毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
四十九日
従兄弟の四十九日の法要が営まれた。7月7日に亡くなって早くも1ヵ月半、時の経つのは如何ともしがたい。朝10時から自宅で営まれた法要は、親戚一同が会して曹洞宗の住職の下、粛々と進められた。般若心経から修証義、さらには舎利礼文まで、読経の声が低く響く中、私も亡き従兄弟の面影を偲んでいた。私の親戚には、土地がらか曹洞宗の門徒が多く、法要の際には修証義を読み上げることがしばしばである。修証義というのは、道元の著した『正法眼蔵』の教えを、一般の人にもわかりやすく明治23年に編集されたものだが、仏教の要諦を凝縮したような文で読むたびに感心する。
「生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、 是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし」
(訳)
人生とはどういうことか、死とはどういうことかという人生の意義をあきらかにし、自己のいのちとは何かという真実を求めて参究するのは、仏教徒にとって、もっとも大切な根本的問題なのです。この人生は無常なものではあるけれども、仏の教えを信じ行ずるのであれば、現実の苦しい人生にふりまわされません。この生死という苦しい現実も、涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、このいのちの事実そのものが、そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。この無常なる人生そのまま涅槃(さとり)と心得るべきです。このとき、はじめて、現実の迷いから解放される道が開けるのであり、無窮なる仏道修行がもっとも大切な心がけなのです。
仏教徒でもない私が偉そうなことは言えないが、仏教を宗教ではなく哲学としてみた場合、仏教の奥義には深く感ずるものがある。この世を無常と捉え、そこから出発する哲学でなくては信ずるに値しないと私は思っているが、仏教はまさしくそうした哲学であり、もう少し現世でのあがきが楽になった時点で、宗教としてではなく学問として探求したい課題だと思っている。
法要が終わった後、住職が短い説法をされた。そんなものをありがたく聞くような私ではないが、「人の命には寿命と定命の二つがあります」と言われたくだりには少しばかり感心した。私なりに解釈したことは、「人間には生れ落ちる前に定められた定命というものがあるが、人によってその長さが違う、それが寿命である。いつまでも永らえるかもしれないし、今日死んでしまうかもしれない。そうした考えに立って今日一日を大切に生きていくことが大事なのだ」――住職の真意とは違う解釈かもしれないが、私にはそう聞こえた。説法などというものは、ただひたすら有難がって聞くものではなく、己のためになる部分だけを抽出して自らの生活に役立てていけばいい。取り立てて言うほどの内容ではないが、55歳でなくなった従兄弟の生涯を顧みる日には当を得た言葉であると思った。
その後、菩提寺を参拝した後、御斎となったが、当然のごとくひどく酔っ払ってしまった私は、果たして従兄弟の供養を心からすることができたであろうか。人が大勢集まって、賑やかにするのが大好きだった従兄弟の法要だから、少しは楽しくやらねばならないとは思っていたのだが・・・
「生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、 是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし」
(訳)
人生とはどういうことか、死とはどういうことかという人生の意義をあきらかにし、自己のいのちとは何かという真実を求めて参究するのは、仏教徒にとって、もっとも大切な根本的問題なのです。この人生は無常なものではあるけれども、仏の教えを信じ行ずるのであれば、現実の苦しい人生にふりまわされません。この生死という苦しい現実も、涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、このいのちの事実そのものが、そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。この無常なる人生そのまま涅槃(さとり)と心得るべきです。このとき、はじめて、現実の迷いから解放される道が開けるのであり、無窮なる仏道修行がもっとも大切な心がけなのです。
仏教徒でもない私が偉そうなことは言えないが、仏教を宗教ではなく哲学としてみた場合、仏教の奥義には深く感ずるものがある。この世を無常と捉え、そこから出発する哲学でなくては信ずるに値しないと私は思っているが、仏教はまさしくそうした哲学であり、もう少し現世でのあがきが楽になった時点で、宗教としてではなく学問として探求したい課題だと思っている。
法要が終わった後、住職が短い説法をされた。そんなものをありがたく聞くような私ではないが、「人の命には寿命と定命の二つがあります」と言われたくだりには少しばかり感心した。私なりに解釈したことは、「人間には生れ落ちる前に定められた定命というものがあるが、人によってその長さが違う、それが寿命である。いつまでも永らえるかもしれないし、今日死んでしまうかもしれない。そうした考えに立って今日一日を大切に生きていくことが大事なのだ」――住職の真意とは違う解釈かもしれないが、私にはそう聞こえた。説法などというものは、ただひたすら有難がって聞くものではなく、己のためになる部分だけを抽出して自らの生活に役立てていけばいい。取り立てて言うほどの内容ではないが、55歳でなくなった従兄弟の生涯を顧みる日には当を得た言葉であると思った。
その後、菩提寺を参拝した後、御斎となったが、当然のごとくひどく酔っ払ってしまった私は、果たして従兄弟の供養を心からすることができたであろうか。人が大勢集まって、賑やかにするのが大好きだった従兄弟の法要だから、少しは楽しくやらねばならないとは思っていたのだが・・・
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トピックス
夏休みに入って、至極単調な毎日を送っている。朝から晩まで、塾の中にいるかバスを運転しているか、家で寝ているか、その3つのことの繰り返しだ。日付は言うに及ばず、曜日の感覚もなくなってしまった。教室にいる生徒の顔を見て、かろうじて今日が月水金なのか、火木土なのかの区別ができるくらいだ。
しかし、こんな毎日でもたまにはおかしなことも起こる。毎日が単調だけにちょっとしたことにも驚いてしまうのかもしれないが、そんな話題をいくつか記してみたい。
4・5日前、朝起きると右腕に赤い斑点が大量に出来ている。何だ、これはと驚いて左手や体を探ってみたが、何も変わった所はない。ただ右腕にだけ、肘の内側から手のひらの付け根まで、赤い斑点が点々と続いている。「うわあ、何か虫に刺されたんだ!」と急いで薬を塗ってみたが、それから丸2日くらいは斑点がどんどん大きく真っ赤になって痒くて痒くてたまらなくなった。塾生でアトピーのひどい生徒がいて、年中ぽりぽり体を掻いているが、その子の気持ちが痛いほどよく分かった。掻くと余計痒くなるから、何とか我慢しろとよく言ってやるのだが、なかなか止められない。そんな彼の気持ちがよく分かった。毎日薬を塗りこんで、やっと昨日くらいから収まり始めた。真っ赤な状態も記念に写真に収めておいたが、さすがに気持ち悪くて、ここに載せることは出来ないから、今の状態の写真を載せた。それにしても一体何の虫だろう、数えてみたら右腕だけで、30箇所以上刺されていた。夜窓を開けて寝ていたのがいけなかったのかもしれない。気をつけよう。
