冴えない。そこで隣の「内田光子」さんをクリックして聴いてもらった。

そのうち、Yさんが「カザドシュという名前を知っている方は始めてです。ずっと昔のことベートーヴェンの5番(皇帝)を聴いてこんな偉大なピアニストがいるのかと感激したことを思い出しましたよ」

「そうですか・・、カザドシュは私も大好きなピアニストです。たしかフランス人でしたよね。彼にはモーツァルトのピアノ協奏曲22番のたいへんな名演がありますよ、ぜひ聴いてもらいましょう~」



指揮者「ジョージ・セル」、ピアニスト「ロベルト・カザドシュ」のコンビからたいへんな名演が生まれた。

なんといっても22番の聴きどころは「第三楽章」にあるが、開始から4分後にまるでこの世のものとは思えないほどの「美しい旋律」が出てくる。

もう感激のあまり涙が出てくるほどで哀調の極みというのか・・、グサッと琴線に触れてくるのがつらくてうれしくもある。

ところがである・・、いくら他の演奏を聴いてみてもこの幽玄の境地には程遠いのである。

さらっと流し過ぎたり、やたらに遅いテンポでお涙頂戴みたいな下心が見え透いたりと、どうも気に入らない。

やはり「セル+カザドシュ」コンビじゃないと無理なんだよね・・、もはや「神の領域に到達した演奏」というべきか。

日頃になく満足されたYさんが辞去された後で、改めて確認の意味でサワリの部分を片端から聴いてみた。

そのうち、まあ「及ばずといえども遠からず」というのが二人いた。上から目線の表現で恐縮だが、音楽の好みばかりは王様になった気分でやってみても不遜ではないよね(笑)。

それはリヒテル、そしてニコラーエワ女史。



指揮者「カール・シューリヒト」、ピアニスト「タチワナ・ニコラーエワ」女史、そして「ウィーンフィルハーモニー」。

女史には「フーガの技法」(バッハ)という、これまた神演がありますね、さすがにモーツァルトも立派な演奏だと思いました。

さいごに、「You Tube」でカザドシュの演奏が聴けます。まだ聴いたことがない方はぜひ聴いてみてください~。

ただし、これを聴いて熱くならない方は生涯モーツァルトと縁のない方でしょうね、残念です・・(笑)。



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「ピアノ協奏曲」の存在価値について

2024年01月24日 | 音楽談義

1年の内で最も寒いといわれている大寒(20日)。

ところが、このところずっと最低気温5℃以上が続いて、「今年の冬は楽勝だな・・」と、思っていたら自然はやっぱり甘くなかった。

23日(火)から一気に冷え込んで、今朝(24日)のオーディオ・ルーム(午前4時半現在)の室温はいつもの14℃前後に比べて9℃と急降下・・、震え上がりながらこのブログをしたためている(笑)。

さて、どんな記事を書こうかな・・。

そうそう、昨日のこと「ウォーキング」から帰ってきて、
ふと無類の音楽好きだったかっての仲間(県内)を思い出した。

久しぶりに「どうしてますか~、相変わらず音楽を聴いてますか?」と、ご様子を伺ってみると「やあ、久しぶり~。体調はイマイチだけど音楽を聴いていると、不思議にお腹(なか)がいっぱいになって”うまいものを食べたい”という気にならないんだ。一石二鳥だよ」

この方はバッハからベートーヴェン、モーツァルト、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィッチまで、クラシックなら何でもござれで、まさに音楽が「精神的なご飯」になっている稀有の方である。

しかし、オーディオの方は達観されていて、イギリス製のSPをずっと愛用されており、「いじり出すとキリがない世界。そんな時間があったら音楽を聴いていた方がいい」というのがその理由。

まことに、ごもっともです(笑)。


とはいえ、いくら音楽好きといっても例外もあってそれがショパンの作品。以前から「耳あたりはいいんだけれど、彼の作品はさっぱり後に残らないね~。」とおっしゃる。

「クラシックの森」に奥深く踏み込めば踏み込むほど、作曲家や演奏の好き嫌いが変遷していくのは自分にも心当たりがある。

たとえば若年の頃にあれほど聴きまくった「ピアノ協奏曲」が近年ではまったく聴く気にならないのが不思議。

ショパンはもちろんのこと、ベートーヴェンやブラームスといった大家の作品もけっして例外ではない。


どんなに名曲とされるピアノ協奏曲にもどうも気分が乗らないのである。

おかしいなあ、あれほど好きだったのにね~。一方、ピアノ・ソナタの作品群に対してはまったくそういうことがないのでピアノという楽器が嫌いになったというわけでもないようだ。


これはいったいどうしたことか?

以下、自分なりに分析してみたものの、どうせ素人の「たわ言」に過ぎないので、あまり真に受けないようにね(笑)。


で、平たく言えば協奏曲とは「単独楽器をオーケストラで支える音楽」だと思う。

単独楽器にもいろいろあって、誰もが思いつくのがまずはピアノ、そしてヴァイオリン、クラリネット、オーボエ、フルートといったところ。(これらの楽器にはすべて「〇〇協奏曲」という作品がある。)


この中で、音域的かつ和音的にオーケストラと、ある程度対等に渡り合える楽器はピアノだけである。ちなみに各楽器のおよその周波数範囲(基音+倍音)を記してみよう。

 ピアノ 40~6000ヘルツ

 ヴァイオリン 180~1万ヘルツ以上

 クラリネット 150~1万ヘルツ以上

 オーボエ 300~1万ヘルツ以上

 フルート 300~1万ヘルツ以上

 男性歌手 100~8千ヘルツ

☆ 女性歌手 180~1万ヘルツ

ピアノだけが群を抜いていて40ヘルツ付近の低音域の周波数をきちんと出せることに気付く。

いざとなればオーケストラの代役だってできるんだから~。

ずっと以前のテレビ放映で、当時ヨーロッパで活躍されている指揮者の「大野和士」さんが、たまたま楽団員がストに入ったときにオペラ歌手の練習の急場をピアノで凌がれていたのを観たことがある。

一方、ヴァイオリンなどの楽器はせいぜい200ヘルツ前後から上の周波数しか出せない。その代り、ピアノと比べて高域の伸びには目を見張るものがある。


そういうわけで、これらの楽器群は低音域が絶対的に不足しているのでオーケストラでこの辺りの音域をきちんとカバーしてもらうと全体的にバランスのとれた姿になるので、比較的、協奏曲に向いた楽器といえる。

それに「主」(単独楽器)と「従」(オーケストラ)の役割がはっきりするのも利点。


そういえば、音域のバランスという点ではたとえば「ヴィオリン・ソナタ」(モーツァルト)の場合でも、わざわざ「ソナタ」と銘打っておきながらピアノが伴奏して低音域部分をきちんと支えているし、歌手の伴奏にもピアノが活躍したりするがまったく違和感がない。

しかし、ピアノに限ってはオーケストラのカバー(支え)は要らないほど、単独で音域的に十分な表現力を備えているのに、なぜピアノ協奏曲というジャンルがあるのか、その必然性がどうも「?」。

それに、ピアノ協奏曲というのはオーケストラとピアノのどちらが主役なのかよく分からないところがあって、映画でいえば、どっちつかずの主役が2人いるようなもので、いったいどちらに花を持たせるのか、聴けば聴くほど散漫になって、曲全体がただ華やかだけで表層的に流れていく印象を受ける。

この点ではピアノ・ソナタの方がはるかにピタリとフォーカスが決まって作曲家の思想がきちんと伝わってくる(ような気がする)。

べートーヴェンの後期ソナタやモーツァルトの珠玉のソナタ全集がまさにそう・・、この辺に自分がピアノ協奏曲から遠ざかった理由が見い出せるような気がする。

とまあ、いくら大上段に振りかぶってみたところで、世の中、ピアノ協奏曲の愛好家が”ごまん”といるんだから、さぞや反対意見も多いことだろう。

ともあれ、こうして以上のような小理屈を並べてみたものの、それほど(書いた内容に)責任を持てるわけでもなし、改めて久しぶりに(数あるピアノ協奏曲の中でも)白眉とされるクララ・ハスキルの20番(モーツァルト)でも聴いてみるとしよう~。



いくらつべこべ言ってみてもモーツァルトだけは「別格」だからね~(笑)。



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「ショパン・コンクール優勝者」の値打ちとは

2024年01月17日 | 音楽談義

クラシック音楽において楽器の双璧といえば・・、諸説あろうが「ヴァイオリン」と「ピアノ」に指を屈するのではあるまいか。

で、どちらが好きかと問われたら・・、自分なら即座に「ヴァイオリン」と答える。

耽美的で憂愁っぽくて現実から遊離させてくれるからだが、その一方「ピアノ」となると、何だか意識を覚醒させるようなところがあり、つい音楽に分析的に向き合いがちでどうも興に乗れないところがある・・。

したがって、ピアニストにはヴァイオリニストほどには関心がないが、「ショパン・コンクール」の優勝者となると話が違ってくる。

5年に一度しか開催されないという希少性もあって、ピアニストとしては生涯付いて回る最高の「栄誉」みたいなもので、歴代の優勝者はすべてその後も華々しく活躍しているのをみても頷ける。

で、およそ20年前の「2005年コンクール」で優勝したのが「ラファウ・ブレハッチ」だった。



当時、最年少の20歳、しかもポーランド出身でコンクールの元祖「ショパン」に風貌が似ているとのことでたいへんな話題になったことを憶えている。

で、ずっと以前のことだがブログの記事にもしたことがある。

ところが、その記事が昨日「過去記事ランキング」に突然登場していたんですよねえ・・。

ハハ~ン、どうせ近々日本で「コンサート」でもやるんで、どういう演奏家かとググってみてどうやら吾輩のブログに辿り着いたらしい。

ビンゴ!

