「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「音楽は楽譜で読むもの」なのか

2024年06月17日 | 音楽談義

図書館で新刊本の「ノーベル文学賞」というタイトルの本をざっと立ち読みしたところ、近年の選考基準は既に世界的に著名な作家、いわばポピュラーになった作家には与えない方針とかで、昔は既に有名になっていた「ヘミングウェイ」なども受賞しているのに、まことに手前勝手な都合のいい話だが何とも仕方がない。

これまで有望とされてきた作家の村上春樹さんはもはや有名になり過ぎたので、その目はもう無くなったというのが大方の見方だろうか・・、ただし村上さんは「エリーティズム」には程遠い作家なので、ノーベル文学賞を受賞できなくてもおそらく何ら痛痒を感じていないことだろう。

音楽好きで知られる彼の著作は希少なので見逃せない存在だが長編については、このところ根気がなくなってしまいなかなか読む気にならない・・、ただしインタビュー形式のエッセイは率直な語り口で非常に面白いので、機会あるごとに目を通している。

最近では、「村上春樹インタビュー集」~夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです~が面白かった・・、何と19本のインタビューが紹介されている。

               

つい読み耽ってしまったが、185頁に音楽ファンにとっては実に興味のある問答が収録されている。

「20世紀の偉大な文学作品の後にまだ書くべきテーマがあるでしょうか?文学にはもはや書くべきテーマも、言うべきものごともない、という意見に同意されますか?」

と、外国の愛読者が発する問いに対して村上さんはこう答えている。

「バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか?彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか?それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。」

とあり、以下長くなるので要約すると「音楽を作曲したり物語を書いたりするのは”意味があるからやる、ないからしない”という種類のことではありません。選択の余地がなく、何があろうと人がやむにやまれずやってしまうことなのです。」とあった。

文学的には、村上が理想とする書いてみたい小説の筆頭は「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)で、小説に必要なすべての要素が詰まっているそうで、そのことを念頭に置いて解答しているわけだが、興味を引かれるのは音楽的な話。

「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人組に対して、はたして他の作曲家の存在意義とは?」

これはクラシック音楽において常に問われる「旧くて新しい」テーマではないだろうか。

ほかにも「ブラームス、ワーグナー、マーラー、ブルックナーなどが居るぞ」と声高に叫んでみてもこれら三人組の重量感にはまったく抗しようがないのも、なんだか虚しくなる事実である。

とりわけ我が家では作曲家たちを「大木」に例えると、太い「幹」に当たる部分がモーツァルトでほかは「枝葉」に過ぎない・・、なんだよねえ~(笑)。


本書には、もうひとつ音楽に関して興味あることが書かれてあった。(312頁)

村上さんは映画が好きで青春時代に台本(シナリオ)を読み耽ったそうだが、それが嵩じてそのうち自分なりの映画を空想の中で組み立てていくクセがついてしまった。

それは、近代音楽の雄であるアーノルド・シェーンベルクが「音楽というのは楽譜で観念として読むものだ。実際の音は邪魔だ。」と、言っていることと、ちょっと似ているとのこと。

「実際の音は邪魔だ」とは実にユニークな言葉である


「楽譜を読みながら音楽を頭の中で想像する」ことが出来れば実にいいことに違いない。第一、それほど広くもない部屋の中で我が物顔で大きなスペースを占めているオーディオ・システムを駆逐できるのが何よりもいい(笑)。

「文学」は文字という記号で行間の意味を伝える仕組みになっているが、音楽だって音符という記号で情感を伝える仕組みだから同じようなものかもしれない。

もしかして、楽譜が読める音楽家がオーディオ・システムにとかく無関心なのもその辺に理由があるのかもしれないですね。

人間が勝手に描くイマジネーションほど華麗なものはないので、頭の中で鳴り響く音楽はきっと素晴らしいものに違いない。


これから音楽を聴くときはできるだけ頭の中で想像しながら聴くことにしようと心掛けたいところだが、この歳になるともう無理だよね~(笑)。



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