昨日(1日)は一日中シトシトした「雨」でした。夕食のときに家人と「冬の雨の日はとかく気が滅入るなあ」と話したことだった。そういう気分を引き継いだままブログをつくってます(笑)。
さて「挨拶とスカートは短い方がいい」という言葉は、今では禁句らしいが、かって高校時代の同級生から「お前のブログは長すぎる!」と説教されたことがある。
そうかなあ・・、ちょっと「くど過ぎる」かもしれんなあ。最終的に判断されるのは読者ですけどね(笑)。
なぜ長くなるのか・・、実は舌足らずで読者に意が十分伝わらないのが嫌なタイプなんです。
ただし、時間をかけて念入りにつくった積りの自信作が嫌われてアクセスがサッパリだったり、逆に肩の力を抜いた小品が好評だったりで、その辺の反応が実に刺激的で、これがなかなかブログを止められない理由の一つ。
いわば平凡な日常生活においてスリルとサスペンスを味わえる貴重な役割を果たしているわけです(笑)。
それに、読者の反応を通じて「自分の感覚」と「世間の感覚」とのズレを楽しめる余禄もあるわけで、中には投稿した期日を過ぎてもずっとアクセス・ランキングに留まっているような、後に尾を引く記事をときどき見かける。おそらく何がしかの読者の共感を強く引き付けるものがあるのだろう。
そういう中の一つが「オーディオは音楽鑑賞の手掛かりに過ぎないのだろうか」という記事。
当時のアクセス数は「並み」だったが、通常であればせいぜい2~3日で消え去っていく運命なのにいまだに過去記事ランキングに時々顔を出すほどのロングラン!
記事の内容を要約すると「音楽鑑賞をするうえでオーディオシステムの役割っていったい何だろうか」という、かなり大上段に振りかぶったテーマだったのだが、読み返してみると相変わらず「舌足らず」の感は否めない(笑)。
というわけで、読者の興味に後押しされてもう少し踏み入ってみよう。
以下、あくまでも取るに足りない田舎のブロガーの私見ですから過剰に反応しないようにねえ~、日本は中国と違って「公序良俗」に反しない限り言論の自由があるので助かります(笑)。
あっ、そうそう・・、あるメル友さんから通報がありました。「あなたの記事にえらく怒っている人がいますよ」
いわば筆禍事件だが、この世にごまんとあるブログの内容にいちいち腹を立てて攻撃するようじゃ身が持たないです。精神衛生上良くないでしょうから、ご本人のためにもこのブログへの「出入り禁止」を強く求めます。
音楽&オーディオは見解の相違を乗り越えて楽しくやらないと~。ちなみにこの種の事件は19年やってきて3件目です。1件目は「お前ははしゃぎ過ぎだ!」、2件目は「タンノイの悪口を言うな、けしからん!」、やっぱり筆者の不徳の致すところかなあ~(笑)。
で、前置きが長くなったがオーディオの要諦は周知のとおり「原音再生にあり」ですよね。
言い換えると「録音現場の生の音」をそっくりそのまま、雰囲気でさえも再生することがベストですが、それは物理学的にみてとうてい無理な話ですね。
そもそも「電気回路を通した音」が「生の音」に太刀打ちできるはずがないです。コンサートホールの豪壮かつ雄大な低音を個人の家庭で出そうなんて、想像するだけで虚しくなります。
となると、二つのアプローチに大別できるでしょう。
一つは無理ながらも出来るだけ「原音再生に近づくことを目指す」方向へ、もう一つは割り切って「原音再生に拘ることなく聴感上、音楽の脳内イメージを膨らましやすいようなサウンドを目指す」方向へ。
仮に前者が「オーディオ向きのサウンド」であり、後者が「個性に応じた音楽鑑賞向きのサウンド」としましょう、もちろん好き好きですからどちらがいいも悪いもないです。
なかなか抽象的で理解しづらいテーマなので実例を挙げてみましょう。
たとえばモーツァルトの晩年のオペラに「ドン・ジョバンニ」がある。
大好きな「魔笛」に匹敵するほどの傑作だと思うしドラマティックという点では古今東西でもベスト1のオペラだが、これまでいろんな指揮者のものを聴いてきた。
評判のいいヨーゼフ・クリップスを始め、リッカルド・ムーティ、ダニエル・バレンボイムなどだが、残念なことにいまだに「フルトヴェングラー」以上の演奏にお目にかかったことがない。
主人公「ドン・ジョバンニ」のふてぶてしい悪漢振りと登場人物たちの心理のあやが音楽的に実にうまく表現されている気がして、深い感銘を受けるわけだが、その一方では何しろ当時(1953年)のことなのでモノラル録音だし、それにライブなのでかなり音質が悪い。
したがってこの演奏は音楽鑑賞向きとしては満点だがオーディオ向きとしては非常にお粗末といったことになるが、こんな名演奏を聴かされると音質の悪さなんかどうでもいいような気持にさせられるのが不思議。オーディオ愛好家にとっては大いなる矛盾といっていいです。
これがそっくりそのまま前述の「音楽鑑賞向きのサウンド」に当てはまる。
フルトヴェングラーが意図したサウンドは「ドイツの鬱蒼とした森を思わせるような塊の音で旧式のSP録音に向いている」(「片山杜秀」氏)そうで、その演奏をオーディオ向きの分解能が優れて高音域のレンジが伸びたスッキリした音で聴くとどうなるか・・、結果はもう見えてますよね(笑)。
しかも、この種の音楽はレンジが広くなると密度が薄くなってくる印象がしてくるから不思議。
つまり、何が言いたいかというと「オーディオ向きの音が必ずしも音楽鑑賞にとっていい音とは限らない!」
この「フルトヴェングラー全集(107枚)」だけど、ちょくちょく聴くように心がけており、耳が安易な方向(?)に行かないように戒めている積り(笑)。
とはいえ、再生技術が進歩した現代ではオーディオ向きの音を第一に優先する人がいてもちっとも不思議ではないし、むしろそれが圧倒的な多数派になるのだろう。
せいぜい「フルトヴェングラーって誰?」というのが落ちでしょう(笑)
何しろ1950年代前後の往年のマエストロたちによるクラシックの黄金時代を知らない人たちが増えるばかりだから、「音楽愛好家」と「オーディオ愛好家」の線引きが複雑になるのもこの辺に由来している気がする。
関連して、これまで周辺で「オーディオに飽きてしまって長続きしない」いわゆる挫折組のケースをちらほら見てきたが、残念なことにきまって「音楽を心底から愛していない人たち」だった。
結局、「音楽あってのオーディオ」なんですよね~。
以上、50年以上クラシック音楽にのめりこんできた一介の素浪人の戯言です~、ご参考になれば幸いですがやっぱり くど過ぎる かなあ。
明日のアクセス結果を興味深く見守りましょう(笑)。
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