ググってみると、来たる2月17日(所沢市民文化センター)でコンサートが開かれる予定とあった。どうやら「ショパン・コンクール優勝者」のお墨付きって時限がないようですね(笑)。

それでは、「ラファウ・ブレハッチとはいったい何者なのか」、過去のブログを要約して送り届けよう。もちろん「独断と偏見」に満ちているので、真に受けるか受けないかはあなたの自由ですから念のため。

「新版クラシックCDの名盤」で、3名の著者たちがそろって絶賛していたピアニスト「ラファウ・ブレハッチ」〔339頁~)。

ショパンと同郷のポーランド出身で2005年開催のショパン・コンクール優勝者である(当時は20歳)。 

しかし、現時点でまだ25歳前後と若くやや経験不足が心配なところだが、かのヨーゼフ・シゲティによると「演奏のテクニックは25歳がピーク。それ以上にうまくなることはない」との談もあり”まあ、いいか”と自分を半分納得させてHMVへ注文。

2週間ほど経過してやっと自宅に到着した。

左から「24の前奏曲集」(ショパン)、「ピアノソナタ」(モーツァルト)、「ピアノ協奏曲1番&2番」
 

                     

 まず「コルトー以来の名演」(中野 雄氏)と称される「24の前奏曲集」を聴いてみた。「ピアノの詩人」ショパンにはいろんな作品群があるが、ショパン通にとって代表作といえばまず「24の前奏曲集」に指を屈するという人が多いのではあるまいか。

自分には演奏の良し悪しやテクニックを云々する資格はないが聴いてみたところ「ええかっこしい」の音楽家でないことが感じられて救われる思いがした。自分をことさらに大きく見せようとはせず、純粋に音楽に溶け込んでいる印象で、録音の良さは申し分なし。

個別では判断の下しようがないので手持ちの「コルトー」と「アシュケナージ」の演奏と比較してみた。 


                          

思わず居住まいを正し、聴けば聴くほど味わい深くなるコルトー、安定感に満ちたアシュケナージの印象からするとブレハッチの特徴は一言でいえば演奏慣れしていない「初々しさ、瑞々しさ」のように思えた。なかなか好印象!

次に、2枚目のCDにはハイドン、ベートーヴェンそしてモーツァルトと古典派3人のピアノ・ソナタが網羅されていて、モーツァルトでは「K.311」〔9番)が収録されている。

ショパンはなかなか行けると思ったけど、はたしてモーツァルトはどうかな?

自分は帰し方40年ほど耳にたこができるほどモーツァルトの一連のピアノ・ソナタを聴き込んできたが、こう言っては何だがこの一連のピアノ・ソナタほどピアニストのセンスと力量が如実に反映される音楽はないと思っている。

たとえば久元裕子さん(ピアニスト)は著書「モーツァルトはどう弾いたか」の中でこう述べている。
 

「モーツァルトの音楽は素晴らしいが弾くことはとても恐ろしい。リストやラフマニノフの超難曲で鮮やかなテクニックを披露できるピアニストがモーツァルトの小品一つを弾いたばかりに馬脚をあらわし「なんだ、下手だったのか」となることがときどきある。 

粗さ、無骨さ、不自然さ、バランスの悪さ、そのような欠点が少しでも出れば音楽全体が台無しになってしまう恐ろしい音楽である」。 

以上のとおりだが、実に意地の悪そうな前置きはこのくらいにして(笑)、ブレハッチのモーツァルト演奏について述べてみよう。

一楽章の冒頭から指がよく動き、果てしない美音のもとに流れも軽快で ”いいことづくめ” 何ら違和感なく聴けて「大したものだなあ~」と演奏中は感嘆しきり。
 

だが、”しかし”である。

終わってみると、「はて、この演奏から何が残ったんだろうか」という印象を受けてしまう。つまり、後に尾を引くものがない、名演にとって不可欠な「香り立ってくるような余韻」がないのだ。


どうも、つかみどころがない演奏で単なる”きれいごと”に終わっている気がしてしかたがない、もしかすると自分の体調が悪いのかもしれないと日を改めて再び挑戦。しかし、やはり同じ印象は拭えない。

改めて、いつも聴きなれたグレン・グールドのK・311を聴いてみた。

まったく何という違い!音符を一つ一つバラバラに分解し、改めて自分なりに精緻極まりなく組み立てて、
見事に自分の音楽にしてしまうグールド・・。圧倒的な、有無を言わせない説得力に無条件に降参した。

因みに演奏時間の違いが面白い。ブレハッチの16分59秒に比べてグールドは12分25秒。こんなに違うと、まるで異なる音楽になるのは必然で、めまぐるしく早いテンポのグールドと比較すると”まどろっこしさ”を覚えるのも無理はない。

個性的なグールドと比較するのは可哀そうだと思い今度はクラウディオ・アラウの演奏を。これは演奏時間が20分55秒と一番長い。

じっくり聴いてみたがやっぱりいいねえ!一音一音が見事に磨き抜かれてコクがありロマンチックで素敵な演奏の一言に尽きる。こうなるとブレハッチとの差はいかんともしがたい。

ショパンはともかくモーツァルトの音楽では簡単に騙されないぞ!(笑)

キーシンほどの大ピアニストがいまだにモーツァルトのピアノソナタ全集の録音をためらっているが、ブレハッチにはまだモーツァルトのピアノ・ソナタを弾くにはちょっと早すぎるようだ。

しかし、せっかく前途有望な若手が出現したのに否定的な迷言(?)を繰り返すとは何ともへそ曲がりの嫌味なリスナーが世の中にはいるもんですねえ~(笑)。



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フランスの作曲家「モーリス・ラベル」

2024年01月08日 | 音楽談義

このところ聴く機会が多いのがフランスの作曲家「ラベル」のボレロ。



凄い別嬪さんの指揮者なので「目の保養」と「耳の保養」を兼ねているのは「言わずもがな」かな(笑)。

で、ラベルといえば、世紀の大指揮者フルトヴェングラーが「高雅で感傷的なワルツ」をこよなく愛していたことが知られているが、惜しいことに「フルトヴェングラー全集」(107枚)には収録されていない。

    

(ローマ教皇に「フルトヴェングラー全集」を進呈するメルケル首相)


しかし・・、おぼろげな記憶とともに、たしか持っていたはずだがと探してみるとありました!



「ドビュッシー・ラベル全集」(全8枚組)の6枚目に収録されていた。トラック番号9~16で8節に分かれ全体で16分ほどの小曲。

指揮者はジャン・マルティノンで演奏はパリ管弦楽団。さほど有名な指揮者でもないし、なぜこの全集を購入したのか今となってはさっぱり思い出せない。

強いて挙げれば、ドビュッシー・ラベルともフランスの作曲家であり、それならば指揮者もフランス人がよかろうという程度かな。

この全集ではドビュッシーの曲目が4枚、ラベルが4枚という構成になっており、折角だからこの際ラベルをすべて聴くことにした。

収録されていた曲目は次のとおり。

<5枚目>
 ✰ ボレロ ✰ 海原の小舟 ✰ マ・メール・ロワ ✰ スペイン狂詩曲 

<6枚目>
✰ シエラザード(序曲) ✰ ラ・ヴァルス ✰ クープランの墓 ✰ 古風なメヌエット ✰ 亡き王女のためのパヴァーヌ ✰ 高雅で感傷的なワルツ

<7枚目>
✰ ダフニスとコロエ

<8枚目>
✰ 左手のためのピアノ協奏曲 ✰ ピアノ協奏曲

ボレロ以外は親しみやすい旋律も特になかったが、よく聴いているうちに何だか「精巧に出来たジグソーパズル」を見ているような感じがしてきた。

一つ一つの複雑なピース(音符)が隙間なく埋められていく印象で無駄な音符が一つもなさそう。

明らかに日頃聴き慣れたドイツの作曲家たちとは作風が違うが、これはこれで悪くない。

気になったので作曲家「ラヴェル」をググってみた。



モーリス・ラヴェル(1875~1937)。

手短に表現すると、「オーケストレーションの天才」「管弦楽の魔術師」で、ドビュッシーと同じ印象派に属する(やや微妙な色分けがあるようだが)とある。印象派とは一言でいえば、気分や雰囲気を前面に押し出す音楽のこと。

前述したように、フルトヴェングラーは演奏会のプログラムに入ってもいないのに、ベルリンフィルの楽団員にしょっちゅうこの曲目を演奏させていた。

その理由というのはラヴェルの音楽を愛していたからと言われているが、併せて「オーケストレーション」の妙味を通じて指揮者と楽団員との呼吸(いき)を合わせていたのだろう。

