毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
差別
野中広務・辛淑玉「差別と日本人」(角川oneテーマ21)を読んだ。この書が出たのを知ったとき、対談者2人の組み合わせに意外な気がしてぜひ読んでみたいと思った。差別と在日朝鮮人差別、日本の深部に巣くうこの差別の真ん中で苦しみ、それと戦ってきた2人ではあるが、その拠って立つところが対極に位置するものと思ってきた私には、どういった内容の対談になっているのかぜひ知りたいと思ったのが一番の動機だった。
確かに重いテーマであり、私などが軽々に論じる問題でもない。しかし、「差別と日本人」という題名であり、私が日本人である以上、私自身の問題として「差別」というものを考えることも必要だと思った。子供の頃を振り返ってみると、私の通った小学校では学年の5~10%くらいの生徒が在日朝鮮人だった。40年ほど前のことであるから皆日本名を名乗っていたが、誰が在日朝鮮人であるかは皆分かっていた。だからと言って大っぴらにそれを理由に苛めたりすることはなかったように思う。勿論私が彼らに差別的な言葉を投げかけたことがないなどと、奇麗事を言うつもりはない。何かの拍子でそんな言葉を吐いては、自分を優位に見せていたことも多々あったように思う。だが、いつも一緒に遊んでいたし、そこそこ仲がよかったようにも思う。だが、それは私の側からの一方的な思いであって、彼らにしてみれば私に言われた差別語によってひどく傷ついていたのかもしれない。差別する側からの目線で差別を語れば何事もなかったようになってしまうこともよくあることだから・・。
在日朝鮮人に対する差別はごく身近にあったが、私は差別というものを中学校になるまで知らなかった。そういった集落が近くになかったからかもしれないが、周りで話題になったこともなかったように思う。中学校に入って島崎藤村の「破戒」を読んで初めて差別を知った。瀬川丑松の苦悩は、今まで私が知らなかった苦悩であり、日本にはこんな差別があったのか、と愕然としたのを覚えている。とは言え、その後高校を卒業するまで、問題をさほど意識することもなく過ごしたが、大学入学後に京都で住むようになったら、大学の近くに地区と呼ばれる所があるのを知った。その地区の歴史的背景を何も知らない私には、他の場所とどこが違うんだろうと不思議な感じがしたが、それも私の意識の低さのなせる思いだったのかもしれない。ただ、岩波新書の「狭山事件」を読んだことがきっかけで、「被差別の歴史」(朝日選書)という本なども熟読したから、日本社会に根付く差別の奥深さは以前よりもずっと理解するようになった。しかし、今思えば、そんなものはただの上辺の理解に過ぎず、差別に苛まれている人たちの苦しみの一端を垣間見たに過ぎなかったのだが・・。
今私の塾には在日朝鮮人を母に持つ生徒がいる。その子は、自分のことを日本人と朝鮮人のハーフだとあっけらかんとして言うから、そうであると知ったのであるが、時代はずいぶん変わったものだと正直思った。私が子供の頃には自らの出自を明らかにする在日の子供たちはいなかったから、彼のオープンさには驚きもしたが、今の時代、子供たちの方が日本の国際化に慣れていて、私たちの頃のような民族的な意識はだいぶ薄くなってきたのかなあ、とその時思った。クラスの中にブラジル人やフィリピン人も何人かいるという小学校のことなので、そうした民族的しがらみからの締め付けは緩くなっているのかもしれないが、それでも自らの出自を何のためらいもなく明らかにできるということは、学校全体に外国人に対する差別意識が希薄であることの表れではないだろうか(もちろん個別には言うに言えない差別を受けているかもしれないが・・)。この例から見ても、民族的な差別意識を払拭するには小さな頃からいろんな国々からの同年齢の子供たちと触れ合うことが大切なんだな、と実感できる。地方都市の一番山間に属する地域の小学校でさえ国際化の波は押し寄せていることの証左でもあり、この子供たちが大人になる頃には、旧来の民族差別は弱まってはいないだろうか、と思わず期待してしまう。