先日、クーラーから水が漏れることは書いたが、実はそれで大事なものに大きな被害を受けていた。ちょうどクーラーの真下に本棚が置いてあって、その上にうずたかく本が積み上げられていた。水が漏れていることなどまったく知らないでいたため、ふっと気付いたときにはそこにあった本のほとんど水浸しになっていた。漱石の「三四郎」、ラディゲの「肉体の悪魔」、中原中也全集、フランス語版から各国語版の「星の王子さま」など、私の宝物といっていい本がずぶ濡れになってしまった。慌てて、天日で干してみたのだが、ごわごわというか、シワシワな感じは直らない。ちゃんと家に持ち帰っていればこんなことにはならなかったのにと激しく後悔したが、後の祭りでどうしようもない。悲しかった・・・
これは、8月上旬バスで通りかかった道に引越し社の大型トラックが横転していたのに遭遇したときの写真だ。特別急な曲がり道でもなく、見通しが悪いわけでもない。状況がまったく分からないから迂闊なことは言えないが、普通に考えて何故ここで横転するんだろうと、不思議に思わざるを得ないような場所での事故だった。横を通り過ぎるときに、運転手が警察官の事情聴取を受けているようだったので、人命にかかわる事故ではないようだった。それに少しは安心して、思わず携帯の写真に収めてみたのだが、なにせ警察官が大勢いるところなのでこっそり写すことになって、ピントがあっていないのは残念だ(真ん中奥に横になっている白い四角いものがトラック)。救急車も来ていなかったから、大事には至らなかっただろうが、毎日バスの運転で走り回っている私には身の引き締まる出来事だった。スピードの出し過ぎに注意して、常に安全運転に気をつけなければいけない、そういう思いを確認できたのは私にはいい機会だった。
夏休みも後10日ほど、気を緩めることなく何とか無事に終わりたいと思っている。
しかし、こんな毎日でもたまにはおかしなことも起こる。毎日が単調だけにちょっとしたことにも驚いてしまうのかもしれないが、そんな話題をいくつか記してみたい。
4・5日前、朝起きると右腕に赤い斑点が大量に出来ている。何だ、これはと驚いて左手や体を探ってみたが、何も変わった所はない。ただ右腕にだけ、肘の内側から手のひらの付け根まで、赤い斑点が点々と続いている。「うわあ、何か虫に刺されたんだ!」と急いで薬を塗ってみたが、それから丸2日くらいは斑点がどんどん大きく真っ赤になって痒くて痒くてたまらなくなった。塾生でアトピーのひどい生徒がいて、年中ぽりぽり体を掻いているが、その子の気持ちが痛いほどよく分かった。掻くと余計痒くなるから、何とか我慢しろとよく言ってやるのだが、なかなか止められない。そんな彼の気持ちがよく分かった。毎日薬を塗りこんで、やっと昨日くらいから収まり始めた。真っ赤な状態も記念に写真に収めておいたが、さすがに気持ち悪くて、ここに載せることは出来ないから、今の状態の写真を載せた。それにしても一体何の虫だろう、数えてみたら右腕だけで、30箇所以上刺されていた。夜窓を開けて寝ていたのがいけなかったのかもしれない。気をつけよう。
先日、クーラーから水が漏れることは書いたが、実はそれで大事なものに大きな被害を受けていた。ちょうどクーラーの真下に本棚が置いてあって、その上にうずたかく本が積み上げられていた。水が漏れていることなどまったく知らないでいたため、ふっと気付いたときにはそこにあった本のほとんど水浸しになっていた。漱石の「三四郎」、ラディゲの「肉体の悪魔」、中原中也全集、フランス語版から各国語版の「星の王子さま」など、私の宝物といっていい本がずぶ濡れになってしまった。慌てて、天日で干してみたのだが、ごわごわというか、シワシワな感じは直らない。ちゃんと家に持ち帰っていればこんなことにはならなかったのにと激しく後悔したが、後の祭りでどうしようもない。悲しかった・・・
これは、8月上旬バスで通りかかった道に引越し社の大型トラックが横転していたのに遭遇したときの写真だ。特別急な曲がり道でもなく、見通しが悪いわけでもない。状況がまったく分からないから迂闊なことは言えないが、普通に考えて何故ここで横転するんだろうと、不思議に思わざるを得ないような場所での事故だった。横を通り過ぎるときに、運転手が警察官の事情聴取を受けているようだったので、人命にかかわる事故ではないようだった。それに少しは安心して、思わず携帯の写真に収めてみたのだが、なにせ警察官が大勢いるところなのでこっそり写すことになって、ピントがあっていないのは残念だ(真ん中奥に横になっている白い四角いものがトラック)。救急車も来ていなかったから、大事には至らなかっただろうが、毎日バスの運転で走り回っている私には身の引き締まる出来事だった。スピードの出し過ぎに注意して、常に安全運転に気をつけなければいけない、そういう思いを確認できたのは私にはいい機会だった。
夏休みも後10日ほど、気を緩めることなく何とか無事に終わりたいと思っている。
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ANAK(息子)
デアゴスティー二から発売されている「青春のうた」15号が出た。1号から買い続けている私がこの15号で一番聞きたかったのが、杉田二郎の「ANAK(息子)」だった。本誌を読むとこの曲の解説が次のように書いてある。
日本のフォークソングにも共通する哀愁のあるメロディーが印象的なこの曲は、もともとフィリピンのフォークシンガー、フレディ・アギラが母国でヒットさせたものだった。当時フィリピンで歴史的大ヒットを記録した曲として日本でも紹介され注目を集めた。そして、72(昭和47)年のジローズ解散後ソロとして活躍してきた杉田二郎は、なかにし礼の訳詞でこの曲をカヴァーし、トップ10ヒットにする。同時に加藤登紀子も彼女自身の訳詞で歌い杉田との競作になった。78年9月発表。
発表当時は20歳だった私が聞いた覚えがあるのは、杉田二郎の「ANAK」だけだ。杉田の太い声で歌われるこの曲は歌詞の重さとともに深い印象を与える名曲で、何度も聞いたものだ。
その後随分たってから、私が久しぶりに耳にしたのは加藤登紀子の曲だった。彼女のCDアルバムを買った時に収録されていた、彼女自身が訳したといわれる「ANAK」だった。それは私が覚えていた杉田の曲とは詞がまったく違っていた。少々違和感を感じたが、何度も聞くうちに加藤登紀子バージョンもいいかなと思うようになった。
今回、「青春のうた」で杉田二郎の歌う「ANAK」を久しぶりに聞いた。少しテンポが遅い気はするが、やはり私にとっては杉田の方が元歌であるため、懐かしさも伴って深い感動を与えてくれた。
そこで、2人のバージョンの「ANAK」を改めて聞き比べるのもなかなか面白いのではないかと思い立って、以下に詞を写すことにした。(「ANAK(息子)」の曲はこちら Yahoo ブリーフケースで、各バージョンをクリック。ID は jukucho19580615 パスワードは matsui55)
杉田二郎「ANAK(息子)」
お前が生まれた時 父さん母さんたちは
どんなにかよろこんだ事だろう
私たちだけを
頼りにしている寝顔のいじらしさ
ひと晩中母さんはミルクをあたためたものさ
昼間は父さんがあきもせずあやしてた
お前は大きくなり自由がほしいと言う
私たちはとまどうばかり
日に日に気むずかしく変わってゆくお前は
話を聞いてもくれない
親の心配見むきもせずお前は出てゆく
あの時のお前を止めることは誰にも出来なかった
息子よ お前は今 悪の道へ走り
荒んだ暮らしをしてると聞いた
息子よ お前に何があったのだろうか
母さんはただ泣いている
きっとお前の目にも涙があふれているだろう
きっと今ではお前も後悔をしてるだろう
加藤登紀子「ANAK(息子)」
母の胸に抱かれて おまえは生まれた
喜びの朝をはこんで
寝顔を見つめるだけで うれしさがあふれる
父はおまえの明日を祈った
