ブログを始めてから19年と2か月になる。長いか短いかは別として、愚にもつかないことを毎回グダグダと書き連ねているわけだが、お馴染の読者さんならご承知のように内容の主体はオーディオがらみの話になっている。
で、ときどき目先を変える意味でオーディオ以外の話題、たとえばクラシック音楽の話に振ったりすると途端にアクセスがガクンと落ちてしまう(笑)。
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」・・、おそらく世間一般的にクラシック音楽の話にはあまり興味がないことの一つの証左になるのだろう。
まあ、アクセス数の多寡なんか他人にとってはどうでもいいことだろうし、本人にとっても何らかの得失につながるわけでもないのだがクラシック音楽の現状に対して思わず「ため息」をつきたくなる。
ジャズなんかはファン層からして一様に元気がいい印象を受けるのだが、クラシックファンとなると先細りの傾向だと思うのは自分だけだろうか。
それにクラシック音楽は自己の内面に「静謐(せいひつ)感」を持っていないと鑑賞できない音楽だが、身の回りにこうもネットやスマホの情報が氾濫して騒々しい世の中ともなると、ますます環境が悪くなり「退屈な音楽」として時代に取り残されていくばかりのように思われてならない。
折しも、先日の日本経済新聞の文化欄に次のような記事が掲載されていた。
タイトルは「クラシック界の未来」。記事の作者は「片山杜秀」(かたやま・もりひで)氏で、音楽評論家であり、また現役の慶応大学教授としてご活躍されている。
内容をかいつまんでみると以下のとおり。
「クラシック音楽はポップスなどと比べると効率が悪く、コンサートの開催などにとてもお金がかかる。そこで関係者が心配しているのが文化芸術に対する公的規模の助成の削減だ。オリンピック後は予算が介護や教育で手いっぱいになってしまうし、そもそもクラシック音楽の優先順位は決して高くないのでこれから衰退の一途をたどるばかりではなかろうか。
日本の豊かさのモデルは欧米にあり、品のいい欧米の上流・中流家庭のイメージに見合うのはまずその種の音楽だった。大正や昭和初期の富裕な高学歴層のステータス・シンブルの一つは西洋クラシック音楽であり、それが理解できることが先端的な教養だった。
しかし、それは一時の夢だったようで、60年代以降の若者たちは高齢世代への反発も手伝ってロックやフォークに自由な気分を求めていった。この世代は歳を取ってもクラシック音楽になびかない。日本に限らず欧米でもそうなっている。
クラシック好きの割合は「40~50代」は上の世代よりも激減しているのがコンサートの客層からして見て取れる。今後、先進資本主義国の経済と社会の様相は変貌する一方であり、厚い中産層が解体して貧富の差が広まる。それはすなわちクラシック音楽の趣味を持ちうる階層が壊れていくことである。
それでも西洋諸国にとってのクラシックは「伝統芸能」であり「観光資源」であるから無くなっては困るというコンセンサスは残るだろう。だが日本は歌舞伎や文楽や能もある。クラシック音楽は援助しないと成り立たない厄介な外来文化にすぎない。その事情がますます顕在化するのが令和の御代になるのだろう。
厳しい時代だ。とはいえ、クラシック音楽は一定規模で定着している趣味には違いない。たとえ縮小するにしても市民権はある。適正な規模での生き残りの主張をしていけば、なお未来はあると信じている。」
とまあ、大要は以上のとおり。
実際にその通りなんだろうし、内容にいろいろケチをつけるつもりはないのだが、すでにお気づきの方もいると思うが、「クラシックはコンサートに尽きる、したがってお金がかかり過ぎるので衰退の一途を辿るだろう。」という論調がちょっと気になる。
何もコンサートには行かなくても自宅のオーディオシステムでささやかながらクラシック音楽を楽しんでいる連中はいっぱい居るのになあ(笑)。
女流ピアニストの「マリア・ジョアオ・ピリス」は、いつぞやのテレビ番組で「何も着飾ってコンサートに行く必要はない。それよりも日常の家庭生活の中で身近にクラシック音楽を楽しむべきだ。」と言っていた。その通りだと思う。
むしろコンサートの減少云々よりも、これからクラシック音楽を若い世代、とりわけ幼少期にどうやって広げていくかが課題というべきだろう。
別にクラシック音楽に親しむことで他人に優しくなれるわけでもないし、世の中のお役に立てるわけでもないが、個人の人生が豊かになることはたしかだし、情操教育にもいくらかは役に立つことだろうから、幼少期からのクラシック音楽への触れ合いはとても意義のあることだと思う。
自分の拙い経験で言わせてもらうと、小学校の低学年のときにプラネタリウムを見学したときのこと、星座が投影されていく中でBGMとして流されていた音楽が何となく頭の片隅に残り、ずっと後になってそれがシューベルトの「未完成」交響曲の一節だったことが分かった。
したがって学生時代になって最初に購入したレコードはいまだに忘れもしない「運命/未完成」(ブルーノ・ワルター指揮)だった。
今思うと、あれがクラシック音楽に芽生えた瞬間だったんだよなあ~。
とにかく「食わず嫌い」が一番良くないので小中学生ぐらいのときに、どうやってクラシック音楽に触れ合う機会をつくるかが肝要だと思う。
たとえば学校に安価でもいいから、そこそこのシステムを設置して授業などを通じて音楽鑑賞をしたり、時間外にはオーディオシステムによるコンサートを開いたりするも一つの方法かと思うが、こればかりはひとえに教師の熱意にかかっているがはたして現実はどうなんだろう。
そういえばマニアの遺族が不要になったオーディオ機器類を小中学校に寄贈できる仕組みがあったりするといいかもしれない。すると管理もたいへんそうなので「校医」ならぬ「音楽&オーディオ医」も必要かもしれないですね。
もし要請されたとしたら、ボランティアとして喜び勇んで駆け付けますよ~(笑)。
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