本書を通読して日本人と差別の問題は、長い歴史に根ざしたものであり、そうは簡単になくなるものではないことも改めて理解したつもりではあるが、それでも今の子供たちにはそうした旧弊を乗り越えるだけの力をもっているものと期待したいし、そう信じたい。
確かに重いテーマであり、私などが軽々に論じる問題でもない。しかし、「差別と日本人」という題名であり、私が日本人である以上、私自身の問題として「差別」というものを考えることも必要だと思った。子供の頃を振り返ってみると、私の通った小学校では学年の5~10%くらいの生徒が在日朝鮮人だった。40年ほど前のことであるから皆日本名を名乗っていたが、誰が在日朝鮮人であるかは皆分かっていた。だからと言って大っぴらにそれを理由に苛めたりすることはなかったように思う。勿論私が彼らに差別的な言葉を投げかけたことがないなどと、奇麗事を言うつもりはない。何かの拍子でそんな言葉を吐いては、自分を優位に見せていたことも多々あったように思う。だが、いつも一緒に遊んでいたし、そこそこ仲がよかったようにも思う。だが、それは私の側からの一方的な思いであって、彼らにしてみれば私に言われた差別語によってひどく傷ついていたのかもしれない。差別する側からの目線で差別を語れば何事もなかったようになってしまうこともよくあることだから・・。
在日朝鮮人に対する差別はごく身近にあったが、私は差別というものを中学校になるまで知らなかった。そういった集落が近くになかったからかもしれないが、周りで話題になったこともなかったように思う。中学校に入って島崎藤村の「破戒」を読んで初めて差別を知った。瀬川丑松の苦悩は、今まで私が知らなかった苦悩であり、日本にはこんな差別があったのか、と愕然としたのを覚えている。とは言え、その後高校を卒業するまで、問題をさほど意識することもなく過ごしたが、大学入学後に京都で住むようになったら、大学の近くに地区と呼ばれる所があるのを知った。その地区の歴史的背景を何も知らない私には、他の場所とどこが違うんだろうと不思議な感じがしたが、それも私の意識の低さのなせる思いだったのかもしれない。ただ、岩波新書の「狭山事件」を読んだことがきっかけで、「被差別の歴史」(朝日選書)という本なども熟読したから、日本社会に根付く差別の奥深さは以前よりもずっと理解するようになった。しかし、今思えば、そんなものはただの上辺の理解に過ぎず、差別に苛まれている人たちの苦しみの一端を垣間見たに過ぎなかったのだが・・。
今私の塾には在日朝鮮人を母に持つ生徒がいる。その子は、自分のことを日本人と朝鮮人のハーフだとあっけらかんとして言うから、そうであると知ったのであるが、時代はずいぶん変わったものだと正直思った。私が子供の頃には自らの出自を明らかにする在日の子供たちはいなかったから、彼のオープンさには驚きもしたが、今の時代、子供たちの方が日本の国際化に慣れていて、私たちの頃のような民族的な意識はだいぶ薄くなってきたのかなあ、とその時思った。クラスの中にブラジル人やフィリピン人も何人かいるという小学校のことなので、そうした民族的しがらみからの締め付けは緩くなっているのかもしれないが、それでも自らの出自を何のためらいもなく明らかにできるということは、学校全体に外国人に対する差別意識が希薄であることの表れではないだろうか(もちろん個別には言うに言えない差別を受けているかもしれないが・・)。この例から見ても、民族的な差別意識を払拭するには小さな頃からいろんな国々からの同年齢の子供たちと触れ合うことが大切なんだな、と実感できる。地方都市の一番山間に属する地域の小学校でさえ国際化の波は押し寄せていることの証左でもあり、この子供たちが大人になる頃には、旧来の民族差別は弱まってはいないだろうか、と思わず期待してしまう。
本書を通読して日本人と差別の問題は、長い歴史に根ざしたものであり、そうは簡単になくなるものではないことも改めて理解したつもりではあるが、それでも今の子供たちにはそうした旧弊を乗り越えるだけの力をもっているものと期待したいし、そう信じたい。
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