夜には母さんが眠りもせずミルクをあたためた
朝には父さんがおまえを抱きあげてあやしてた
おまえは大きくなり気ままな自由を求めた
母はとまどうばかり
日に日に気むずかしく変わってゆくおまえは
話を聞いてもくれない
嵐の吹き荒れる夜におまえは突然出て行く
おまえを呼びとめる父や母の声をふりすてて
時は流れておまえは今
すさんだ暮らししてると聞いた
息子よおまえに何があったのだろうか
ひとり暮らしの月日に
おまえの胸には母の声が今聞こえる
遠く離れた母の声におまえは泣いたよ
さて、どちらの曲がより心に沁みてくるだろうか。
日本のフォークソングにも共通する哀愁のあるメロディーが印象的なこの曲は、もともとフィリピンのフォークシンガー、フレディ・アギラが母国でヒットさせたものだった。当時フィリピンで歴史的大ヒットを記録した曲として日本でも紹介され注目を集めた。そして、72(昭和47)年のジローズ解散後ソロとして活躍してきた杉田二郎は、なかにし礼の訳詞でこの曲をカヴァーし、トップ10ヒットにする。同時に加藤登紀子も彼女自身の訳詞で歌い杉田との競作になった。78年9月発表。
発表当時は20歳だった私が聞いた覚えがあるのは、杉田二郎の「ANAK」だけだ。杉田の太い声で歌われるこの曲は歌詞の重さとともに深い印象を与える名曲で、何度も聞いたものだ。
その後随分たってから、私が久しぶりに耳にしたのは加藤登紀子の曲だった。彼女のCDアルバムを買った時に収録されていた、彼女自身が訳したといわれる「ANAK」だった。それは私が覚えていた杉田の曲とは詞がまったく違っていた。少々違和感を感じたが、何度も聞くうちに加藤登紀子バージョンもいいかなと思うようになった。
今回、「青春のうた」で杉田二郎の歌う「ANAK」を久しぶりに聞いた。少しテンポが遅い気はするが、やはり私にとっては杉田の方が元歌であるため、懐かしさも伴って深い感動を与えてくれた。
そこで、2人のバージョンの「ANAK」を改めて聞き比べるのもなかなか面白いのではないかと思い立って、以下に詞を写すことにした。(「ANAK(息子)」の曲はこちら Yahoo ブリーフケースで、各バージョンをクリック。ID は jukucho19580615 パスワードは matsui55)
杉田二郎「ANAK(息子)」
お前が生まれた時 父さん母さんたちは
どんなにかよろこんだ事だろう
私たちだけを
頼りにしている寝顔のいじらしさ
ひと晩中母さんはミルクをあたためたものさ
昼間は父さんがあきもせずあやしてた
お前は大きくなり自由がほしいと言う
私たちはとまどうばかり
日に日に気むずかしく変わってゆくお前は
話を聞いてもくれない
親の心配見むきもせずお前は出てゆく
あの時のお前を止めることは誰にも出来なかった
息子よ お前は今 悪の道へ走り
荒んだ暮らしをしてると聞いた
息子よ お前に何があったのだろうか
母さんはただ泣いている
きっとお前の目にも涙があふれているだろう
きっと今ではお前も後悔をしてるだろう
加藤登紀子「ANAK(息子)」
母の胸に抱かれて おまえは生まれた
喜びの朝をはこんで
寝顔を見つめるだけで うれしさがあふれる
父はおまえの明日を祈った
夜には母さんが眠りもせずミルクをあたためた
朝には父さんがおまえを抱きあげてあやしてた
おまえは大きくなり気ままな自由を求めた
母はとまどうばかり
日に日に気むずかしく変わってゆくおまえは
話を聞いてもくれない
嵐の吹き荒れる夜におまえは突然出て行く
おまえを呼びとめる父や母の声をふりすてて
時は流れておまえは今
すさんだ暮らししてると聞いた
息子よおまえに何があったのだろうか
ひとり暮らしの月日に
おまえの胸には母の声が今聞こえる
遠く離れた母の声におまえは泣いたよ
さて、どちらの曲がより心に沁みてくるだろうか。
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名古屋駅にて
この間の日曜、私が妻を名古屋駅間で送って行ったのには、単に奥さん孝行をしようと思っただけではなく、横浜まで同行する娘に名古屋駅で会うためでもあった。日曜の朝、目が覚めてふと思ったのが、7月に亡くなった従兄弟が無類の饅頭好きであったから、京都の豆餅を仏前に供えたら少しでもお盆の供養になるのではないかということだった。娘が妻と名古屋で落ち合って同じ新幹線で横浜に向かうのは知っていたので、娘にふたば(京都出町の豆餅屋)で買ってきてもらい、それを私が妻を見送りがてら名古屋駅で受け取ればいい、と思い立ったのだ。自分ではいい考えだと思って、妻に話したところ、まずは娘にお電話してみろという返事だった。早速電話してみたら、いきなり、
「なに?」と機嫌の悪そうな寝ぼけ声が聞こえた。
「まだ寝てたのか、もう10時過ぎだぞ」
「なに?よく聞こえない」
「今日、新幹線に乗ってくるだろう?」
「ええっ?なんなの?もう切るよ、うるさいなあ、もう」
「わかった、じゃあ、1時間したらかけ直す・・・」
まったく、何時まで寝てるんだ、馬鹿じゃないか、などと私がぶつぶつ言っていたら、妻が「アメリカに留学中の同級生が帰国中なので、昨夜はきっと遅くまで遊んでいただろうから仕方ない」、などと娘の肩を持つことを言う。その日は、母娘というよりSMAP仲間の関係だから、連帯感がより強いのかもしれない。まあ、そういう事情なら我慢しようか、と私も思わず甘い考えになってしまう。
それから1時間もしないうちに娘のほうから電話をかけてきた。内容を話して何とか買ってきてくれるよう頼んでみた。すると、「重いなあ」とか、「面倒くさいなあ」とかぶつぶつ言っていたのだが、何とか頼み込んで10個だけ買ってきてくれることになった。昔はもう少し御しやすかったのに、今はもう別人だ。
昼過ぎに私たちは家を出たのだが、途中で昼食を食べている間に娘から妻の携帯に、「豆餅は買った。14号車の乗降口にいるから」とメールが入った。新幹線の切符は、妻の携帯からエクスプレスカードを使って買えるのだそうだ。「すごく便利、簡単に予約もできるし、変更も可能。切符をまだ受け取っていないよというメールも入るし、料金も割引される」などとJRの広報のように盛んに利便性を強調する。「なんで、ビジネスマンでもないお前がそんなもの持ってるんだ」と私が突っ込んでも、「色々必要でしょ、私には」などとまったく悪びれる様子はない。確かに、一年に何度新幹線を利用するのだろう、数えたことなどないが、ちょっとしたビジネスマンより多いかもしれない・・・
娘の乗った新幹線の到着時刻よりも15分ほど前に着いた私は入場券を買って、ホームで妻と二人で立って待っていた。妻は売店でビールを買い込み、「これを飲んでちょっと寝るんだ」などと、旅なれた風情を見せる。まったくこいつにはかなわないな、と思っていると、のぞみが定刻どおりに到着した。停車時間はわずか2分。乗降口を間違えたら、豆餅を受け取ることは難しい。ちょっと緊張しながら待っていたら、娘が一番最後に悠然と降りてきた。なんだよ、もっとさっさと動けよと思いながらも、笑顔で、「ありがとう」と娘の差し出した荷物を受け取った。「お金はお母さんに渡しといたから」などと私が話し掛けるのをまったく無視して、娘はくるっと踵を返してすぐに新幹線に戻ってしまった。「さようなら」、ともなんとも言わずに・・「えっ?」と思わず傍らにいた妻のほうを向くと、さすがに妻も驚いたのか、憐れみとも慰めともつかない笑みを返してきた。
「何だよ、あの馬鹿娘は!!!」出発した新幹線と逆方向に歩きながら私は何度も唸った。「馬鹿!!」
しばらくはむかむかして仕方がなかったが、車に戻って娘が渡してくれた袋の中を見た。すると、頼んでおいた豆餅の他に、おはぎの包みが入っているではないか!
おお、そうか、これは私へのお土産なんだな。
もうそれだけで、すっかり気持ちは晴れて、帰り道はすいすい運転して来れた。なんて、馬鹿オヤジ!