で、ラヴェルの精緻な音楽は数学者の複雑な数式にも通じるところがあり、ラベルの風貌にも何だか厳格な数学者を連想させるとは思いませんかね。

そういえばフランスは幾多の高名な数学者を輩出している。

ググってみると17世紀~20世紀前半で、画期的業績を残した世界的数学者を列挙すると、数ではフランスが圧勝、次はドイツとイギリスとあった。

まさに、知的なヨーロッパの代表選手であり、
代表的な数学者としては「デカルト」(座標系)、「フェルマー」(最終定理)、「パスカル」(定理)、「フーリエ」(級数)、「ポアンカレ」(予想)など。

「数学は音の基礎」と言われているが、ラベルの精緻な音楽はそれを体現しているのかもしれないですね。

それにしてもかっての「栄光の国」フランスは国際社会の中で段々と影が薄くなっているような気がする、なんといっても底力があるんだからもっと存在感を高めて欲しいなあ・・、日本も同じだけどね~。



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オペラ「魔笛」の自筆譜

2023年12月29日 | 音楽談義

先日のこと、BSで「モーツァルトの真実」~自筆譜が明かす素顔~を放映していた。

               

番組の趣旨は彼が遺した自筆譜を通して彼独自の作曲のノウハウにアプローチしようというもので実に興味深かった。

とりわけ、番組の冒頭でオペラ「魔笛」の分厚い自筆譜が紹介されていたが、まるで清書されたような美しさに驚いた。

しかし、番組を終わりまでみて分かったのだが、意外にもかなり修正の跡を留めた楽譜がほかに遺されていたり、さらにはきちんと作曲の目録を作って整理しているなど几帳面でこまめなモーツァルトの素顔が浮かび上がってくる。

したがって、作曲の方法も、これまでは頭の中で全体が一瞬のうちに完成し後はゆっくりと引き出して、譜面に書き写すだけといわれているが、実はそうした曲ばかりでもなく、例えば先輩作曲家ハイドンに献呈する弦楽四重奏曲では相当に気を使い何回も書き直しの後が見られるそうで、ほかにも作曲前の下書きも時にはしているそうだ。

また、生涯に600曲以上もの作品を作曲した天才といえども全てが良品ばかりではなく、熱意を注いだものと、そうでないものでは完成度に随分差があるのが面白い。ある意味では天才の気まぐれというか、ムラが激しいといってよいのかもしれない。

例えば、亡くなる間際のほとんど同時期に作曲されたオペラ「魔笛」と「皇帝ティートの慈悲」には完成度に随分大きな差がある。

両作品とも最晩年の最も脂が乗り切った時期の作品にもかかわらず、熱中して作曲した「魔笛」の方は最高傑作の名をほしいままにし、一方は今日ではまったくといっていいほど省みられていない。

オペラ「ドン・ジョバンニ」にしても、自分が秘かに憧れていた好色な主人公になりきったつもりで夢中になって作曲したそうで、これも魔笛に劣らぬほどの大傑作に仕上がっている。

この「気まぐれ」の理由がよく分からないが、これは個人的な憶測になるがひとつにはモーツァルトは自分の音楽が後世になって賞賛されることをあまり意識しておらず、その場その場の動機やきっかけ次第で熱中したり、あるいはまるで鼻歌を歌うように作曲をしていった面が多分にあったのではないかと思う。

何物にも縛られない自由に飛躍する精神の持ち主・・、芸術家って本来そういうものなのかもしれないですね。時間をはじめいろいろと制約が多い一般的な社会ではとうてい受け入れられそうにない・・(笑)。

このように、モーツァルトにはいろんな曲目を通じて沢山の顔が見えてくるが、自分の内面をその時の気分の赴くままに作曲した意味で一連のピアノ・ソナタは本人自身の率直なつぶやきに近いものがあり、彼の内面を探る意味で重要な作品群だと思う。

ソナタ1番(K.279)から17番(K.576)まで、10年以上に亘って作曲されているが、特に第14番ハ短調(K.457)第2楽章は他の作品とはまったく違う作風で、深刻な曲調が陽気なときばかりではない彼の違う内面を顕しているようで実に趣が深い。あのベートーベンの後期のピアノ・ソナタを思わせるものがある。

この14番は愛好するソナタなので少なくとも週に一度以上はじっくりと聴いているのだが演奏の方は、主としてグレン・グールドである。



彼の演奏には、文章でいう句読点が感じられ、しっかりとしたストーリーを組み立てている感じを受けるし、何よりも野太いタッチが逞しくて安心感を覚える。

グールドは1982年に50歳で早々に他界しているが、演奏家たちがスランプに陥ったときには、彼のピアノ演奏(録音)を聴くという記事を読んだことがある。もう、後にも先にもこういうピアニストは出てこないだろう。

さいごに「魔笛の自筆譜」からいろいろ話が発展したが、「写し」でもいいから一度だけでも見てみたい気がする。天才の音符の字体を通じてその息吹に少しでもふれてみたい~。

で、「チャットGPT」に意地の悪い質問をしてみた。

「魔笛の自筆譜の写しを手に入れたい」

すると、真面目な回答が返ってきた。

以下は、自筆譜を入手するための一般的な手順です。

1 図書館やアーカイブの調査
地元の図書館、国立図書館、または音楽アーカイブなど、専門的な資料を収集している機関を調査してみてください。

2 デジタルアーカイブ
 オンラインでデジタルアーカイブを探してみることもできます。多くの場合、有名な作曲家の楽譜はデジタルでアクセスできるようにされています。

3 専門家や研究者に問い合わせ
音楽学の専門家やモーツァルト研究者に連絡して、アクセス可能な資料や情報について尋ねてみることも一つの方法です。

4 公共のドメインリソース
 モーツァルトの楽譜がパブリックドメインにある場合、オンラインで入手できる可能性があります。ただし、これは資料の特定の場合に依存します。


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何ごとも「欲張り過ぎたらダメ」

2023年12月26日 | 音楽談義

昔のCDを聴いているときなどにライナーノートに「宇野功芳」さん(享年86歳)がときどき登場されているので、つい思いだす。ずっと昔の死亡記事を今でも保管している。



ややオーヴァーともいえる表現が有名だった。たとえば共著「クラシックCDの名盤」から、デュ・プレが弾くエドガーの「チェロ協奏曲」についての解説がこれ。

「67年、バルビローリの棒で入れたライブが最高だ。人生の憂愁やしみじみとした感慨に彩られたイギリス音楽に共通する特徴を備えるこの曲を、22歳になったばかりのデュ・プレが熱演している。

第一楽章から朗々たる美音がほとばしり、ポルタメントを大きく使ったカンタービレは極めて表情豊か、造詣はあくまで雄大、ロマンティックな情感が匂わんばかりだ。」


こういう表現ってどう思われます?(笑)


クラシック通の間では評価が二分されており、「この人、またいつもの調子か」と、幾分かの“嘲り”をもって受け止める派と「そうか、そうか」と素直に受け入れる憧憬派と、はっきりしている。

自分はやや冷めたタイプに属しているのでこういう大げさな表現はあまり肌に合わない(笑)。

このほど図書館から「私のフルトヴェングラー」(宇野功芳著:2016年2月8日刊)を借りてきた。刊行日からして死去の4か月前なのでおそらく「遺作」となろう。

                         

20代前半の頃はそれこそフルトヴェングラーの演奏に心から感動したものだった。ベートーヴェンの「第九」「第3番・英雄」、そしてシューベルトの「グレート」・・・。

本書の15頁に次のような記述があった。

今や芸術家たちは技術屋に成り下がってしまった。コンクール、コンクールでテクニックの水準は日増しに上がり、どれほど芸術的な表現力、創造力を持っていてもその高度な技巧を身に着けていないと世に出られない。フルトヴェングラーなど、さしずめ第一次予選で失格であろう。何と恐ろしいことではないか。

だが音楽ファンは目覚めつつある。機械的なまるで交通整理のようなシラケタ指揮者たちに飽き始めたのである。彼らは心からの感動を求めているのだ。

特にモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなどのドイツ音楽の主流に対してもっと豊饒な、もっと深い、もっとコクのある身も心も熱くなるような演奏を期待しているのだ。

だからこそ死後30年も経ったフルトヴェングラーの音楽を必死になって追い求めるのである。実際に舞台姿を見たこともない、モノーラルレコードでしか知らない彼の音楽を熱望するのである。」

クラシックファンにとって、黄金時代は「1950年代前後」ということに異論をさしはさむ方はまずおるまい。(ジャズもそうかもしれませんね)

綺羅星の如く並んだ名指揮者、名演奏家、名歌手、そして名オーケストラ。その中でも代表的な指揮者がフルトヴェングラー、そしてのちに帝王と称されたカラヤンにとっては黎明期だった。

いつぞやのブログでも紹介したが、ベルリン・フィルのコントラバス奏者だったハルトマン氏がこう語っている。

「カラヤンは素晴らしい業績を残したが亡くなってまだ20年も経たないのにもうすでに忘れられつつあるような気がする。ところが、フルトヴェングラーは没後50年以上経つのに、未だに偉大で傑出している。<フトヴェングラーかカラヤンか>という問いへの答えは何もアタマをひねらなくてもこれから自ずと決まっていくかもしれませんよ。」

だがしかし・・。

本書の中で、フルトヴェングラーがもっとも得意としていたのはベートーヴェンであり「モーツァルトとバッハの音楽には相性が悪かった。」(23頁)とあった。そういえばフルトヴェングラーにはモーツァルトの作品に関する名演がない!

