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「美しい国へ」

 内閣総理大臣安倍晋三(私のPCでは「しんぞう」と入力して「晋三」と一発変換されない)が著したとされる「美しい国へ」を読んでみた。彼が内閣総理大臣に就任して最初の国会での演説で、やたら「美しい国」という言葉を連発しているのをラジオで聞いて、なんだか薄ら寒い印象を受け、彼がその言葉で何を表現しようとしているのか知りたくなった。「美しい」という形容詞が「国」という名詞を修飾するとき、虚心坦懐には受け取れないような気がして仕方がなかった。その後の国会での質疑応答を少し聞いても、どんな美しい国を彼が作っていこうとしているのか一向に分からなかった。ならば、彼の著書(?)を読んでみるのが一番いいのかなと思って、かなり勿体無い気がしたが、思い切って買ってみた。
 家に帰ってすぐ「はじめに」を読んだのだが、
 『初当選して以来、わたしは、つねに「闘う政治家」でありたいと願っている。それは闇雲に闘うことではない。「スピーク・フォー・ジャパン」という国民の声に耳を澄ますことなのである』(P.4)
などと書いてあった。政治家の著書など何の衒いもなく自画自賛を書き並べたものであるとは覚悟していたが、のっけからこれではとても読めないなと、一瞬のうちに気持ちが萎えてしまい、しばらく放置してあった。
 ところが、先週喫茶店で『週刊現代』を読んだところ、高橋源一郎が自分のコラムの中で、「美しい国へ」を取り上げていた。それがなかなか面白かったので、このブログで紹介したくなったが、元の本を読了していないことには論ずる資格などないと思い立って、気持ちを奮い立たせて再び手に取ってみた。高橋は、この新書版で230ページ余りの書を1時間足らずで読んだと書いてあったが、あながち法螺でもなさそうだ。とにかくすらすら読める。難しいことは何も書いてない。高校の政治経済の教科書を読んでいるようなものだ。昭和になってからの日本の政党政治のアウトラインをなぞりながら、アメリカやイギリスの政治家の話もちりばめて、自民党政治の正当性を滔滔と述べている。その信念たるや確固たるもので、生まれ付いての政治家であり、総理大臣になるために生まれてきたような人間のように思えてくる。とにかく己に迷いがないのは素晴らしい。そのことを高橋は、
『かつて、多くの保守政治家たちは、父親たちの保守主義に反抗して、いったん正反対の極端な革命思想に向かいました。そして、そこで、現実というものに触れ、自らの思想の脆弱さに気づき、保守主義へと戻っていったのです。彼らはあてがわれた思想ではなく、自分で考えようとして苦しみました。結果として、同じ保守主義者になったとしても、安倍君とはまるで違うのです。
 彼らは『保守』の外にも、さまざまな生きた考え方があること、その思想を生きていこうとする人たちがいることを知っていました。しかし、安倍君は、祖父や親から受け継いだ『保守』の他には何も知らない。というか、知ろうとする気になれない』
と批判するが、先にこの文章を読んで納得してしまった私には「美しい国へ」をどこまで読んでも、安倍晋三の平板さしか見えてこなくなってしまった。
 何とかがんばって最後まで読み通したのだが、書いてあることは終始自民党のマニフェスト、美辞麗句を並べた選挙公約のようなもので、彼が頻発していた「美しい国」なるもののイメージはまったく見えてこなかったし、一言も触れていなかった。まるでだまされたような気がしないでもないが、本編を読み終えたあとの「あとがき」に
 『この国を自信と誇りの持てる国にしたいという気持ちを、少しでも若い世代に伝えたかったのである』(P.232)
と書いてあった。なんだ、「美しい国」というのは、「自信と誇りの持てる国」のことなのか。えっ?それじゃあ、最初の4ページの言葉を読んで、最後の232ページを読みさえすればこの本を読んだことになるの?その間のページは延々と、安倍晋三という人物がどんなに薄っぺらな人間であるかを自分で証明したことになるの?えっ、それじゃあ、そんな人の言葉に踊らされてしまうかもしれない私たち国民はどうなるの?
 
 残念ながら、そんな読後感しか残らない本だった。

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