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自己分析

 若冲の特集を載せていた雑誌「BRUTUS」に面白い広告が載っていた。BMWの広告だが、「人生に多くのことを求める人」というものをいくつか「定義」によって浮かび上がらせようという目論見のようだ。「定義」というほどのものでもなく、さほど深い意味を持ってもいないだろう。単なるお遊びだと思えばいいのかもしれないが、全部で21項目ある「定義」を眺めているうちに、自分に当てはまるものがいくつあるだろうと数えてしまっていた。多ければそれだけ、ソフィストケイトされた人間だというわけでもないだろう。でも、数が多ければそれだけかっこいい人間のように思えるのは、BMWのもつイメージからなのだろうか、それとも私が単なるミーハーだからなのだろうか。とりあえず、以下に写してみる。(番号は便宜上つけた)
 
  ①大人の哲学を持ち、子どものような純粋さを持つ人
  ②主流なのに、心は反主流である人
  ③スーツを着こなすが、ジーンズもはきこなす人
  ④人生も語れるが、ジョークもうまい人
  ⑤有意義も好きだが、無意味なことも好きな人
  ⑥ワインにも詳しいが、恐竜にも詳しい人
  ⑦常識は持っているが、決して縛られない人
  ⑧ITには強いが、手紙は万年筆で書く人
  ⑨家庭を愛しているが、時には家庭を忘れられる人
  ⑩孤独も好きだが、社交も上手な人
  ⑪常に冷静だが、時に情熱的になれる人
  ⑫クラシックも聴くが、ロックも愛している人
  ⑬自信はあっても過信はしない人
  ⑭美術館にも行くが、ジムにも行く人
  ⑮協調もできるが、反論もできる人
  ⑯夜更かしはするが、朝きちんと起きる人
  ⑰守るものが多くても、冒険できる人
  ⑱部下には優しいが、上司には厳しい人
  ⑲食べるのも好きだが、料理もできる人
  ⑳上質にこだわるが、贅沢は好きじゃない人
  21自分の誕生日は忘れても、約束の時間は守る人

図々しくも自分に当てはまると思ったものは、①④⑤⑦⑨⑪⑬⑰21の9項目。大甘に見てのことだ。①④⑤は、いつまでも大人になりきれない私の愚かさを表しているようで少々恥ずかしい。⑦⑨⑪⑰は、私の無計画性というか、ちゃらんぽらんなところを美化すればこうなるかなという印象だ。⑬21は、いい加減なくせに妙なところは律儀な私の性格を表しているように思う。
 逆に当てはまらないと思うものについて言うなら、②は私のすべてが反主流だからどうしようもない。⑧はITに強いわけもなく、勘だけでPCを扱っているのだから違う。⑩は社交的になれるのは酔っ払ったときだけだし、⑯は夜更かしは得意だが朝はからっきし駄目だから、とても当てはまらない。⑲は料理ができないから論外だし、⑳は上質を見分ける目がないのは致命的だ。⑫⑭では、確かに美しいものを鑑賞するのは大好きだが、クラシックを聴いたり美術館に出かけたりするほどの心の余裕がないのは自分でも恥ずかしい。
 
 とまあ、ちょっとした自己分析ができた。そういう意味ではなかなかの「定義」ではある。ただ広告のためだけに作られたものじゃないのかなという気がしないでもない。
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たまご

