毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
世界遺産
世界遺産とは1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて登録された文化・自然遺産をいう。国や民族をこえて人類が共有すべき普遍的な価値をもつ遺産を対象としているが、現在、日本の中で世界遺産に登録されているのは全部で13箇所ある。文化遺産としては、「法隆寺地域の仏教建造物」「姫路城」「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)「白川郷・五箇山の合掌造り集落」「原爆ドーム」「厳島神社」「古都奈良の文化財」「日光の社寺」「琉球王国のグスク及び関連遺産群」「紀伊山地の霊場と参詣道」。自然遺産としては、「屋久島」「白神山地」 「知床」が登録されている。
なぜまたこんなことを書き出したかといえば、太田光・中沢新一「憲法第九条を世界遺産に」(集英社新書)を読んだからだ。太田光といえば、漫才コンビ「爆笑問題」の一人である。私は彼を「笑っていいとも」の水曜日のレギュラーとして見かけるだけだが、妻に言わせると、深夜の番組ではかなり政治的な発言もしていて、最近はちょっと大丈夫か?という感じがするらしい。そんな彼が人類学者(と自らは言っている)の中沢新一と日本国憲法に関して交わした対談をまとめたものが本書である。
私など憲法どころか政治に関しては全くの無知で、ノンポリと公言してはばからない男であるが、「憲法第九条を世界遺産に」などという表題を見ればどうしたって好奇心がわく。しかもこの二人の意外な(私の勝手な印象)組み合わせとあれば、否が応でも読んでしまう。まあ、仕掛けられた罠にまんまとはまったようなものだ。
憲法についての論議はさまざまある。しかし一番大事なのは、さまざまな考えを自由に表明できる状況を常に維持していかなければならないということだ。どれだけ己の意見とかみ合わないものをもった人の意見でも、しっかりと耳を傾け、その上で己の考えをはっきりと表明する。そうした冷静な議論が、ともすればヒステリックな叫びによってかき消されてしまう、そういった状況に追い込まれることがないようにしなければならない。そうした前提の上に立って、本書に展開される論議も見ていく必要があると思う。
「第9条を世界遺産に」と言い出したのは太田の方らしい。彼は、「戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのは、あの瞬間しかなかったんじゃないか。日本人の、十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これは、もう誰が作ったとかいう次元を超えたものだし、国の境すら超越した合作だし、奇跡的な成立の仕方だなと感じたんです。」と述べる。それに、中沢が「それ(日本国憲法)は言葉にされた理想なのですから、現実に対していつも有効に働けるとはかぎらない。働けないケースのほうがずっと多いでしょう。でも、たとえそれでも、そういうものを捨ててはいけないんです。そういうものを簡単に捨ててしまったりしたら、日本人は、大きな精神の拠り所を失うと思います。この憲法に代わるものを僕たちが新たに構築するのは、不可能です。」と応じる。こうして彼らは、世界遺産に登録して守っていく価値があるのだという結論に達する。
確かに、二人の言うとおりだと思う、理想としては。何も間違っていないし、崇高な理念であるとさえ思う。日本国憲法が世界遺産に登録されてもいいと思う。しかし、ここからがややこしくなる。理想としての日本国憲法を認めることはできても、現実として国民の命を守るための憲法としてはたして有効なのかどうか。理想だけで、理想を守っていくだけで、国家として現実に生きていくことができるのだろうか。この点に疑問をさしはさむ人も多くいることだろう。そういう観点から言えば、もっと現実に即した憲法を日本は持つべきだ、という意見も当然出てくるであろう。「理想と現実」、日本国憲法をめぐる議論はここに収斂されているように思う。
しかし、理想とは現実に立脚したものでなければただの幻想となってしまうのと同様に、理想を持ってそれに近づこうとしない現実など生きるに値しないものとなってしまうだろう。「理想と現実」、それは決して相反するものではなく、互いに補完しあうものでなくてはならない。憲法に即して言うなら、理想派と現実派、それぞれがお互いの意見を尊重し合いながら、よりよい明日を作り出していこうとすること、それが現代では一番求められているように私は思う。決してタブー視することなく、オープンに議論するようになっていけばもっと違う展開が生まれてくるのではないだろうか。