オペラ「ドン・ジョバンニ」という唯一の例外もあるが、このオペラこそモーツァルトらしからぬ作風の最たるものといっていい。


あの “わざとらしさ” がなく天真爛漫、“天馬空を駆ける”ようなモーツァルトの音楽をなぜフルトヴェングラーが終生苦手としていたのか、芸風が合わないといえばそれまでだが・・。

モーツァルトを満足に振れない指揮者は「ダメ」というのが永年の持論だが、はてさてフルトヴェングラーをどう考えたらいいのだろうか。

そもそも、すべての作曲家をレパートリーに収める指揮者なんて存在しないのかもしれないですね。

オーディオだってそうで、すべてのジャンルをうまく再生できるシステムが無いのと同じ~。

つまり欲張り過ぎたらダメ」ということですかね・・
(笑)。



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モーツァルトへの旅~音楽と人生に出会う~

2023年12月19日 | 音楽談義

その昔、モーツァルト関連のエッセイの中に(たしかドイツ文学者の「小塩 節」氏だったと思うが)、次のような記述(要旨)があったことが微かに記憶に遺っている。

「幼少の頃に作曲した一節が、亡くなる年(1791年)に作曲された「魔笛」の中にそのまま使われている。彼の頭の中でそのメロディが円環となってずっと流れていたのでしょう。」

この内容の真偽のほどと、その出典元がはたしてドイツ文学者の「小塩 節」(おしお たかし:1931~2022)氏のエッセイだったのかどうか・・・が、最近やたらに気になって~(笑)。

読者におかれてはどうでもいいことかもしれないが、大の「魔笛愛好家」の本人にとっては大いに気になる事柄・・。


おそらく図書館から借りてきた本だから今さら真偽のほどを確かめようもないが、簡単に諦めてしまうのも何だか癪だ。

自分がやや粘着質の人間であることをよく理解している積りだが(笑)、「よし!突きとめてみせるぞ」と珍しくヤル気をだしてみた。

こういうときの「ネットの威力」は凄い。

「小塩 節」でググってみると、著作がずらりと並んでいたが、いかにもそれらしき表題が見つかった。過去に読んだときは「音楽関係の月刊誌」だった記憶があるが、おそらく引用だったと推測している。



「モーツァルトへの旅」。

おそらくこの本が「出典」ではないかな・・。在庫の表示があり、本のお値段が20円、送料が260円で併せて280円なり~。さっそくクリックして注文したところ3日ほどで届いた。

  

かなり薄目の文庫本だったので比較的「組みやすし」と読み進んだが、ようやくお目当ての個所を見つけたときはそれはもう感慨もひとしおだった。

ちなみに本書を最後まで通読した結果、著者はさすがにドイツ生活が長い方だけあって現地にもよく通暁されており、これは最高の「モーツァルト解説本」だと太鼓判を押したくなるほどの出来栄えだった。

上から目線の「物言い」で恐縮だが、日本有数の「モーツァルト通」(自称)が保証するのだから間違いなし(笑)。

ちなみに「日本有数のオーディオ愛好家」と「日本有数のモーツァルト通」と呼ばれるのと、どちらがうれしいかと問われたらもちろん後者である。

芸術的な価値に雲泥の違いがあるからね~(笑)。

前置きが長くなったが、それでは押しつけがましくも関係個所(62頁)をそっくり引用させてもらおう。

「モーツァルトが5歳の時に作曲した小品が数奇な運命を経てロンドンのある家庭から「モーツァルト協会」に寄贈された(1956年)のが「アレグロ へ長調」の楽譜だった。

形式もきちんと整ったこの譜を注意深く見ると、人はある有名な旋律を思い出して愕然とする。

この旋律型はモーツァルト最晩年の、彼の創造活動の終局点を示す30年後の大作「魔笛」(K620)の中でパパゲーノが歌うアリア第20番「パパゲーノが欲しいのは・・・」、あのメロディーなのである。

モーツァルトがあんなに小さいときに作曲を始め、そして30年して彼の世界の円環を閉じるとき、彼の心に鳴っていたのはこの懐かしいメロディーだったのである。

専門家はこの旋律が民謡の一節に由来したものであると指摘している。そうだろう、モーツァルトは町や村のちまたの歌を聴いてヒントを得て、多くの作曲をしていった人なのだから。彼は多くの旋律をいくつも作品に繰り返し使っている。いたるところで懐かしい旋律に出会う。

彼はその生涯の初めの幼い日に街で聞こえた何げない民謡のメロディーから無意識のうちにヒントを得てこの作品を創ったのである。」

以上のとおりだが、モーツァルトの僅か36年の短い生涯といえばヨーロッパ各地への旅から旅への連続であり、様々な人との出会い、各地の伝統音楽に接した記憶のすべてが彼の音楽に結実した。

モーツァルトにあやかるのはまことに恐れ多いが、幼少時代の記憶が何の脈絡もなしに走馬灯のようにかけ巡って来ることがよくある。

結局、人間とは己の記憶ともに生涯歩み続ける生き物なのだろうか。

ふと「村上春樹」さんの言葉が蘇った。

「僕らは結局のところ血肉ある個人的記憶を燃料として世界を生きているのだ」。


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女性ボーカルは聴きやすい

2023年12月06日 | 音楽談義

「くどい」ようだけど、このところ「You Tube」にすっかり嵌ってしまった。なにしろあらゆる曲目が聴き放題だしリモコンでいろんな曲目が瞬時に聴けるという重宝さはとても得難い・・、その中でもときどき聴いているのが「なごり雪」。

ずいぶん古い曲だが、隣室に居る家内にも音が洩れ伝わっているとみえて、日頃は音楽にまったく興味を示さないのに「♪ ~去年より ずっと きれいになった~ ♪」と“くちずさみ”ながら、「この歌いいわね!」と言う。

「そうだな~」と生返事をしながら「な~に、お前の場合は“♪~去年より ずっと シワ・シミ増えた~♪”だろ」と、思ったが、実際に口に出すと非常に恐ろしいことになりそうなのでぐっと我慢した(笑)。

それにしても我が家には音楽好きのマニアがいろいろお見えになるが、総じて「女性ボーカル」は人気の的である。

いつぞやのブログでも紹介したように「母親の胎内に居るときから女性の声を聴いているので大人になっても郷愁を覚えて安らかな気持ちになる」という説も十分頷けると思っている。「胎内=水遊び」も同様である。

それに年齢を重ねていくと、オーケストラやオペラなど大掛かりな仕掛けを要する曲目と段々縁遠くなっていく傾向があるのも否めない。

自分の場合も、近年こういう曲目は聴く前から何だか気分が重たくなってくる。音楽鑑賞といっても重量級ともなると何かしらの「心理的エネルギー」が要るのかもしれない。


で、お客さんたちの間で比較的好評なのが「有山麻衣子」さんの天使の歌声。

さすがに音楽巧者の「宇野功芳」(音楽評論家)さんが見込んでCD化しただけあって、「まるで心が洗われるような声! 

変に技巧をこらしていないので清純、可憐そのもので実に曲目とマッチしている。」と、感嘆の声が上がる。


          

内容は「十五夜お月さん」「七つの子」「牧場の朝」などの唱歌集(全24曲)。

ちなみに、この分野では「鮫島有美子」さんが有名だが「CDを持ってるけど何だか魅力に乏しくて、何度も聴こうという気にならない。」と、どなたかから発言があったが自分も同感。

まあ、好き好きですけどね・・。

で、話は移って「女性ボーカル」の再生に適したスピーカーといえば、もちろんトップにくるのは「AXIOM80」である。

小編成からボーカルまでまさに「鬼に金棒」だが、惜しむらくは大編成のオーケストラや「オルガン」の、まるで地を這ってくるような重低音となるともう「お手上げ」である。

箱を補強する前の「旧AXIOM80」の時に、「ゲーリー・カー」のCDに含まれているオルガンを再生したときに、対応しきれず、急におかしな音が出だしたので慌ててストップ。

「また修繕か・・ → 2万5千円」と、一瞬蒼褪めたがどうにか無事だった。それからは、大いに懲りて「AXIOM80」によるオーケストラ再生はすべて敬遠。

ブルックナーの「第8番3楽章」(チェリビダッケ指揮)なんて、滅相もない・・(笑)。

しかし、クラシック音楽の集大成であり華ともいうべき「シンフォニー」を十全に再生できないなんて、それっていったいスピーカーの資格があるんだろうか・・という気もする。