「なに?」と機嫌の悪そうな寝ぼけ声が聞こえた。
「まだ寝てたのか、もう10時過ぎだぞ」
「なに?よく聞こえない」
「今日、新幹線に乗ってくるだろう?」
「ええっ?なんなの?もう切るよ、うるさいなあ、もう」
「わかった、じゃあ、1時間したらかけ直す・・・」
まったく、何時まで寝てるんだ、馬鹿じゃないか、などと私がぶつぶつ言っていたら、妻が「アメリカに留学中の同級生が帰国中なので、昨夜はきっと遅くまで遊んでいただろうから仕方ない」、などと娘の肩を持つことを言う。その日は、母娘というよりSMAP仲間の関係だから、連帯感がより強いのかもしれない。まあ、そういう事情なら我慢しようか、と私も思わず甘い考えになってしまう。
それから1時間もしないうちに娘のほうから電話をかけてきた。内容を話して何とか買ってきてくれるよう頼んでみた。すると、「重いなあ」とか、「面倒くさいなあ」とかぶつぶつ言っていたのだが、何とか頼み込んで10個だけ買ってきてくれることになった。昔はもう少し御しやすかったのに、今はもう別人だ。
昼過ぎに私たちは家を出たのだが、途中で昼食を食べている間に娘から妻の携帯に、「豆餅は買った。14号車の乗降口にいるから」とメールが入った。新幹線の切符は、妻の携帯からエクスプレスカードを使って買えるのだそうだ。「すごく便利、簡単に予約もできるし、変更も可能。切符をまだ受け取っていないよというメールも入るし、料金も割引される」などとJRの広報のように盛んに利便性を強調する。「なんで、ビジネスマンでもないお前がそんなもの持ってるんだ」と私が突っ込んでも、「色々必要でしょ、私には」などとまったく悪びれる様子はない。確かに、一年に何度新幹線を利用するのだろう、数えたことなどないが、ちょっとしたビジネスマンより多いかもしれない・・・
娘の乗った新幹線の到着時刻よりも15分ほど前に着いた私は入場券を買って、ホームで妻と二人で立って待っていた。妻は売店でビールを買い込み、「これを飲んでちょっと寝るんだ」などと、旅なれた風情を見せる。まったくこいつにはかなわないな、と思っていると、のぞみが定刻どおりに到着した。停車時間はわずか2分。乗降口を間違えたら、豆餅を受け取ることは難しい。ちょっと緊張しながら待っていたら、娘が一番最後に悠然と降りてきた。なんだよ、もっとさっさと動けよと思いながらも、笑顔で、「ありがとう」と娘の差し出した荷物を受け取った。「お金はお母さんに渡しといたから」などと私が話し掛けるのをまったく無視して、娘はくるっと踵を返してすぐに新幹線に戻ってしまった。「さようなら」、ともなんとも言わずに・・「えっ?」と思わず傍らにいた妻のほうを向くと、さすがに妻も驚いたのか、憐れみとも慰めともつかない笑みを返してきた。
「何だよ、あの馬鹿娘は!!!」出発した新幹線と逆方向に歩きながら私は何度も唸った。「馬鹿!!」
しばらくはむかむかして仕方がなかったが、車に戻って娘が渡してくれた袋の中を見た。すると、頼んでおいた豆餅の他に、おはぎの包みが入っているではないか!
おお、そうか、これは私へのお土産なんだな。
もうそれだけで、すっかり気持ちは晴れて、帰り道はすいすい運転して来れた。なんて、馬鹿オヤジ!
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おみやげ
何度も繰り返すようだが、今年の短い夏休みは旅行などには出かけず、だらだらすごした。子どもが小さい頃は、夏休みと言えば毎週日曜ごとに海や山へ出かけていた。今思えばご苦労なことだが、当時はそうやって子どもたちといろんなところへ行くのが楽しくて仕方なかった。子どもたちにすればただ連れ回されただけで、つまらなかったかもしれない。私の単なる自己満足に過ぎなかったかもしれないが、とにかくよく出かけた。
それが娘が高校生になったくらいから徐々に出かけなくなった。夏休みになっても家族で旅行に行くなんてことはなくなった。妻や娘は個別でちょこちょこ出かけるようになったので、わざわざ家族で出かける必要などなくなったのかもしれない。そのおかけで私は、去年京都で2泊3日したのを除けばここ数年、籠の鳥状態で家以外のところで寝たことなどまったくない。最初の頃は寂しい気もしたが、もうだいぶ慣れっこになって、今度の休みもどこかに出かけようなどとは思わなかった。慣れというものは恐ろしい。
しかし、この季節、私が出かけなくても塾の生徒が家族旅行に行って、その楽しみのおすそ分けをしてくれるから、それだけでも憂さが晴れる。いろんな所へ行っておみやげを買ってきて私にくれる生徒も時々いる。
これは両方とも大阪のUSJに行った子どもたちのおみやげだが、左は今年で5周年になるお祝いのクッキー、右は塾生でもある姪と甥が私の家族一人一人に買ってきてくれたスヌーピーの人形とその後ろがバームクーヘン。これを見て、もうできて5年も経つのかと何だか感慨がわいたが、私は未だにUFJ銀行との区別がはっきりしない。時々間違えては失笑を買うが、リピーターも多いようで、それなりに楽しい場所なのだろう。私など、USJはおろか東京ディズニーランドにも行ったことがないので、テーマパークの楽しさなどまったく見当も付かない。
これは静岡の富士急ハイランドに行った生徒が買ってくれたおみやげだ。「呪いの書」などとおどろおどろしい名前が付いているので受け取ったときは「何だ?」と思ったが、開けてみたらクッキーだった。意表をついてなかなか面白かった。でも、生徒がこんなものをくれると私に何か恨みでもあるのかしらと、ちょっとばかり肝を冷やした。
これは中国に単身赴任している父親を訪ねていった小学生のおみやげだが、どう見てみてもロシアのこけし、マトリョーシカだ。絵柄もロシアなんだか、中国なんだか判然としないが、まあ可愛いから細かいことはどうでもいい。生徒の前で、一つ一つ取り出していったら全部で5体になった。最後は1cmくらいの高さで顔など目と口が点々と描いてあるだけだが、一応人間の顔らしくなっている。なかなか趣深くて愉快なおみやげだ。
うれしくなってほかの生徒にも自慢して見せたのだが、中に一人面白いことをした女子生徒がいた。
取り出した5体を私が横に並べておいたら、いつの間にかトーテムポールのように縦に乗せていた。「おお、こんな風に重ねるのもなかなかいいじゃないか」、と私は思わず唸ってしまった。美術部に属する彼女はやはり発想がやわらかい、私などにはとても考え付けない。
いろんな子がいて、本当に楽しい。
それが娘が高校生になったくらいから徐々に出かけなくなった。夏休みになっても家族で旅行に行くなんてことはなくなった。妻や娘は個別でちょこちょこ出かけるようになったので、わざわざ家族で出かける必要などなくなったのかもしれない。そのおかけで私は、去年京都で2泊3日したのを除けばここ数年、籠の鳥状態で家以外のところで寝たことなどまったくない。最初の頃は寂しい気もしたが、もうだいぶ慣れっこになって、今度の休みもどこかに出かけようなどとは思わなかった。慣れというものは恐ろしい。
しかし、この季節、私が出かけなくても塾の生徒が家族旅行に行って、その楽しみのおすそ分けをしてくれるから、それだけでも憂さが晴れる。いろんな所へ行っておみやげを買ってきて私にくれる生徒も時々いる。
これは両方とも大阪のUSJに行った子どもたちのおみやげだが、左は今年で5周年になるお祝いのクッキー、右は塾生でもある姪と甥が私の家族一人一人に買ってきてくれたスヌーピーの人形とその後ろがバームクーヘン。これを見て、もうできて5年も経つのかと何だか感慨がわいたが、私は未だにUFJ銀行との区別がはっきりしない。時々間違えては失笑を買うが、リピーターも多いようで、それなりに楽しい場所なのだろう。私など、USJはおろか東京ディズニーランドにも行ったことがないので、テーマパークの楽しさなどまったく見当も付かない。
