音楽評論家の「宇野功芳」氏といえばご存知の方が多いと思うが、あの独特の断定的な物言いがとても個性的で有名だ。
たとえばこういう調子。(「クラシックCDの名盤」から、デュ・プレが弾くエドガーの「チェロ協奏曲」について)
「67年、バルビローリの棒で入れたライブが最高だ。人生の憂愁やしみじみとした感慨に彩られたイギリス音楽に共通する特徴を備えるこの曲を、22歳になったばかりのデュ・プレが熱演している。第一楽章から朗々たる美音がほとばしり、ポルタメントを大きく使ったカンタービレは極めて表情豊か、造詣はあくまで雄大、ロマンティックな情感が匂わんばかりだ。」
こういう表現って、どう思われます?(笑)
クラシック通の間では評価が二分されており、「この人、またいつもの調子か」と やや嘲り をもって受け止める冷静派と、むしろ憧憬の念を持って受け止める熱情派と、はっきりしている。
自分はどちらかというとやや冷めたタイプなのでこういう大げさな表現はあまり肌に合わない。したがって前者の派に属しているが、まあ「死者に鞭打つ」ことは遠慮した方がよさそうだ。
「宇野功芳」さん「ご逝去」の報に接したのは8年前のちょうど6月頃だった。
享年86歳、しかも老衰が原因となると「天寿」をまっとうされたのではあるまいか。合掌。
その宇野さんの遺作となったのが「私のフルトヴェングラー」(宇野功芳著)。
我が音楽人生の中でフルトヴェングラーには深い思い出があって、20代前半の頃はそれこそフルトヴェングラーに のめり込んだ ものだった。ベートーヴェンの「第九」「英雄」、そしてシューベルトの「グレート」・・・。
本書の15頁に次のような記述がある。
「今や芸術家たちは技術屋に成り下がってしまった。コンクール、コンクールでテクニックの水準は日増しに上がり、どれほど芸術的な表現力、創造力を持っていてもその高度な技巧を身に着けていないと世に出られない。フルトヴェングラーなど、さしずめ第一次予選で失格であろう。何と恐ろしいことではないか。
だが音楽ファンは目覚めつつある。機械的なまるで交通整理のようなシラケタ指揮者たちに飽き始めたのである。彼らは心からの感動を求めているのだ。
特にモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなどのドイツ音楽の主流に対してもっと豊饒な、もっと深い、もっとコクのある身も心も熱くなるような演奏を期待しているのだ。
だからこそ死後30年も経ったフルトヴェングラーの音楽を必死になって追い求めるのである。実際に舞台姿を見たこともない、モノーラルレコードでしか知らない彼の音楽を熱望するのである。」
といった調子~。
クラシックのオールドファンにとって、黄金時代は「1950年代前後」ということに異論をさしはさむ方はまずおるまい。
綺羅星の如く並んだ名指揮者、名演奏家、名歌手、そして名オーケストラ。
随分昔のブログになるが「フルトヴェングラーとカラヤン」でも紹介したが、ベルリン・フィルのコントラバス奏者だったハルトマン氏がこう語っている。
「カラヤンは素晴らしい業績を残したが亡くなってまだ30年も経たないのにもうすでに忘れられつつあるような気がする。ところが、フルトヴェングラーは没後60年以上経つのに、未だに偉大で傑出している。<フトヴェングラーかカラヤンか>という問いへの答えは何もアタマをひねらなくてもこれから自ずと決まっていくかもしれませんよ。」
だがしかし・・。
本書の中で、フルトヴェングラーがもっとも得意としていたのはベートーヴェンであり「モーツァルトとバッハの音楽には相性が悪かった。」(23頁)とあったのに興味を惹かれた。
そういえばフルトヴェングラーにはモーツァルトの作品に関する名演がない!(強いて言えばオペラ「ドン・ジョバンニ」ぐらいだろう)
あの わざとらしさ がなく天真爛漫、 天馬空を駆ける ようなモーツァルトの音楽をなぜフルトヴェングラーは終生苦手としていたのか、芸風が合わないといえばそれまでだが・・・。
「モーツァルトを満足に振れない指揮者なんて認めない」というのが永年の持論だが、はてさてフルトヴェングラーをどう考えたらいいのだろう。
どなたか ご教示 をいただくとありがたいのですが・・。
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