このところの急激な気温の冷え込みのもと、身体とともになんだかもやもやしてスッキリしない心理状態である。

何らかの開放措置が必要だなあ・・(笑)。

そこで、講じた対策が・・、以下、続く。



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「You Tube」チャンネル作成

2023年12月03日 | 音楽談義

昨日のこと、過去記事ランキングに珍しく登場していたのが「音楽がタダになる日」。2005年の投稿だから今からもう18年前の話である。

大半の方が「忘却の彼方」だろうから再掲させてもらうと・・、

「ひと口に音楽鑑賞といってもコンンサートなどの生演奏を楽しむ人、あるいはオーディオ装置を中心にレコードやCDソフトを楽しむ人などさまざまだが、自分を含めて後者に属する人は結構多いと思う。

オーディオ装置への投資額に比べるとCDソフトなんて微々たる割合だと言いたいところだがそれでも300枚近くとなると平均2000円として60万円ほどになるからばかにならない。約30年の長期間に亘ってのコツコツとした出費だから目立たないだけ。

これからも好みのCDソフトが発売されれば買わざるを得ないところだが、2008年7月29日号(「エコノミスト」誌)の特集記事「音楽がタダになる」(18頁~38頁)によると、CDを中心とした音楽鑑賞もどうやら大きな変革の時代に入りつつあるようだ。

とにかくCDの出荷額が激減している。過去最高を記録した98年の5879億円から9年連続で減り続け、2007年は3272億円とほぼ半分に縮小という有様で、これまでCD販売を最大の収益源として潤ってきた音楽業界が大変革を迫られている、とのこと。


身近な現象では都会、地方を問わずCDショップがゾクゾクと廃業ないしは売り場面積の縮小などの一途をたどっているのを既にお気づきのことと思う。

1 CD販売の絶対数の激減

2 ネット通信販売への移行

3 携帯電話の「着うた」による楽曲のダウンロードや米アップル社の「iPod」などの携帯プレーヤーの普及

などによるものだが、そもそも最大の被害者は音楽関係会社だろう。

CDが売れない要因の一つにはデジタル技術の進歩によるコピーーが簡単にできるようになったことが挙げられパソコンの「ファイル共有ソフト」によって多数の利用者間で「音楽闇市」が形成されている影響が大きい。

もうひとつの要因はネット上の音楽配信市場の急速な伸びで現在1曲200円程度、アルバムが1500円程度という音楽の低価格化、無料化の波が業界全体を襲ってきている。

同誌34頁には、いずれ「音楽がタダ」になる日を見越して新たなビジネスモデルの再構築とともに世界的な業界再編の動きが始まっているとたいへん興味ある記事が掲載されていた。以下、要約しながら追ってみよう。

『あらゆる音楽が丸ごとタダで聴ける、しかも合法的に!』

会員制交流サイトの最大手、米「マイスペース」が近く常識を覆す音楽配信サービスを開始する。世界の4大レコード会社のうちEMIを除いて大手3社と提携しその音楽のすべてをサイトからユーザーに無料で聴かせるというもの。

無料の音楽で消費者をサイトに惹きつけ、サイト上に広告を掲載しアーティストのコンサート・チケットなどを販売して、これらの収入をレコード会社と分配しようとする新たなビジネスモデル。

これは、レコード会社側から見ると「音楽ファイルがコピーされるのは仕方がない」との諦めを背景に、自社の音楽を水道やガスのように安くあまねく供給し、それをベースに創造性に富むIT企業が斬新なビジネスを編み出し、それに乗っかって新しい分け前を受け取ろうという狙いだという。

こういう新しい動きを見ると、消費者側としてもうまく利用しない手はない。とにかくCDを購入する必要が無くなるのだからたいへん喜ぶべきこと。

しかし、iPodの活用でさえも手ぬるいと思う人がいるのは当然で、パソコンに直接取り込んだ配信音楽をそのままデジタル信号としてUSBポートからオーディオ装置(DAコンバーター)に送り出すことも当然考えられる。

むしろこちらの方がストレートにデジタル信号を引き出せるので音質が良さそうだし主流になる可能性を秘めている。オーディオ機器としての能力を持った、たとえば駆動音が静かでプリアンプとチューナー感覚を備えたオーデイオ専用パソコンが発売されるのも時間の問題だろう。

いずれにしろ「パソコン」がオーディオの主役とはいかないまでも重要な脇役になるのは目に見えているが、あとは何といってもクォリティが一番の課題で再生される音質と使い勝手の良さがカギを握っていると思う。」

とまあ、以上のような内容でした。当たらずといえども遠からずといったところでしょうか・・(笑)。

現在、我が家の音楽鑑賞は「ルーター → テレビ → DAC」による「You Tube」が主体になっており、画面に出てくる宣伝広告を排除するための費用 で、たかだか「1200円」程度が毎月引き落とされているが、音質はそう目くじらを立てるほど悪くないし、何しろリモコンの操作一つで次から次に好きな曲目に移れるので便利なこと、この上ない。

音楽好きにはまるで「桃源郷」のような時代がやってきたことを実感している。

で、残る「我が家の願望」はといえば
「You Tube」を利用して「発信」に転じたいですね。

我が家のオーディオ・システムの音を広く聴いてもらおうという算段である。

「なんだ偉そうな口をきいているけど大したことないじゃないか!」と、恥をかく可能性も大いにあるけどね・・(笑)、まあ良きにつけ悪しきにつけ一度聴いてもらえれば相互の理解促進に役立つことは間違いない。

どなたか、「パソコン苦手の年寄り」に「You Tube」チャンネルの作成方法を教えてくんないかなあ・・、あるいは「分かりやすい解説をした書籍」、さらには有料でも構わないので信用のある専門的な機関の紹介をしていただけると大いに助かります・・。

メルアドは「自己紹介欄」にあります。


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「芸術的な価値」 VS 「コスト」

2023年11月30日 | 音楽談義

いつぞやの「読売新聞」に掲載されていた記事がこれ。
         

ストラディバリウスといえば周知のとおり数あるヴァイオリンの中でも王様的な存在だが、この種のネタは旧くて新しいテーマとしてこれまでも度々提起されている。

その理由は「数億円もするヴァイオリンが、はたしてそれに見合う音を出しているのか?」の一点に尽きる。

煎じ詰めると「藝術的な価値をコストで割り切れるのか」というわけで、結論の出しようがない不毛な議論を性懲りも無く何度も何度も~(笑)。


この新聞記事では演奏者の正体が明かされていないところがポイントで、たとえば一流の演奏者が弾くのと二流の演奏者が弾くのとではいかなる名器であっても違った響きを出すのが当たり前だから随分と無茶な話のように思える。

ちなみに、ずっと
以前に「名器ストラディバリウスの真価とは」と題して投稿したことがあるので、以下再掲しておこう。

ヴァイオリンの世界では「ストラディバリウス」や「ガルネリ」といったいわゆる「名器」がとてつもない値段で取引されている。中には10億円以上のものがある。こういった神格化された名器の音は、はたしてその値段にふさわしいものだろうか。
 

きちんとした聴き比べ実験が試みられている。ストラディバリウス(数億円)、プレッセンダ(数千万円)、中級品(50万円)、低級品(5万円)の4種類のグレードのヴァイオリンが使われた。

一流の演奏家による演奏を録音し、被験者に何度も聴かしてそれぞれの音の特徴を覚えさせる。そして、音だけ聴かせてどの楽器かを回答させた。その結果、ストラディバリウスの正答率は53%だった。

あまり高い正答率とはいえないが、全然分らないというものでもない。少なくとも「中級品」「低級品」と間違えることは少なかった。


「音の伸びがいい」「音の厚みがある」ことがストラディバリウスと判断する手がかりだったという。

ところがである。

同じ被験者で生演奏で同じ実験をしたところ、正答率は22%に下がってしまった。これはほぼ偶然にあたる確率である。演奏者の素晴らしい演奏に聴き入ってしまい聴き比べがおろそかになってしまったのだろうか?名器の秘密に迫るのは難しそうだ。


以上だが、この話、オーディオ的にみて実に興味深いものを含んでいるように思う。

電気回路を通した音では聴き分けられたものが、生の音では聴き分けられなかったいうのがポイント。

このことは目の前でじかに聴く音の瑞々しさ、生々しさは楽器のグレードの差でさえも簡単にカバーしてしまうことを示唆している。

したがって、オーディオにはあまり熱を入れず生の演奏会を重視する人たちがいるというのも頷ける。

さて、ストラディバリウスの真価は果たしてこの程度のものだろうか。 

日本の女流ヴァイオリニスト千住真理子さんがストラディバリウスの中でも名品とされる「デュランティ」を手に入れられた経緯は、テレビの特集番組や著書「千住家にストラディバリが来た日」に詳しい。

テレビの映像で、彼女が「デュランティ」を手にしたときの上気してほんのりと頬に紅がさした顔がいまだに目に焼き付いている。

千住さんによると、凡庸のヴァイオリンとはまったく響きが違い、いつまでも弾いていたいという気持ちにさせるそうである。

やはり、プロの演奏家にしか真価が分らないのが名器の秘密なのだろうか、なんて思っていたところ、逆に「ストラディヴァリは神話に過ぎない」とバッサリ一刀両断している本がある。

             
                          

 著者の「玉木宏樹」氏は東京芸大の器楽科(ヴァイオリン)を卒業されて現在は音楽関係の仕事をされている方。

本書は表題からもお分かりのとおり、音楽の裏話を面白おかしく綴った本だが、その57頁から75頁まで「ヴァイオリンの贋作1~3」の中でこう述べてある。 

「ではストラディヴァリは本当に名器なのでしょうか?私の結論から申し上げましょう。それは神話でしかありません。値段が高いからいい音がするわけではなく、300年も経った楽器はそろそろ寿命が近づいています」

「ヴァイオリンの高値構造というのは一部の海外悪徳業者と輸入代理店によってデッチ上げられたものですが、ヴァイオリニストというものは悲しいことに最初から自分独自の判断力を持つことを放棄させられています」

「ヴァイオリニストにとっての名器とはいちばん自分の身体にフィットして楽に音の出るものと決まっているはずなのに、その前にまずお金で判断してしまうのです」といった調子。

以上のとおりだが、芸術家としての千住さんの話もご尤もだと思うし、玉木さんのドライな説もなかなか説得力があり、どちらに妥当性があるのか結論を出すのがなかなか難しいが、この問題は冒頭に述べたように「芸術的価値をコストで割り切れるのか」に帰するようで、つまるところ当のご本人の価値観に任せればそれで良し!

