毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「小さな花」
加藤周一氏が亡くなった。享年89歳、天寿を全うされたと言ってもいいのだろうか・・。
私などが氏について何か述べるのはおこがましくて、とても恐れ多い。だが、何冊か著書を読み、少なからず影響を受けた者としてお悔やみの言葉は残しておかねばならないと、はなはだ僭越ながらここに少しばかり思いを記しておくことにした。
私はジレッタントとして、古今東西の知を網羅しているまさに「知の巨人」と称すべき碩学の著作を、ほんの一部だけではあるが、読んできた。高校生の頃初めて林達夫の著作を読んだとき、これほどあらゆる知に精通した人がいるのか、と魂が揺さぶられるのを感じた。森有正や花田清輝の著作からも大きな刺激を受けた。少しでも彼らに近づけたら・・、などと少年の私は大志を抱いたが、抱いただけで残念なことに何もせずに終わってしまった。
為政者は後世に物を残す。しかし、それは時とともに滅んでしまう。一方「知の巨人」たちは目に見えるものを何も残したりはしない。しかし、彼らに多大な影響を受けた者たちが次の時代へ彼らの精神を伝えていき、彼らの思いは永遠のものとなる。そうした知の営みを己の人生の中心に据えようと思った時期が私にもあったが、今となってははるか昔の記憶でしかない。己の中途半端さが身に沁みている今の私では、それも当然の結果だと思いはするが、できればもう少し何とかしたかったと思わないでもない・・。
そんな私であるから、「知の巨人」の系譜に連なる加藤周一氏の著作を折に触れて読むたびに、「やっぱりすごいな」と己の不勉強さを感じるばかりで少々辛くなる。それでも氏の著作から滲み出す思いを受け取ることはできる。今私の手元に、2003年に発行された「小さな花」という氏の論考集がある。その中に氏が「羊の歌」(岩波新書)を書き終えてからの35年を振り返った短い文章が載せられている。氏の死去を知って、改めて読んでみたが、氏の生き様の一端が垣間見られるようで、興味深い一文となっている。少し引用してみる。
「(35年の間に)私は何をしてきたか。半ばは日本の国内で、半ばは国外で暮らし、幾人かの忘れがたい人々に出会い、また幾人かのかけ換えのない人々と別れた。そこには知的刺戟があったばかりではなく、感覚的よろこびや信じられないほど幸福な瞬間もあった。もちろん意に任せぬことも多かったが、私は私の暮らし方を基本的には変えなかったと思う。変えることができなかったからでもあり、変えることを望まなかったからでもあろう」
「カネもなく、権力もなく、組織にも属さない私は、常に個人として一市民として、日本社会の周辺部にとどまった」
「社会の周辺に暮らせば、影響力を失う。しかし精神の自由を最大にすることができる。渦中の人間にとって状況の全体を客観的に冷静に見透すことは困難であろうが、周辺の位置は、観察し、分析し、理解するためには便利である。ふり返ってみれば、私は環境を変えることよりも、まず理解することを望んでいたのかもしれない」
「私は『老い』について語らない。また想出のすべてに触れようともしない。そのほかにまだ為(す)ることが、――あるいは為(し)たいと思うからである」
氏は日本国憲法を擁護する「九条の会」の設立メンバーでもあったが、氏の平和を望む思いが端的に表された文が同じ「小さな花」の中にある。
「私は私の選択が、強大な権力の側にではなく、小さな花(アメリカのヴェトナム征伐に抗議したヒッピーズの中の一人の若い女が、相対する武装した兵隊の一列に差し出した)の側にあることを、望む。望みは常に実現されるとは、かぎらぬだろうが、武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、みずからを合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差しだされた無名の花の命を、私は常に、限りなく美しく感じるのである」
氏の遺志を受け継ぐことなど無力な私には到底かなわぬことだが、その実現に向けて微力ながらも力添えができるよう、努力していきたいと思う。