これは静岡の富士急ハイランドに行った生徒が買ってくれたおみやげだ。「呪いの書」などとおどろおどろしい名前が付いているので受け取ったときは「何だ?」と思ったが、開けてみたらクッキーだった。意表をついてなかなか面白かった。でも、生徒がこんなものをくれると私に何か恨みでもあるのかしらと、ちょっとばかり肝を冷やした。
これは中国に単身赴任している父親を訪ねていった小学生のおみやげだが、どう見てみてもロシアのこけし、マトリョーシカだ。絵柄もロシアなんだか、中国なんだか判然としないが、まあ可愛いから細かいことはどうでもいい。生徒の前で、一つ一つ取り出していったら全部で5体になった。最後は1cmくらいの高さで顔など目と口が点々と描いてあるだけだが、一応人間の顔らしくなっている。なかなか趣深くて愉快なおみやげだ。
うれしくなってほかの生徒にも自慢して見せたのだが、中に一人面白いことをした女子生徒がいた。
取り出した5体を私が横に並べておいたら、いつの間にかトーテムポールのように縦に乗せていた。「おお、こんな風に重ねるのもなかなかいいじゃないか」、と私は思わず唸ってしまった。美術部に属する彼女はやはり発想がやわらかい、私などにはとても考え付けない。
いろんな子がいて、本当に楽しい。
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宿題
2006年08月16日 / 塾
小中学生の夏休みの宿題は、随分少なくなった。自主性を重んじるとかで、各生徒の判断に任せる宿題が多くて、夏休みの宿題の定番であった、読書感想文も強制ではない学校が多くなったし、自由研究もやってもやらなくてもいいようだ。そんなことしたら、誰もやるわけがないのに、ますます勉強しなくなるのに・・などと私が嘆いたところで大勢に影響がないのは残念だ。
私の塾の3日間の夏休みは、14日(月曜)で終わってしまったが、始まる前に私は自分に宿題を課した。あれやこれやとやらねばならないことはあるが、どうせいい加減にあっという間に過ぎてしまうのが恒例、何もできないで終わってしまうのがオチだから、せめてこれだけはと1つだけに絞ってみようと思った。そこで考えたのが、塾の事務室、今私が座っている部屋の掃除だ。4月の新学期の準備で一気にぐちゃぐちゃになってしまって、それ以来何も手を付けずにやりたいままにしておいたら、とんでもない状態になってしまった。夏期講習の準備で一層乱雑さに拍車がかかってしまって、部屋の中はもうまともに歩けない状態だし、PCの置いてある机の上も書類や本で埋め尽くされている。さすがにここまで来るといろんなことに支障が出てきた。ちょっとまずいから、何とか休み中に整理整頓してみようと心に誓った。
しかし、なかなかやる気が起こらない。休み1日目は友人と長い間電話で話していたら、のどが渇いてしまって、ビールを一気に飲んだ瞬間に掃除のことなど忘れてしまった。後はもう、だらだらすごしただけ。2日目は目が覚めて少しは片付け始めたのだが、昼過ぎに妻を名古屋駅まで送っていったため、帰ってきたらも早くも夕方。父にそうめんを茹でてほっとしてビールを飲んだらまた終わってしまった。このときまでに部屋の掃除は3分の1ができたくらいだったろうか、ちょっと心配になってきた。さすがに3日目は張り切ってやり始めた。午前中で大方やり終えたのだが、そこで油断してしまったのが失敗だった。細かな部分まで整理することができなかったのは、悔しいが、一応の形は何とか整えることができた。
写真で比べても、整理されたほうが間違いなく気持ちがいい。気持ちがいいのは重々分かっているつもりなのだが、どうしてもっと早くやれないのだろう、不思議だ。自分ではきれい好きだとは思っているが、これでは誰も認めてはくれないだろう。
しかし、今この部屋には重大な問題がわき起こっている。それは、クーラーを動かしていると大量の水が落ちてくるのだ。
もうかれこれ20年以上になるエアコンだから、老朽化しているのは仕方がない。しかし、よく冷えることは冷える。だからこの水の受け皿だけ用意しておいて、このまま使っていこうかとも思う。だが、半日もつけっぱなしにしておくと、なんと、こんなにも水がたまってしまうのだ。
困ったなあ、やっぱり電気屋を呼ぶのが一番なんだろうな。
私の塾の3日間の夏休みは、14日(月曜)で終わってしまったが、始まる前に私は自分に宿題を課した。あれやこれやとやらねばならないことはあるが、どうせいい加減にあっという間に過ぎてしまうのが恒例、何もできないで終わってしまうのがオチだから、せめてこれだけはと1つだけに絞ってみようと思った。そこで考えたのが、塾の事務室、今私が座っている部屋の掃除だ。4月の新学期の準備で一気にぐちゃぐちゃになってしまって、それ以来何も手を付けずにやりたいままにしておいたら、とんでもない状態になってしまった。夏期講習の準備で一層乱雑さに拍車がかかってしまって、部屋の中はもうまともに歩けない状態だし、PCの置いてある机の上も書類や本で埋め尽くされている。さすがにここまで来るといろんなことに支障が出てきた。ちょっとまずいから、何とか休み中に整理整頓してみようと心に誓った。
しかし、なかなかやる気が起こらない。休み1日目は友人と長い間電話で話していたら、のどが渇いてしまって、ビールを一気に飲んだ瞬間に掃除のことなど忘れてしまった。後はもう、だらだらすごしただけ。2日目は目が覚めて少しは片付け始めたのだが、昼過ぎに妻を名古屋駅まで送っていったため、帰ってきたらも早くも夕方。父にそうめんを茹でてほっとしてビールを飲んだらまた終わってしまった。このときまでに部屋の掃除は3分の1ができたくらいだったろうか、ちょっと心配になってきた。さすがに3日目は張り切ってやり始めた。午前中で大方やり終えたのだが、そこで油断してしまったのが失敗だった。細かな部分まで整理することができなかったのは、悔しいが、一応の形は何とか整えることができた。
写真で比べても、整理されたほうが間違いなく気持ちがいい。気持ちがいいのは重々分かっているつもりなのだが、どうしてもっと早くやれないのだろう、不思議だ。自分ではきれい好きだとは思っているが、これでは誰も認めてはくれないだろう。
しかし、今この部屋には重大な問題がわき起こっている。それは、クーラーを動かしていると大量の水が落ちてくるのだ。
もうかれこれ20年以上になるエアコンだから、老朽化しているのは仕方がない。しかし、よく冷えることは冷える。だからこの水の受け皿だけ用意しておいて、このまま使っていこうかとも思う。だが、半日もつけっぱなしにしておくと、なんと、こんなにも水がたまってしまうのだ。
困ったなあ、やっぱり電気屋を呼ぶのが一番なんだろうな。
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8月15日
私の小さな頃は、人出の多いお祭りなどに行くと傷痍軍人という人々が白い服を着て、何かを訴えていた場面をよく見かけた。あれが本当に傷痍軍人なのかどうか今となっても知るすべもないが、昭和33年生まれの私には、戦争はそれほど昔のことではなかったのかもしれない。
父は昭和8年生まれで、昭和20年は12歳、名古屋の大空襲のときに木の上に上ると、名古屋が炎上するのが見えたという話をよくしてくれた。徴兵されたことはなかったが、父の兄が広島に原爆が落とされた直後に学徒出陣で地獄絵図の町の援助に向かったため残留放射能に被爆して、その後何年かして発症した白血病で亡くなったという話だが、どこまで本当なのかよく分からない。
そんな又聞きの知識しかない私にとっての戦争は、小学校の時にTVでよく見た特攻隊の若者たちの悲しい決意に他ならない。今の私から見て、彼らの行為が戦局に何らかの影響をもたらしたとは思えないのだが、彼らの悲壮な物語は当時の私には涙なしに見ることができなかった。どうして死なねばならないのか、自分なら絶対にいやだ、そんな思いばかり抱いていたように思う。
その延長なのか、8月15日を終戦記念日と呼ぶことにすごく抵抗があった。終戦なのではなく敗戦なんだから、敗戦記念日(誰も負けたのを記念になどしないだろうが)と称するのが当然じゃないかとずっと思っていた。だから、8月15日は私にとってすごくあやふやな日であり続けた。それもごく近しい人を戦争で亡くしたわけではないから実感がないなのかもしれないけれど。
私たちは何をするにも一歩出遅れた世代だと思う。高校生になった頃には、反戦やら何やらで学生運動にのめり込む時代は終わっていた。大学に入って赤ヘルをかぶった者がいるにはいたが、骨董品のような存在だった。ビートルズをライブで聴いたわけでもない。かと言って、四畳半フォークをギター片手に歌うのも気恥ずかしい気がした。少し年をとっても、私より若い世代のようにバブルの頃に派手に遊びまくった記憶もない。いつも何だか中途半端な気がしながら生きてきたような気がする。
そんな者が8月15日だからといって、何か特別な感慨があるといっては鼻白んでしまう。でも、8月15日などどうでもいいや、などとまったくスルーもしていられない、本当に中途半端な世代のような気がする。
イラクで戦争が起こり、今はレバノンで多くの人が死んでいる。アメリカにはアメリカの論理があり、イスラムの人たちには独特の宗教観がある。そのどちらも尊重しなければ、などと日和見な私などは思ってしまうが、それでもあえてこれだけ言っておきたいことがある。
「殺されるのはいやだから殺さない」
難しいことを言い始めたらきりがない。私はただただ、「殺されたくないから殺さない」と言い続けたい。
でもね、それじゃあ、自分が殺されそうになっても、自分の愛する者たちが自分の目の前で殺されそうになっても、お前はそんなお題目を唱えているのか?などと突っ込まれたら、返す言葉はない。難しい、本当に難しい。現実が理想を凌駕してしまうのが現代の流れなのだろうが、奇麗ごとだけでは済まされない現実がある。
できれば死ぬまでそうした状況に追い込まれないように祈るばかりだが、もしそうなったら、やっぱり自分の殺されることなど顧みずに相手に向かっていくだろうな。そうでなくっちゃいけない、覚悟しなくっちゃ。
父は昭和8年生まれで、昭和20年は12歳、名古屋の大空襲のときに木の上に上ると、名古屋が炎上するのが見えたという話をよくしてくれた。徴兵されたことはなかったが、父の兄が広島に原爆が落とされた直後に学徒出陣で地獄絵図の町の援助に向かったため残留放射能に被爆して、その後何年かして発症した白血病で亡くなったという話だが、どこまで本当なのかよく分からない。
そんな又聞きの知識しかない私にとっての戦争は、小学校の時にTVでよく見た特攻隊の若者たちの悲しい決意に他ならない。今の私から見て、彼らの行為が戦局に何らかの影響をもたらしたとは思えないのだが、彼らの悲壮な物語は当時の私には涙なしに見ることができなかった。どうして死なねばならないのか、自分なら絶対にいやだ、そんな思いばかり抱いていたように思う。
その延長なのか、8月15日を終戦記念日と呼ぶことにすごく抵抗があった。終戦なのではなく敗戦なんだから、敗戦記念日(誰も負けたのを記念になどしないだろうが)と称するのが当然じゃないかとずっと思っていた。だから、8月15日は私にとってすごくあやふやな日であり続けた。それもごく近しい人を戦争で亡くしたわけではないから実感がないなのかもしれないけれど。
私たちは何をするにも一歩出遅れた世代だと思う。高校生になった頃には、反戦やら何やらで学生運動にのめり込む時代は終わっていた。大学に入って赤ヘルをかぶった者がいるにはいたが、骨董品のような存在だった。ビートルズをライブで聴いたわけでもない。かと言って、四畳半フォークをギター片手に歌うのも気恥ずかしい気がした。少し年をとっても、私より若い世代のようにバブルの頃に派手に遊びまくった記憶もない。いつも何だか中途半端な気がしながら生きてきたような気がする。
そんな者が8月15日だからといって、何か特別な感慨があるといっては鼻白んでしまう。でも、8月15日などどうでもいいや、などとまったくスルーもしていられない、本当に中途半端な世代のような気がする。
イラクで戦争が起こり、今はレバノンで多くの人が死んでいる。アメリカにはアメリカの論理があり、イスラムの人たちには独特の宗教観がある。そのどちらも尊重しなければ、などと日和見な私などは思ってしまうが、それでもあえてこれだけ言っておきたいことがある。
「殺されるのはいやだから殺さない」
難しいことを言い始めたらきりがない。私はただただ、「殺されたくないから殺さない」と言い続けたい。
でもね、それじゃあ、自分が殺されそうになっても、自分の愛する者たちが自分の目の前で殺されそうになっても、お前はそんなお題目を唱えているのか?などと突っ込まれたら、返す言葉はない。難しい、本当に難しい。現実が理想を凌駕してしまうのが現代の流れなのだろうが、奇麗ごとだけでは済まされない現実がある。
できれば死ぬまでそうした状況に追い込まれないように祈るばかりだが、もしそうなったら、やっぱり自分の殺されることなど顧みずに相手に向かっていくだろうな。そうでなくっちゃいけない、覚悟しなくっちゃ。
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冷しそうめん
妻は今年初めてのSMAPコンサートに出かけた。横浜の日産スタジアムで行われる2日目のコンサートに満を持して、娘と出かけた。1日目のチケットも取れたようだが、娘の都合が付かず断念したと言う。妙に抑えが効いていて気持ち悪いくらいだが、自分で行かなくてもいいと言うんだからいいんだろう。あまり追求すると面倒なことになるからやりたいようにさせておくのが一番だ。
妻が出かけていったところで何も困ることはないが、ただご飯をどうにかせねばならないのだけは厄介だ。どこかで外食をすれば簡単だが、夜食事に出かけるのも最近億劫になっているので、それなら自分でできるものを適当に作ってやれという気になった。と言っても私にできるものなんて限られている。今の時期ならそうめんだ。今までに何度か作ったことがある。随分前のことだが、何とかなるだろう、と軽い気持ちで作り始めた。
家にあったのは、どこからかお中元で頂いた「小豆島手のべ半生そうめん」。『厳選された小麦粉を使い、慶長年間より小豆島に伝わる巻き込み引延ばし法にて製造し、天日も利用して乾燥させたそうめんを再び生麺に戻したものでございます。語り継がれた秘伝の手法を基に半生そうめん独特の風味と他に類をみないこしの強さとたいへんまろやかな舌ざわりをご賞味ください』と書いてある。しかも、ご丁寧なことに茹で方まで解説してある。それに従って作ってみた。
①ゆでる前に必ずそうめんをお好みの長さに切って下さい。
②鍋にお湯(2ℓ)を沸騰させ、切ったそうめんをほぐしながら入れて下さい。
③そうめんを入れた後、ふきこぼれやゆで過ぎに気をつけて、約4分前後ゆでて下さい。
④次にざるに上げ、冷水にてよく水洗いして下さい。水洗いによってそうめんが引きしまり、小豆島そうめん独特のこしの強いそうめんが出来上がります。
⑤ゆで上がり後は、お早めにお召し上がり下さい。
何とかできた。私にしては順調に出来上がったのだが、ざるにおろした麺を水洗いするときに最初麺がものすごく熱かったのにはびっくりした。迂闊にもいい加減な気持ちで麺の中に手を突っ込んだところ、やけどしそうになるほど熱かった。こうした危険をものともせず、毎日妻が食事を作っていてくれるんだなと改めて感謝の気持ちがわいた。
まあ、味のほうは誰が作っても代わり映えしないだろうなどと、高をくくっていたのだが、最初に食べた父がはかばかしい評価をくれなかった。えっ、と思って私も食べてみたのだが、あまりおいしくない。数日前に妻が作ってくれた時は「おいしいそうめんだな」と言っていたのにまったく違う。何が違うんだろう・・・