そういえば、オーディオも似たようなものですね~、高級で大掛かりなシステムがけっして「好きな音」とは限らないし・・(笑)。


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バッハの「フルートソナタ」

2023年11月17日 | 音楽談義

「河合隼雄(かわい はやお)」さんといえば日本におけるユング心理学の第一人者であり、「京都大学教授」→「文化庁長官」として活躍された方。

2007年に長官として在職中に「脳梗塞」で急逝された(享年79歳)が、自分と肌合いがいいというのか、この人が書いた著作はいつも心情的にピッタリ来るので畏敬の念を持っている存在。

とりわけ記憶に残っている言葉が「一流の芸術はその底流に死を内在させている」。

で、図書館で気に入った新刊が見つからないときに、遠方の大型書店まで足を延ばすことがあるが、河合さんの著作が目に入るとつい買ってしまう。



「老い先」が短いんだから、これ以上蔵書は増やしたくないんだけどなあ~(笑)。

そういう河合さんだが、このほど図書館の新刊コーナーで特集を発見!

まさに「猫に小判」いや「猫に鰹節」かな~。



じっくり熟読玩味し「拳拳服膺」(けんけんふくよう)させてもらうつもりだが、その中に「一枚のCDーバッハ フルートソナタ集 」という小節があった。

クラシック音楽のエッセイとしても見逃せないので記録しておこう。

「忙しくて、音楽会はおろかCDを聴いている時間もあまりない、というのが実状で、まことに情けないことである。

自分がフルートを吹くのでやはりフルートの曲を聴くことが多い。以前は自己嫌悪に陥るので、むしろフルート曲は敬遠していたが、最近は心境が変化して、よく聴く。その中でもいちばんよく聴くのが、このCDであろう。

バッハは大好きである。ロマン派の音楽と違って聞くともなく聞く、ほかのことをしながら聞く、一心に聴く、などどんなときにでもお構いなく、ちゃんとたましいに響いてくるものがある。

これに収録されている十一の曲の中には、最近の研究によって、大バッハのものではないと言われているものがあるそうだが私にとっては、あまり関係がない。すべてバッハで結構と思える。

ランパルの演奏もまた素晴らしい。私はチューリッヒでランパルの演奏を聴いたことがある。チューリッヒの交響楽団とモーツァルトのフルート協奏曲を演奏した後に、アンコールとして、バッハの無伴奏パルティータを吹いた。

さっきまでオーケストラが響いていた空間に、笛一本の音を響かせるが、それがまったく同等の感じとして聴こえてくるのだから大したものである。人間の器量(うつわ)ということを如実に感じさせられた。一人が千人に対応する。

バッハとランパルという組み合わせは、私にとっては最高に感じられる。人間にはたましいは歩かないかとか、たましいとは何かなどとよく訊かれるが、このCDを聴いてください、と言いたいほどである。これを聴くことによって、どれほど癒されるか、計り知れぬものがある。

心理療法をしているとつらい話を聞くことが多い。それを外に出さず一人でかかえていることが大切なのだが、なかなかそれはできないので、スーパーバイザーという人がいる。その人に話を聞いてもらう。それによって支えられて仕事ができる。

ところが、スーパーバイザー自身も耐えられないときがある。そうなると、その人がもっと器量の大きいスーパーバイザーを訪ねてゆく。私はそんな玉突きゲームのいちばん後に立っているような役割なので、「先生のスーパーバイザーは誰ですか」と訊かれるときがある。

私は有難いことにたくさんのスーパーバイザーをもっている。バッハやモーツァルトがそうである。ほかにもあるが、やはりこの二人が私にとっては双璧であろう。

この世では誰にも話せず、墓場にもっていくより仕方のないたくさんの荷物を私はもっている。しかし、有難いことに、これらのスーパーバイザーが私を支え、浄化してくれる。

それらのなかで、ランパルの奏するバッハのフルートソナタが、私にとっては最高のものと言っていいだろう。よいスーパーバイザーに恵まれて有難いことである。」

いいですねえ・・、世に哲学者や評論家は数あれど、クラシック通となると極端に少なくなる。

「ランパル」といえば、モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」があるが、今もって「極めつけの名演」として知られている。



誰しも世知辛い世の中を生きていこうとすると「脛に一つや二つ」以上の傷ができるはず・・、そういうものを癒してくれる「スーパーバイザー」が芸術だなんて最高だと思う。

「筋肉は裏切らない」転じて「芸術は裏切らない」(笑)。

それにしても、クラシックはバッハ、モーツァルト、そしてベートーヴェンに尽きると思うが「ベートーヴェン」が「スーパーバイザー」に入っていないのはどうしたことか。

そのヒントらしきものが文中にあるが、何となくわかる気がする・・。

さて、「You Tube」でさっそく、バッハの「フルートソナタ」を検索したが、残念なことに「ランパル」は見当たらなかった。

仕方がない・・、ネットでさっそく注文しましたぞ~(笑)。



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一流の演奏家と好きな曲目が一緒とは光栄の至り

2023年11月12日 | 音楽談義

週一度の図書館通いでたまたま目に触れたのが「宮本文昭の名曲斬り込み隊」。

                           

「宮本文昭」さんといえばクラシック通ならご存知のように著名なオーボエ奏者だが、世に名曲の解説本は多いものの、実際に演奏する立場からの視点による解説本は意外と少ないのが実状。

また、オーボエという楽器は管楽器全体を引っ張っていく存在だから、そういう視点からのアプローチも面白そうなので読み始めたところ、つい引き込まれて一気読みしてしまった。


本書で取り上げてある名曲は以下の8曲。

 モーツァルト「ディヴェルティメントK.136」  「協奏交響曲K.364」、  
チャイコフスキー「交響曲第5番」、  ベートーヴェン「交響曲第3番英雄」、 5 ブラームス「交響曲第1番」、  リムスキー・コルサコフ「シェラザード」、  マーラー「交響曲第9番」、  ブルックナー「交響曲第8番」

いずれも比較的、世に知れ渡った曲ばかりだが自分なりの思いがある曲目が重なっているのに驚いた。

一流の演奏家と好きな曲目が一緒とは光栄の至り~。


たとえば、1のK・136はオペラなどの大曲を除くとモーツァルトの中で一番好きだと言ってもいいくらいの曲。

「You Tube」でもしょっちゅう聴いているが、CDではトン・コープマン指揮の演奏がダントツにいい・・、本書でもコープマンのCDが紹介してあった。

                    

この曲では特に第二楽章が好みだが「悲しいというのではないんだけど晴れやかでもない、そこはかとない哀しみが漂う、これまた名曲です。」(本書35頁)と、あるがたしかにそう思う。

「モーツァルトの涙の追い付かない哀しみとは何ですか?」と問われて、それを言葉で表現しようなんてとても無理な相談だが「それはK・136の第二楽章を聴けば分かりますよ」というのが、まっとうな解答というものだろう。

逆説的に言えば、これを聴いてわからない人はいくらモーツァルトを聴いてもダメと烙印を押したいくらい(笑)。

で、ケッヘル番号が136と非常に若いが、わずか16歳のときの作品だというからやはりミューズの神が与えた天賦の才には、ただただひたすら頭(こうべ)を垂れるほかない。


は正式には「ヴァイオリン、ヴィオラと管弦楽のための協奏交響曲」(K・364)という。

モーツァルトにしてはそれほど有名な曲目ではないが、これまた大好きな曲で、いろんな演奏家を聴いてみたがダントツなのが五嶋みどり(ヴィオリン)さんと今井信子(ヴィオラ)さんのコンビ。
                          
                 

本書の解説にはこうある。

(第二楽章)「深い憂愁につつまれた楽章だ。23歳のアマデウス先生が希望に胸を膨らませて向かったパリで失意を味わい、”もののあわれ”を知ってしまったのだろうか。

モーツァルトが全作品の中でもめったに見せたことのない、ほとんどロマン派と見まごうばかりの彼のプライベートでセンチメンタルな一面が垣間見れる。」(本書210頁)