とまあ、まるで考えのない男がたまたま読んだ書物に刺激されて、甘っちょろいことを書いてしまった。
なぜまたこんなことを書き出したかといえば、太田光・中沢新一「憲法第九条を世界遺産に」(集英社新書)を読んだからだ。太田光といえば、漫才コンビ「爆笑問題」の一人である。私は彼を「笑っていいとも」の水曜日のレギュラーとして見かけるだけだが、妻に言わせると、深夜の番組ではかなり政治的な発言もしていて、最近はちょっと大丈夫か?という感じがするらしい。そんな彼が人類学者(と自らは言っている)の中沢新一と日本国憲法に関して交わした対談をまとめたものが本書である。
私など憲法どころか政治に関しては全くの無知で、ノンポリと公言してはばからない男であるが、「憲法第九条を世界遺産に」などという表題を見ればどうしたって好奇心がわく。しかもこの二人の意外な(私の勝手な印象)組み合わせとあれば、否が応でも読んでしまう。まあ、仕掛けられた罠にまんまとはまったようなものだ。
憲法についての論議はさまざまある。しかし一番大事なのは、さまざまな考えを自由に表明できる状況を常に維持していかなければならないということだ。どれだけ己の意見とかみ合わないものをもった人の意見でも、しっかりと耳を傾け、その上で己の考えをはっきりと表明する。そうした冷静な議論が、ともすればヒステリックな叫びによってかき消されてしまう、そういった状況に追い込まれることがないようにしなければならない。そうした前提の上に立って、本書に展開される論議も見ていく必要があると思う。
「第9条を世界遺産に」と言い出したのは太田の方らしい。彼は、「戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのは、あの瞬間しかなかったんじゃないか。日本人の、十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これは、もう誰が作ったとかいう次元を超えたものだし、国の境すら超越した合作だし、奇跡的な成立の仕方だなと感じたんです。」と述べる。それに、中沢が「それ(日本国憲法)は言葉にされた理想なのですから、現実に対していつも有効に働けるとはかぎらない。働けないケースのほうがずっと多いでしょう。でも、たとえそれでも、そういうものを捨ててはいけないんです。そういうものを簡単に捨ててしまったりしたら、日本人は、大きな精神の拠り所を失うと思います。この憲法に代わるものを僕たちが新たに構築するのは、不可能です。」と応じる。こうして彼らは、世界遺産に登録して守っていく価値があるのだという結論に達する。
確かに、二人の言うとおりだと思う、理想としては。何も間違っていないし、崇高な理念であるとさえ思う。日本国憲法が世界遺産に登録されてもいいと思う。しかし、ここからがややこしくなる。理想としての日本国憲法を認めることはできても、現実として国民の命を守るための憲法としてはたして有効なのかどうか。理想だけで、理想を守っていくだけで、国家として現実に生きていくことができるのだろうか。この点に疑問をさしはさむ人も多くいることだろう。そういう観点から言えば、もっと現実に即した憲法を日本は持つべきだ、という意見も当然出てくるであろう。「理想と現実」、日本国憲法をめぐる議論はここに収斂されているように思う。
しかし、理想とは現実に立脚したものでなければただの幻想となってしまうのと同様に、理想を持ってそれに近づこうとしない現実など生きるに値しないものとなってしまうだろう。「理想と現実」、それは決して相反するものではなく、互いに補完しあうものでなくてはならない。憲法に即して言うなら、理想派と現実派、それぞれがお互いの意見を尊重し合いながら、よりよい明日を作り出していこうとすること、それが現代では一番求められているように私は思う。決してタブー視することなく、オープンに議論するようになっていけばもっと違う展開が生まれてくるのではないだろうか。
とまあ、まるで考えのない男がたまたま読んだ書物に刺激されて、甘っちょろいことを書いてしまった。
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