SMAPと藤原竜也のことしか頭にないようだけど、やるときはやるんだな、と妻の実力を見直したそうめん作りだった。
妻が出かけていったところで何も困ることはないが、ただご飯をどうにかせねばならないのだけは厄介だ。どこかで外食をすれば簡単だが、夜食事に出かけるのも最近億劫になっているので、それなら自分でできるものを適当に作ってやれという気になった。と言っても私にできるものなんて限られている。今の時期ならそうめんだ。今までに何度か作ったことがある。随分前のことだが、何とかなるだろう、と軽い気持ちで作り始めた。
家にあったのは、どこからかお中元で頂いた「小豆島手のべ半生そうめん」。『厳選された小麦粉を使い、慶長年間より小豆島に伝わる巻き込み引延ばし法にて製造し、天日も利用して乾燥させたそうめんを再び生麺に戻したものでございます。語り継がれた秘伝の手法を基に半生そうめん独特の風味と他に類をみないこしの強さとたいへんまろやかな舌ざわりをご賞味ください』と書いてある。しかも、ご丁寧なことに茹で方まで解説してある。それに従って作ってみた。
①ゆでる前に必ずそうめんをお好みの長さに切って下さい。
②鍋にお湯(2ℓ)を沸騰させ、切ったそうめんをほぐしながら入れて下さい。
③そうめんを入れた後、ふきこぼれやゆで過ぎに気をつけて、約4分前後ゆでて下さい。
④次にざるに上げ、冷水にてよく水洗いして下さい。水洗いによってそうめんが引きしまり、小豆島そうめん独特のこしの強いそうめんが出来上がります。
⑤ゆで上がり後は、お早めにお召し上がり下さい。
何とかできた。私にしては順調に出来上がったのだが、ざるにおろした麺を水洗いするときに最初麺がものすごく熱かったのにはびっくりした。迂闊にもいい加減な気持ちで麺の中に手を突っ込んだところ、やけどしそうになるほど熱かった。こうした危険をものともせず、毎日妻が食事を作っていてくれるんだなと改めて感謝の気持ちがわいた。
まあ、味のほうは誰が作っても代わり映えしないだろうなどと、高をくくっていたのだが、最初に食べた父がはかばかしい評価をくれなかった。えっ、と思って私も食べてみたのだが、あまりおいしくない。数日前に妻が作ってくれた時は「おいしいそうめんだな」と言っていたのにまったく違う。何が違うんだろう・・・
SMAPと藤原竜也のことしか頭にないようだけど、やるときはやるんだな、と妻の実力を見直したそうめん作りだった。
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同級生交歓
文春新書「同級生交歓」を読んだ。と言っても、ぺらぺらめくって、興味のある人々の欄を読んだだけだが、それでも新しい発見があって、なかなか面白い本だった。
人の一生を左右するのは校風か、学歴か、友人か。意外な組み合わせ、納得の顔ぶれが並ぶ百組の”誌上同窓会”。月刊「文芸春秋」の名物グラビア50周年記念の忘れ得ぬ一冊。
と表紙にあるように、多士済々な顔ぶれが並んでいて、「ほおっ」と驚いた人たちも何組かいた。以下に私が意外に思った同級生の組合わせを列挙してみる。
杉本苑子・加藤芳郎・・・中幡小学校
福田恆恒・山崎正一・高橋義孝・・・第二東京市立中
加藤武・中谷昇・小澤昭一・フランキー堺・内藤法美・・・麻布中学
美輪明宏・西岡武夫・・・長崎海星中学
藤村志保・安井かずみ・・・フェリス女学院中等部
鳩山邦夫・都倉俊一・・・学習院中等科
水道橋博士・甲本ひろと・・・岡山大学付属中学
荒木経惟・立花隆・千足伸行・・・上野高校
西岸良平・細野晴臣・・・立教高校
辻邦夫・北杜夫・・・旧制松本高等学校
いずみたく・なだいなだ・加藤秀俊・・・仙台陸軍幼年学校
江守徹・吉田日出子・・・北園高校
この他にも意外な同級生の組み合わせもたくさんある。例えば、日本マクドナルド社長で2004年に亡くなった藤田田と、共産党の元衆議院議員の松本善明が大阪北野中(現・大阪府立北野高校)で同級生だったのには驚いた。藤田と言えば、日本マクドナルドを創業する際も、「McDonald's」を、正しい発音である『マクダーナルズ』とせずにアメリカ本社の反対を押し切り「日本語的に馴染みやすい3・3の韻になるよう」に『マクドナルド』としたことは有名な話だ。一方の松本善明は、私にとっては共産党の議員というより、いわさきちひろの夫としてのほうが馴染み深い。いわさきちひろの本は、松谷みよ子が文を書いた「あかちゃんのうた」が私の子どもたちの愛読書となっていた。
古井由吉・塩野七生・庄司薫が日比谷高校で同級生だったのにも驚いた。古井由吉は内向の世代と評され、『杳子・妻隠』『円陣を組む女たち』を読んだことがある。塩野七生は、『ルネサンスの女たち』 など、イタリアを舞台にした小説を書き続けている作家であるが、私の娘が生まれたときに彼女にちなんで「七生(ななみ)」と名付けようかと思ったほどである。庄司薫は『赤頭巾ちゃん気をつけて』『さよなら怪傑黒頭巾』・『白鳥の歌なんか聞こえない』・『狼なんかこわくない』など、高校生の時に盛んに読みふけった。何がそんなに面白かったのかよく覚えていないが、都立日比谷高校に通う主人公「薫くん」の物語は映画まで見に行った記憶がある。筆を絶って久しいので、ピアニスト中村紘子の夫と言ったほうがいいのかもしれない。
私の同級生には、たいした有名人はいない。強いてあげれば高校のときの同級生で、数ヶ月前に愛知県豊橋市の病院の院長として公立病院の医師に贈賄をして逮捕された者がいることと、大学のときの1・2回生の時に、俳優の辰巳琢郎がおなじクラスにいたことぐらいだ。それと、海部元首相の息子も中学の時に同じクラスだったように思う、まったくどうでもいい話だが。
人の一生を左右するのは校風か、学歴か、友人か。意外な組み合わせ、納得の顔ぶれが並ぶ百組の”誌上同窓会”。月刊「文芸春秋」の名物グラビア50周年記念の忘れ得ぬ一冊。
と表紙にあるように、多士済々な顔ぶれが並んでいて、「ほおっ」と驚いた人たちも何組かいた。以下に私が意外に思った同級生の組合わせを列挙してみる。
杉本苑子・加藤芳郎・・・中幡小学校
福田恆恒・山崎正一・高橋義孝・・・第二東京市立中
加藤武・中谷昇・小澤昭一・フランキー堺・内藤法美・・・麻布中学
美輪明宏・西岡武夫・・・長崎海星中学
藤村志保・安井かずみ・・・フェリス女学院中等部
鳩山邦夫・都倉俊一・・・学習院中等科
水道橋博士・甲本ひろと・・・岡山大学付属中学
荒木経惟・立花隆・千足伸行・・・上野高校
西岸良平・細野晴臣・・・立教高校
辻邦夫・北杜夫・・・旧制松本高等学校
いずみたく・なだいなだ・加藤秀俊・・・仙台陸軍幼年学校
江守徹・吉田日出子・・・北園高校
この他にも意外な同級生の組み合わせもたくさんある。例えば、日本マクドナルド社長で2004年に亡くなった藤田田と、共産党の元衆議院議員の松本善明が大阪北野中(現・大阪府立北野高校)で同級生だったのには驚いた。藤田と言えば、日本マクドナルドを創業する際も、「McDonald's」を、正しい発音である『マクダーナルズ』とせずにアメリカ本社の反対を押し切り「日本語的に馴染みやすい3・3の韻になるよう」に『マクドナルド』としたことは有名な話だ。一方の松本善明は、私にとっては共産党の議員というより、いわさきちひろの夫としてのほうが馴染み深い。いわさきちひろの本は、松谷みよ子が文を書いた「あかちゃんのうた」が私の子どもたちの愛読書となっていた。
古井由吉・塩野七生・庄司薫が日比谷高校で同級生だったのにも驚いた。古井由吉は内向の世代と評され、『杳子・妻隠』『円陣を組む女たち』を読んだことがある。塩野七生は、『ルネサンスの女たち』 など、イタリアを舞台にした小説を書き続けている作家であるが、私の娘が生まれたときに彼女にちなんで「七生(ななみ)」と名付けようかと思ったほどである。庄司薫は『赤頭巾ちゃん気をつけて』『さよなら怪傑黒頭巾』・『白鳥の歌なんか聞こえない』・『狼なんかこわくない』など、高校生の時に盛んに読みふけった。何がそんなに面白かったのかよく覚えていないが、都立日比谷高校に通う主人公「薫くん」の物語は映画まで見に行った記憶がある。筆を絶って久しいので、ピアニスト中村紘子の夫と言ったほうがいいのかもしれない。
私の同級生には、たいした有名人はいない。強いてあげれば高校のときの同級生で、数ヶ月前に愛知県豊橋市の病院の院長として公立病院の医師に贈賄をして逮捕された者がいることと、大学のときの1・2回生の時に、俳優の辰巳琢郎がおなじクラスにいたことぐらいだ。それと、海部元首相の息子も中学の時に同じクラスだったように思う、まったくどうでもいい話だが。
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ほっ・・・
今日から塾の夏休みだ。月曜までのわずか3日間だが、まとまった休みのほとんどない私にとっては貴重な3日間だ。何がうれしいといって、掃除をしなくてすむ。今年は息子が受験生であるため、昨年までのように掃除を任すことができない。かといって、ほかに誰もやってくれないから、自分でやるより仕方がない。塾が終わって生徒を送り届けて帰宅すると、息つく暇もなく教室の掃除をしなくてはいけない。翌朝一番でやろうかとも思ったが、朝はなるべく遅くまで寝ていたい。掃除のために少しでも早起きするのはあまりにつまらない。なので、帰宅すると、くつろいでしまう前に何とか掃除に取り掛かるように決めている。
しかし、毎回思うことだが、こうやって毎晩きれいに掃除しても朝になればすぐに消しゴムのカスなどで汚れてしまう。汚れているから掃除するのか、掃除するから汚れるのか、よく分からなくなってくる。たしかに生徒が一生懸命勉強すれば色々汚れるのは当たり前だから、汚れることを喜ばなければならないのかもしれない。でも、疲れた体に鞭打って一日の終わりにふらふらになりながら掃除していると、ついついわけの分からぬことを夢想してしまう。
神々がシジフォスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運びあげるというものだったが、 ひとたび山頂にまで達すると、 岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。
無益で希望のない労働ほど怖しい懲罰はないと神々が考えたのは、 確かにいくらかはもっともなことであった。
アルベール・カミュ『シジフォスの神話』
まさか私の毎日の掃除をシジフォスの懲罰になぞらえるつもりはないが、ふっとこの神話が頭をよぎった。ドストエフスキーもシベリア流刑のときに同じように不条理な仕事を課せられた。彼の場合は、地面に大きな穴を掘っては、何もその中に入れたりせずに、再び土を元に戻して穴をふさぐ、そうした作業を延々と繰り返させられたという。
確かになんらの成果をもたらさないもの、精神的に充足感を与えられない仕事を強制されることほどつらいことはないかもしれない。私たちの多くが毎日淡々と繰り返している仕事も多かれ少なかれ、そうした側面を持っている。これをやり遂げたとしてなんになろう、そう思いながらも単調な作業に従わざるを得ないことも多い。中には、最後までその仕事の持つ意義を見つけられずにその仕事から離れてしまう人も多いることだろう。
しかし、それが仕事と言うものだよという声が聞こえなくもない。そうならば、私たちをその仕事につなぎとめるものは一体なんだろう。勿論それが報酬であることくらいはあえて言うまでもない。お金と交換に時間を提供しているのだと言えば納得のいく場合もあるかもしれない。シジフォスも石を一個運んだらいくらだとか、ドストエフスキーも穴を1つ掘って埋めなおしたら刑期が何日か減るというような契約をしたならば、不条理でもなんでもなくなってしまい、正当な仕事となってしまう。なんだ、単に見返りがないと、人は気に入らない作業を無意味なものと片付けてしまって、やる気を起こさないのか。
ならば、私の毎晩やっている掃除も無報酬だから、ため息交じりでしかできないのだろうか。まあ、塾長として勉強だけ教えていればいい身分だったら、そういう不満も認められるのかもしれないが、何と言っても、掃除・送迎も重要な役目である弱小塾の塾長としてはとてもそんな贅沢を言ってはいられない。塾に関してはどんなことにでも責任があるのだから、文句など言わずに励まなければならない。
などと立派なことを言えるのも、「休みだ!」と思って心に余裕が戻ってきたからだろうか。 余裕なのかな、大切なのは。
しかし、毎回思うことだが、こうやって毎晩きれいに掃除しても朝になればすぐに消しゴムのカスなどで汚れてしまう。汚れているから掃除するのか、掃除するから汚れるのか、よく分からなくなってくる。たしかに生徒が一生懸命勉強すれば色々汚れるのは当たり前だから、汚れることを喜ばなければならないのかもしれない。でも、疲れた体に鞭打って一日の終わりにふらふらになりながら掃除していると、ついついわけの分からぬことを夢想してしまう。
神々がシジフォスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運びあげるというものだったが、 ひとたび山頂にまで達すると、 岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。
無益で希望のない労働ほど怖しい懲罰はないと神々が考えたのは、 確かにいくらかはもっともなことであった。
アルベール・カミュ『シジフォスの神話』
まさか私の毎日の掃除をシジフォスの懲罰になぞらえるつもりはないが、ふっとこの神話が頭をよぎった。ドストエフスキーもシベリア流刑のときに同じように不条理な仕事を課せられた。彼の場合は、地面に大きな穴を掘っては、何もその中に入れたりせずに、再び土を元に戻して穴をふさぐ、そうした作業を延々と繰り返させられたという。
確かになんらの成果をもたらさないもの、精神的に充足感を与えられない仕事を強制されることほどつらいことはないかもしれない。私たちの多くが毎日淡々と繰り返している仕事も多かれ少なかれ、そうした側面を持っている。これをやり遂げたとしてなんになろう、そう思いながらも単調な作業に従わざるを得ないことも多い。中には、最後までその仕事の持つ意義を見つけられずにその仕事から離れてしまう人も多いることだろう。
しかし、それが仕事と言うものだよという声が聞こえなくもない。そうならば、私たちをその仕事につなぎとめるものは一体なんだろう。勿論それが報酬であることくらいはあえて言うまでもない。お金と交換に時間を提供しているのだと言えば納得のいく場合もあるかもしれない。シジフォスも石を一個運んだらいくらだとか、ドストエフスキーも穴を1つ掘って埋めなおしたら刑期が何日か減るというような契約をしたならば、不条理でもなんでもなくなってしまい、正当な仕事となってしまう。なんだ、単に見返りがないと、人は気に入らない作業を無意味なものと片付けてしまって、やる気を起こさないのか。
ならば、私の毎晩やっている掃除も無報酬だから、ため息交じりでしかできないのだろうか。まあ、塾長として勉強だけ教えていればいい身分だったら、そういう不満も認められるのかもしれないが、何と言っても、掃除・送迎も重要な役目である弱小塾の塾長としてはとてもそんな贅沢を言ってはいられない。塾に関してはどんなことにでも責任があるのだから、文句など言わずに励まなければならない。
などと立派なことを言えるのも、「休みだ!」と思って心に余裕が戻ってきたからだろうか。 余裕なのかな、大切なのは。
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