ヴァイオリンとヴィオラの優雅な絡み合いの何とも言えない美しさに不覚にも目頭が熱くなってしまうのが常~。

この辺の微妙な表現力となるとSPユニット「AXIOM80」の独壇場で魅力全開である。五嶋さんも今井さんも楽器は「グァルネリ」だというが、日頃よく耳にするストラディヴァリよりも美しく聴こえるので、(AXIOM80とは)相性がいいのかな。


次に3、4、5、6、7は割愛して最後ののブルックナー「交響曲8番」についてだが、これは周知のとおり1時間半にも及ぶ長大な曲で、著者が高校時代に毎日繰り返し聴いて感銘を受けた曲とのこと。

プロの演奏家になった現在では分析的な聴き方になってしまい、高校時代のように「あ~、いい曲だなぁ」と音楽に心を委ねきることが出来ないと嘆いておられる。


これはほんの一例に過ぎないが、総じてこれまで自分が見聞したところによると純粋に音楽を心から楽しもうと思ったら指揮者や演奏家を職業にしない方がいいような気がして仕方がない(笑)。

ブルックナーについては、天下の「五味康祐」さんが次のように述べている。

「ブルックナーの交響曲はたしかにいい音楽である。しかし、どうにも長すぎる。酒でいえば、まことに芳醇(ほうじゅん)であるが、量の多さが水増しされた感じに似ている。

これはブルックナーの家系が14世紀まで遡ることのできる農民の出であることに関係がありそうだ。都市の喧騒やいらだちとは無縁な農夫の鈍重さ、ともいうべき気質になじんだためだろう」(「いい音、いい音楽」)


さて、ブルックナーの8番はチェリビダッケの指揮したCDを持っているが、これは超絶的な名演とされる「リスボン・ライブ」盤(2枚組:1994年4月)である。

                      


おいそれとは簡単に手に入らない稀少品(海賊版)として高値を呼んでいたが先年復刻されて正式に発売されているのは周知のとおりだが、個人的にはポピュラーな盤になったせいで「一抹の寂しさ」を感じる(笑)。

スケール感と重厚感があふれる曲なので、こういう盤を聴くときこそ「ウェストミンスター」(3ウェイ)の出番だが、たっぷりした音の洪水の中で音楽の魂が吸い込まれていきそうな気にさせてくれる名演・名曲である。

最後に、本書は演奏家、指揮者の視点からの分析もさることながら、著者の音楽への愛情がひしひしと伝わってくるところが実に好ましく、ほんとうの「音楽好き」なんだなあ~。

クラシックの愛好家でまだ読んでいない方は、機会があれば是非ご一読をお薦めしたい。
  



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秋の好日に「モーツァルト」を想う

2023年10月26日 | 音楽談義

ずっと昔に購入したモーツァルト全集。
          

55枚に亘るCD全集で版元は名門「グラモフォン」とあって指揮者も演奏家もすべて一流ときている・・、で「座右の盤」としていつも目立つところに置いている。

気候的に過ごしやすい秋の好日ともなると、「ど~れ、モーツァルトでも聴いてみるか」となり、この1か月ばかり集中的に聴いているが、改めて自分と極めて相性のいい音楽だと思った。と、同時に新たに想うこともあったので二点ほど列挙してみよう。

な~に、けっして大上段に振りかぶるつもりはない。どうせ、きちんとした音楽教育を受けたわけでもなし、楽譜さえも読めない素人の「戯言」に過ぎないので軽く読み飛ばしてくださいな(笑)。

☆ 「魔笛」と肩を並べる最高峰のオペラ「ドン・ジョバンニ」

この全集にはオペラが6曲収められていた。「クレタの王イドメネオ」(3枚組)「後宮からの逃走」(2枚組)「フィガロの結婚」(3枚組)「ドン・ジョバンニ」(3枚組)「コシ・ファン・トゥッテ」(3枚組)「魔笛」(3枚組)で、計17枚のCD。

55枚の中で17枚のCDということはおよそ1/3の割合。モーツァルトの音楽に占めるオペラの比重は明らかにそれ以上だと思うがまあ、量と質は別ということにしよう。


「イドメネオ」と「後宮からの逃走」を改めて聴いてみると、成熟度一歩手前の感を強くしたものの、それなりに楽しませてもらった。取り分け、後者は”雰囲気”が最後のオペラ「魔笛」にそっくりだったので驚いた。モーツァルトほどの天才でも、いざとなると過去の作品を大いにフィーチャーしているのだ!

そういえば、55枚の一連のCDを聴いていると、似たような旋律がいろんな局面に登場してくることに気付かさせられる。彼の頭の中には過去から現在までいくつもの旋律が折り重なって渦を巻いて流れていたのだろう。

それはさておき、彼の三大オペラとされているのは周知のとおり「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」である。

個人的にもそう思うが、その順番としては「魔笛」が一頭地を抜いており、「フィガロの結婚」と「ドン・ジョバンニ」が同列でそれに続くという意識を持ってきたが、今回改めて本腰をいれて「ドン・ジョバンニ」を聴いてみると、その劇的性、登場人物の心理描写を音楽で表現する巧みさに大いに感じ入った。

まるで手紙を書くみたいに鼻歌まじりで五線譜に音符を記したとされるモーツァルトにとって、音符と言葉を感情表現の伝達手段として同列に位置づけできるのが最大の特色だが、このオペラにもその強みがいかんなく発揮されている。

そもそも「オペラとは何か」ということで、ご承知の方も多いと思うがネットから引用すると、
 

オペラは、舞台上で衣装を着けた出演者が演技を行う点で演劇と共通しているが、台詞だけではなく、大半の部分(特に役柄の感情表現)が歌手による歌唱で進められることを特徴とする。歌手は器楽合奏により伴奏されつつ歌い演じる。伴奏は、多くの場合交響楽団模の編成に及ぶ。 

初期ロマン派までのオペラでは、歌唱には二つの様式がある。一つはレチタティーボ(朗唱)で、会話を表現するものであり、普通の朗読に近い抑揚で歌われる。もう一つはソロ(独唱)で歌われるアリア(詠唱)や複数の歌手が歌う重唱(アンサンブル)あるいは大勢で歌う合唱で、通常の歌唱である。これらの様式はみな伴奏を伴う。

端的に言えば役柄の感情表現を音楽で行うのがオペラというわけだが、登場人物の生身の人間臭さを音楽で強烈に“しゃべらせる”点で「ドン・ジョバンニ」は出色の存在である。旋律の美しさでは「魔笛」に一歩譲るが、ドラマ性では明らかに上回っていて今や両者は“甲乙つけがたし”。

年齢を重ねるにつれて、ますますその「凄さ」に心打たれる「ドン・ジョバンニ」である。

☆ 孤高の作曲家「モーツァルト」


今回の一連の試聴でモーツァルトと他の作曲家ではまったく音楽の作風が違うことにはっきりと思いが至った。音楽の成り立ちがそもそも違っている。

遺されたモーツァルトの有名な書簡によると、「(作曲するときに)全体の構想が一気に頭の中に浮かんできて各パートの旋律が一斉に鳴り響きます。大したご馳走ですよ。まるで一幅の美しい絵画を観ているみたいです。後で音符を書く段になれば、脳髄という袋の中からそれを取り出してくるだけです」(小林秀雄「モーツァルト」)という驚くべき体験を述べているが、他の音楽家たちが苦吟して作曲する過程とはまったく異なっていることがこれで分かる。

過程が違えば結果もまるっきり違う。あまりにも他とは隔絶した音楽なのでクラシックは「モーツァルト」をまったく別物として「その他作曲家たち」と、大きく区分すべきではなかろうか、なんて思ってしまう。

極めて乱暴な「珍説」だろう、この「その他作曲家たち」の範囲には、まことに畏れ多いがモーツァルトに匹敵する、あるいは上回る存在として語り継がれてきたバッハも、それからベートーヴェンでさえも入るのできっと大勢の顰蹙を買うに違いない。

しかし、あの600曲以上にもわたるモーツァルトの膨大な作品を指揮者や演奏などを違えながら、じっくり鑑賞するとなると、「その他作曲家たち」の試聴に時間を割くには「人生はあまりにも短すぎる」と想うんだけどなあ~(笑)。



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音楽ジャンルって何だろう

2023年10月23日 | 音楽談義

「音楽のジャンルといえば、まず意識するのが、クラシック、ジャズ、ポップス、歌謡曲などの区分ということになるが、いざこれらを「選り分ける具体的な基準は?」と問われると明快な答えを得るのはそう簡単なことではない。

たとえばクラシックとポップスの違い、ジャズとロックの違い、加えてクラシックひとつとってみても古典派とかロマン派といった分類がある。」

    

というのが、この本だった。著者は「みつとみ俊郎」さん。

本書の姿勢は、極端にマニアックな定義ではなく、標準的にこの程度の理解があれば、お互いに意思の疎通ができるような音楽のジャンルを示したというもので、根っこの部分では皆同じ音楽なのだという考えに立っている。これにはまったく同感。

音楽を聴くときに己の「琴線」に触れるものであれば「モーツァルトも演歌も同じだ。音楽に貴賤はない。」と思っているが、これは一部のクラシックファンにとっては眉をひそめるような話かもしれない。