心からご冥福を祈ります。
私などが氏について何か述べるのはおこがましくて、とても恐れ多い。だが、何冊か著書を読み、少なからず影響を受けた者としてお悔やみの言葉は残しておかねばならないと、はなはだ僭越ながらここに少しばかり思いを記しておくことにした。
私はジレッタントとして、古今東西の知を網羅しているまさに「知の巨人」と称すべき碩学の著作を、ほんの一部だけではあるが、読んできた。高校生の頃初めて林達夫の著作を読んだとき、これほどあらゆる知に精通した人がいるのか、と魂が揺さぶられるのを感じた。森有正や花田清輝の著作からも大きな刺激を受けた。少しでも彼らに近づけたら・・、などと少年の私は大志を抱いたが、抱いただけで残念なことに何もせずに終わってしまった。
為政者は後世に物を残す。しかし、それは時とともに滅んでしまう。一方「知の巨人」たちは目に見えるものを何も残したりはしない。しかし、彼らに多大な影響を受けた者たちが次の時代へ彼らの精神を伝えていき、彼らの思いは永遠のものとなる。そうした知の営みを己の人生の中心に据えようと思った時期が私にもあったが、今となってははるか昔の記憶でしかない。己の中途半端さが身に沁みている今の私では、それも当然の結果だと思いはするが、できればもう少し何とかしたかったと思わないでもない・・。
そんな私であるから、「知の巨人」の系譜に連なる加藤周一氏の著作を折に触れて読むたびに、「やっぱりすごいな」と己の不勉強さを感じるばかりで少々辛くなる。それでも氏の著作から滲み出す思いを受け取ることはできる。今私の手元に、2003年に発行された「小さな花」という氏の論考集がある。その中に氏が「羊の歌」(岩波新書)を書き終えてからの35年を振り返った短い文章が載せられている。氏の死去を知って、改めて読んでみたが、氏の生き様の一端が垣間見られるようで、興味深い一文となっている。少し引用してみる。
「(35年の間に)私は何をしてきたか。半ばは日本の国内で、半ばは国外で暮らし、幾人かの忘れがたい人々に出会い、また幾人かのかけ換えのない人々と別れた。そこには知的刺戟があったばかりではなく、感覚的よろこびや信じられないほど幸福な瞬間もあった。もちろん意に任せぬことも多かったが、私は私の暮らし方を基本的には変えなかったと思う。変えることができなかったからでもあり、変えることを望まなかったからでもあろう」
「カネもなく、権力もなく、組織にも属さない私は、常に個人として一市民として、日本社会の周辺部にとどまった」
「社会の周辺に暮らせば、影響力を失う。しかし精神の自由を最大にすることができる。渦中の人間にとって状況の全体を客観的に冷静に見透すことは困難であろうが、周辺の位置は、観察し、分析し、理解するためには便利である。ふり返ってみれば、私は環境を変えることよりも、まず理解することを望んでいたのかもしれない」
「私は『老い』について語らない。また想出のすべてに触れようともしない。そのほかにまだ為(す)ることが、――あるいは為(し)たいと思うからである」
氏は日本国憲法を擁護する「九条の会」の設立メンバーでもあったが、氏の平和を望む思いが端的に表された文が同じ「小さな花」の中にある。
「私は私の選択が、強大な権力の側にではなく、小さな花(アメリカのヴェトナム征伐に抗議したヒッピーズの中の一人の若い女が、相対する武装した兵隊の一列に差し出した)の側にあることを、望む。望みは常に実現されるとは、かぎらぬだろうが、武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、みずからを合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差しだされた無名の花の命を、私は常に、限りなく美しく感じるのである」
氏の遺志を受け継ぐことなど無力な私には到底かなわぬことだが、その実現に向けて微力ながらも力添えができるよう、努力していきたいと思う。
心からご冥福を祈ります。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )