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クウキを読め

 藤原智美著「検索バカ」(朝日新書)を読んだ。この本を書店で見つけたときは、ネットで検索して手に入れた知識をさも自分が調べて身につけた薀蓄のごとく語る者たちを「バカ」と揶揄しているのかな、と思った。ネット検索で見つけた情報を自らの論文に登用する大学生や、ネット上にある読書感想文をコピペして提出してしまう小中高生が近年増加していると言われている。そうした傾向は厳に戒めるべきであるが、知識を得る手段としてネットは本当に便利だ。私もこのブログの記事を書くときに、Wikipedia をコピペして貼り付けることは時々やっているので、その手軽さは熟知している。だが、私の場合、知識の不足を補う1つの手段として利用しているだけで、そこに書かれていることをそのまま全て書き写したりしたことはない。自分で見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを記すことこそが私のブログの本分だと思っているので、できるだけ自分の言葉を使って表現しなければいけないと常に自戒している。
 だが、本書の論点は「検索」から次第に離れていく。著者が本書で訴えたかったことは、現代の日本社会を覆っている「クウキを読め」という風潮がもたらしている「思考停止状態」のことであると私は思う。筆者は言う、
 「『昭和30年代までの日本は、地域共同体に根ざした地縁という結びつきが世間を形成して』いた。(P.121)しかし、日本の高度経済成長とともに、農村から都市へ、都市から郊外へと住まいが流動化することによって、隣近所との付き合いが極端に減っていき、地域の共同性が失われ、地縁もどんどん薄くなっていった。その結果、「私は現代日本には世間がなくなったと思っています。その空白に侵入してきたのがクウキです。世間からクウキへと『日常の制御機能』が入れ替わったのです」(P.116)
 確かにその場を支配する漠然とした雰囲気と呼ぶべきものはどこにでもある。「クウキを読む」とは、神経を研ぎ澄ませて、その雰囲気を察知することであろう。私もその雰囲気をまるで感じ取らずに己の思惑だけで行動するものに対して、「クウキを読め」と非難したことは何度かある。しかし、筆者は「クウキ」というものをもう一歩深刻に受け止め、その場にいる者たちが従わざるを得ない大きな力を持ったものだと捕らえている。そして「長いものには巻かれろ」式に、自らの頭で何も考えることなく、その場のクウキに唯々諾々と従ってしまう現代日本の大勢に激しい警鐘を鳴らす。作者にとって、「クウキを読め」といことは、「その場にある力関係、その関係によって自分が求められている役割を嗅ぎとり、そのまま演ずること」(P.92)であり、「自分の思考をショートカットして、他者に解決策や結論をゆだねる」(P.219)ことである。ゆえに、「『考えぬく』という営みによってこそ自分の言葉を獲得し、自分の『生』をまっとうすることができる」(P.227)と考えている著者にとっては、「『クウキを読め』という言葉を聞いたら、即座に『もっと卑屈に生きろ』と言われたのだ、と思うように」(P.108)しているとまで言い切ることになる。
 したがって、「クウキ読みの日常を打ち破り、自分で考える時間を取り戻す」ことが大切だという結論となるのだが、結論としては、当然過ぎるほどまっとうな言葉であって、題名につられて読み始めた私はいささか拍子抜けしてしまった。その当たり前さは、半年前に読んだ姜尚中の「悩む力」で述べられていたことと通底しているように思えた。確かに、毎日子供たちに勉強を教えていて、考えることを嫌がる生徒は本当に多い。少し考えたら分かるはずの問題でも、考えるのをすぐにやめてしまったり、私に教えてもらおうとしたりする。そうした場合、「もう一度問題をよく読んで考えてみろよ。きっと分かるよ」とアドバイスすることにしている。たとえ答えは出なくても、自分の頭で考えようという意欲を持つことは大切なことだ。何も考えずに、他人の言うことを鵜呑みにしてしまっていいはずがない。とにかく「もっと考えろ」と言うことにしている。
 
 「艱難辛苦、汝を玉にする」、「検索バカ」と「悩む力」の2冊の新書を合わせても、この故事成語以上のことは言えていないように思った。
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