つい先日もクラシック通の知人から申し出があったので「フランク永井」のCD盤を「
貸して」あげたところ、今や大の愛聴盤とのこと。音楽の食わず嫌いって意外と多いんですよねえ(笑)。

「メロディと歌詞」が一体となって切々と訴えかけてくる日本の歌謡曲は心情的にピタリとくるところがあって、やはり
人間の生まれ育ったルーツは争えない。

さて、テーマをクラシックのジャンルに移そう。

歌謡曲などと比べると極めて長い伝統を有するクラシックについてはどうしても身構えるところ多々あるが、いろんな歴史を知っておくと曲趣の理解がより一層増すという利点もたしかに無視できない。

音楽のジャンルを分ける基本中の基本は西洋音階(ドレミファソラシド)とそれ以外の民族特有の言語としての音階をもとに作られた音楽との二種類に分けられるという。

「クラシック音楽
の定義」となると一見簡単そうに見えて意外と手ごわい。そもそも定義なんてないに等しいが、結局のところ、古さ(歴史)、曲目の奥深さ、作曲家自身の多彩な人間像などがポップスなどとの境界線になる。

以上を踏まえて、クラシック音楽のジャンルの中味をそれぞれ定義するとつぎのようになる。以下、興味のない方はどうか素通りを~。

Ⅰ ルネッサンス音楽
14世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ・ルネッサンスの期に書かれた音楽作品の総称

Ⅱ バロック音楽
1600年から1750年ぐらいまでのヨーロッパの音楽を指す。大型の真珠の形のいびつさを形容するbarrocoというポルトガル語がもともとの語源で「ゆがんだ」「仰々しい」といった意味合いを持つ。

イタリア
モンテベルディ、ヴィヴァルディ、コレルリなど多彩な作品が多くバロック音楽をリードした。

フランス
リュリ、ラモーなどのクラブサン(チェンバロ)に特徴づけられ、オペラの中にバレエが頻繁に使われたのもフランスならでは。

イギイス
ヘンリー・パーセルが様々な作品を残し、ヘンデルがイギリスに帰化して「メサイア」などの完成度の高い、劇的な作品を数多く残した。

ドイツ
シュッツが宗教音楽を数多く残し、バッハが宗教曲、器楽曲に数多くの傑作を残した。

Ⅲ 古典派音楽
ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの初期までを中心とした1800年次前後のおよそ30年間のヨーロッパ音楽の総称。
メロディと伴奏がはっきり分かれるホモフォニック形式で作られているのが特徴で、これを音楽のスタイルとしてまとめたのがソナタ形式。

Ⅳ ロマン派音楽
19世紀始めごろから印象主義の始まる19世紀末までの作曲家たちで、もっとも多い。古典派のように形式にとらわれず旋律が自由で伸び伸びしており、メロディ主体の音楽が多い。

ベートーベンは古典派とロマン派の過渡期に位置しているがほかに、シューベルト、シューマン、ブラームス、ショパン、ヴェルディ、プッチーニ、ビゼー、ベルリオーズ、

そして、後期ロマン派としては、ワーグナー、マーラー、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウス、ムソルグスキーなどのロシア5人組、チャイコフスキー、グリーグ、スメタナ、ドヴォルザーク。

Ⅴ 印象派の音楽
近代音楽の幕開けを飾るドビュッシーやラベルなどのフランスの作曲家たちの音楽スタイル。
音楽の特徴はモネなどの絵画のように全体のつくりの焦点をぼやけさせ、始まりと終わりを合理的に解決しないところ。イギリスのディリアスなどの作品も印象派音楽として位置づけられる。

Ⅵ 近代音楽
ロマン派音楽と現代音楽との橋渡し的な役割として理解される面が多い。
ストラビンスキー、バルトーク、シベリウス、スクリャービン、シェーンベルク、ベルク、そして、ショスタコーヴィッチとプロコフィエフ。

Ⅶ 現代音楽
第一次大戦終了後から現在に至るまでの音楽を総称して現代音楽と呼ぶ。この中に含まれる音楽スタイルはさまざまで現在もなお進行中のジャンル。電子音楽の試みをしたシュトックハウゼン、前衛的なアプローチの第一人者ジョン・ケージ、自然音を楽器によって模倣しようとしたメシアンなどがあげられる。

最後になるが、本格的なクラシックの歴史がバロック時代(1600年~)からとすると今日までおよそ400年経過したことになる。一方、絵画の世界ではダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ」が描かれたのが1500年頃だからこちらの方が100年ほど古い。

西洋芸術の粋は音楽と絵画に尽きると思うが、いったいどちらに優位性があるだろうと、ときどき妙なことを考えてしまう。

ついては、ずっと以前に某新聞の「天声人語」にこんな記事が載っていた。

「絵画は音楽に負ける」と冒頭にあって「音楽に涙する人は多けれど、絵画で泣いた話はめったに聞かない」とあり、興味深いのは音楽側の人の発言ではなく、昭和洋画壇の重鎮、中村研一氏の言ということ。

耳からの情報は五感の中でも唯一脳幹に直結しており、感情が生まれる古い脳に最も近い。

だから、音楽を聴いて一瞬で引き込まれ、涙することもある。音楽の効用の一つに感情の浄化だと言われるのはそのためだ。

この天声人語の最後はこんな言葉で結ばれている。

「心がうらぶれたときは音楽を聴くな」(笑)。



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オーディオだけで音楽的感性を養うのは恐ろしいことだ

2023年10月20日 | 音楽談義

10日前(9日付け)に投稿した「音楽家とオーディオの希薄な関係」だが、今年最大のヒット作となって反響が大きかったのはすでに述べた通り。

といっても、すでに忘却の彼方にあり、どれだけの方が覚えておられるかな・・(笑)。

かいつまむと、指揮者や演奏家などの音楽家は練習時間が多すぎて音楽をゆったり楽しむ暇がなく自宅でもオーディオを必要としないという内容だった。

そして、文中の中で実例としてこういうことを記載していた。

「身近な例をあげると、桐朋学園を卒業後渡独して指揮者「チェリビダッケ」の薫陶を受けた高校時代の同窓生をはじめ、プロと称される音楽家でオーディオに熱心な事例を未だ見聞したことがない。」

で、その該当する高校時代の同窓生を仮にO君としておこう。福岡で「音楽教室」を主宰しているその「O君」からつい先日メールが届いたのには驚いた。10年ぶりぐらいだろうか・・。

「〇〇くん、ご無沙汰いたしております、福高17回生のOです。何年振りかで音楽ブログ・ランキングを開いてみたら、貴君が不動の〇位を続けておられて驚かされました。素晴らしいですね!!

 
その寄稿文を読むと(何と!)私のことにも触れておられて、二重に驚きました。何だろう...開いたのも「虫の知らせ」だったのでしょうか??

書かれている内容を読んで、欧州留学の第一歩をしるしたザルツブルグからウィーンに移り住んだ9月の下旬に、西日本新聞の依頼を受けた寄稿文をいくつかの短い文章にして書き送った事を思い出しました。

それらは10月中旬に一括して<文化欄>に掲載されたのですが、その中で〇〇くんの書かれていることに関連する部分を抜粋してお送りします。これが私なりの<答え>になるのではないかと思い、PDFを添付するとともに、以下に文章をペーストしておきます。

(昭和54年10月19日 西日本新聞 文化欄)

熱狂を読んだ小澤征爾 ーザルツブルグ音楽祭ーより抜粋)

なかでもバーンスタイン指揮、イスラエル響によるプロコフィエフの『交響曲第五番』は名演中の名演だった。立体映画でも見ているかのように、つぎからつぎへと飛び出してくるリズムと音の渦は会場全体を巻き込んでしまい、楽章間の小休止にも咳一つ聞かれないほど異様なふん囲気になってしまった。バーンスタインの偉大さを十二分に知らされた演奏会だった。

それにしても、音楽の一番肝心なものは、レコードにはけっして入りきれないのだと痛感した。

マイクロフォンから採られた音は、その音楽の外形と骨組みをレコードの音溝に残すのみで、今しぼり出され、生まれたばかりの音楽のエーテルのようなものは、そのときの聴衆の心に強い印象を残したまま、元の宇宙の裏側に消え去ってしまい、けっして現在のマイクロフォンでは採集できないものなのだ。

この点が、出来、不出来はあってもナマの演奏会でなければならぬ決定的理由であり、もしレコードだけで音楽的感性を養うとすれば、それは恐ろしいことだ。」

というものでした・・。

オーディオだけで音楽的感性を養っている身にとっては、非常に考えさせられる内容ですね・・。

畢竟(ひっきょう)「生の音楽」に比べると「オーディオ」は「箱庭」の世界かもしれない。

つまり、家庭でどんなに大型スピーカーや高級オーディオを揃えようと所詮は「五十歩百歩」・・。

とはいえ、長年親しんだ趣味であり、理屈抜きで生活の中に深く沁み込んでいるので今さら止めようがないし、止めるつもりもない。

むしろ、ほんの小さな音質の差にこだわり、微妙な差をかぎ分ける楽しみだってある・・、いわば「壺中の天」である。

ただし、O君のような現実論を脳裡の片隅に置いておくことは必要なことに違いない。

と、あれこれ物思いに耽るのに相応しい秋の好日が続く・・。


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