 昨日の記事でも強調したように、私は鶏が大嫌いだ。しかし、何故だか分からないが、たまごは大好物だ。それは、トマトは食べられないがケチャップなら食べられ、チーズのままなら臭くて我慢できないがチーズケーキになればおいしく食べられるのと同じなのかもしれない。たまご焼きならスクランブルエッグから目玉焼きまで何でも大好きだし、毎朝喫茶店に行ってモーニングサービスのゆで卵を食べている。生卵をアツアツのご飯に落として醤油をたらしてざっと食べるのも大好きだ。洋食屋に行っても肉は食べないので、プレーンのオムレツをサラダと一緒に食べるのが私の定番となっている。時々はたまごを食べながら、これはあの鶏が産み落としたものなんだぞ、と自分に言ってみることもあるが、一瞬はさすがにたじろぐものの次の瞬間にはもう忘れてしまっている。それほどたまごはおいしいし、私のいい加減なところでもある。
 この前の日曜日に、妻とスーパーに買い物に行った。私の目的は一週間分のウーロン茶を買い込むことだった。夏休み中の平日は身動きが取れないので、日曜ごとに私には必需品となっているウーロン茶をまとめ買いすることにしている。最初にお目当てのウーロン茶を買い物かごに詰め込んだ私は、妻の買い物に付き合ってふらふら歩いた。平日の午前中と違って、日曜には一家総出で買い物をしている家族も多く、男の人の姿も目立つ。私も何の気後れもせずに店内を歩くことができた。
 すると、たまごの売り場の前でちょっとしたことに気づいた。たまごというものはパック売りされていてすべて同じものだばかりと思っていたが、実は色々な種類があって値段もさまざまだということに初めて気づいた。これは大発見だと、携帯のカメラで売っているすべてのものを写真に撮ってみた。

 

まずは、普通のたまご。10個1パックで、Mサイズは158円。1個約16円。さすがに物価の優等生といわれるだけあって、物の値段に疎い私でも「安い!」と感激するほどだ。しかし、私が気になったのはこれ以外にもいろんなたまごが売られていたことだ。

 

「尾張のたまご」(白玉)は6個パックだから、1個約26円、それが赤玉だと1個約30円になる。赤玉のほうがおいしいとは思うのだが、それがどういう理由からなのか私は知らない。これを夏休みの自由研究にすると結構面白いかもしれない。小中学生に提案してみよう。さらには、

 

「ごまたまご」だと1個約31円、αリノレン酸が4倍という「しんたまご」だと1個約33円だ。何がどうすると、たまごの成分が違ってくるのだろう。鶏に与える餌の成分によるのだろうか。それとも狭い鶏舎に閉じ込めてばかりいず、のびのび育てたりすると違ってくるのだろうか。これも夏休みの自由研究にはいい課題だ。そして最後に究極(?)の、ヨード卵!


さすがに1個52.5円と他の追随を許さない、まさしく王者の貫禄の値段だ。普通のたまご3個以上分の値段だ。本当に高級なたまごだ。
 だけど、果たして3倍のおいしさがするんだろうか・・そういう問題じゃないのかな。

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若冲

 若冲がブームらしい。7月4日から東京国立博物館では「若冲と江戸絵画」展が開かれている。この展覧会は、9月23日からは京都国立近代美術館で開催され、さらに来年1月1日からは九州国立博物館、そして、やっと4月13日から愛知県美術館で開かれる。見たい、ぜひとも見たい。それなのに愛知県美術館に来るのが来年の4月とは、まったく名古屋は・・・それなら、京都まで見に行こうか、京都ならやりくりして時間を見つければ何とかなるかもしれない。考えてみよう。
 と、思っていたところに書店で雑誌「BRUTUS」が若冲の特集をしているのを見つけた。「若冲を見たか」というタイトルで、ほぼ全編若冲の記事であふれている。表紙には「21世紀のクリエイターに最も影響を与える江戸時代の天才画家」と最大級の賛辞が踊っている。

しかし、私にとっての若冲はなんと言っても鶏だ。もう随分昔になるが、初めて若冲の鶏を見たときは本当に驚いた、というより恐れおののいた。私はこのブログで何度も書いているように鶏が大嫌いだ。怖いといったほうが正しいかもしれない。とにかく鶏だけはどうにも受け付けない。生きてクックッと歩いているのを見るのもいやだし、殺されて鶏肉となったのを見るのも我慢できない。特に、鶏の脚が最高に気持ちが悪い、嘴も鶏冠も羽も羽をむしった後の皮のぶつぶつも・・・いやでたまらない、考えただけで寒気がする。そんな私にとって、若冲の絵はあまりに刺激的過ぎる。実を言えば鶏の姿など、何年も正視したことはない。だから若冲の絵は実物の鶏よりも私にとっては現実的なのだ。

 

今こうして雑誌から撮った写真を貼り付けただけでも、気が遠くなりそうだ。なんてすごい絵なんだろう。若冲は華やかな羽毛を持つ鶏数十羽を庭に飼って観察していたというが、その写実力の見事さには驚くばかりだ。来年5月12日から6月3日まで相国寺で開催される「若冲・動植綵絵展」で118年ぶりに里帰りが実現するという、動植綵絵30幅の中にも鶏が8幅描かれている。すべて、私には耐えられないほど見事な描きっぷりである。
 しかしこの30幅の絵をよく見ていると、水中の生物を描いたものが2幅ある。

 

この絵を見ていると、なんだか浦島太郎になって竜宮城にいるような気がしてくる。不思議な絵だが、心が弾んでくる。今から200年以上前にこんな絵を描いていた人がいるかと思うと楽しくなる。
 どんなことをしても見に行きたいなあ、若冲!

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あいたくて

 なまじっか若い頃にフランス文学をかじったばかりに、存在理由(raison d'etre)などという何の役にも立たないものに拘っていたことがある。己の意思によってではなく、他の何かのはたらきによって産み落とされてしまったこの世界に、己の存在する理由は果たしてあるのだろうか、そんなことを漠然とではあるが、ずっと考えてきたような気がする。
 何の変哲もない日常が淡々と過ぎ行く中で、何とかくさびを打ち込もうとあがいたこともあるが、それは徒労でしかなかった。泣こうが喚こうが、時の流れに押し流されてしまい、はっと気づけばこんなところにまで流されてしまった。これから先一体どれくらいの時間が私の掌中に残されているのかはなはだ覚束なくはあるが、この歳になるまで自分の考えてきたことに明確な答えを見つけられないでいるのは、今まで生きてきた時間が無意味だったことの証左になってしまうのだろうか。いや、そんなことはあるまい。今日まで私は生きてきた途中で色んなところに足跡は残してきたはずだ。それがいくら頼りない歩みであったとしても、まるで無意味だったとは思いたくない。
 
 「あいたくて」  工藤直子
だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた―
そんな気がするのだけれど

それがだれなのかなになのか
あえるのは いつなのか―

おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている

それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
手わたさなくちゃ
だから

あいたくて


私はもう会いたい人に会えただろうか。「ことづけ」を伝えることはできただろうか。この詩を読んで、ふとそんなことを思った。
 私は今まで数限りない人に会ってきた。しかし、その中で本当に会いたかった人はそんなには多くないだろう。そうした人たちに巡り会えた幸せは、奇跡的な確率なのかもしれないが、人の出会いには必然というものがあるような気がする。何の奇跡でもなく、出会うべくして出会ったという、昔から言われている「運命の糸」で結ばれたような必然的な出会いがあるような気がする。互いの心の中にある磁石が互いの方向に向き合って引かれあうような出会いが。
 しかし、それと気づかずにやり過ごしてしまった出会いもあるかもしれない。その出会いがいくら運命的なものだったとしても、お互いが自分の心を伝えあわなければ、何も生まれないからだ。自分が心の中に持っている「ことづけ」をしっかり相手に伝えることができるか、それが出会いを単なる出会いのまま終わらせるか、永続的な関係へ発展させるかの岐路なのだろう。「ことづけ」を相手に伝えることは勇気の要ることかもしれない。しかし、本当に相手との友好を望むのなら、それを乗り越えるくらいのエネルギーは簡単に出てくるはずだ。
 そうした「ことづけ」を伝えること、それが私たちの存在理由なのかもしれないと、最近思うようになってきた。いかにも抽象的だが、そんな気がしてならない。
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高校野球

 甲子園大会が始まった。初日は春の選抜大会覇者の横浜高校が大阪の桐蔭高校に敗れ、春夏連覇の夢は砕け散った。まだ、北海道の駒大苫小牧高校の3連覇の可能性は残されているから、これからの試合を楽しみにしていきたい。
 しかし、久しぶりに見た高校野球(横浜vs大阪桐蔭)はなんだか様変わりしていた。バッターボックスにはいる選手の構えが皆大きくて、なんだかメジャーリーグの選手のように見えた。体も高校生とは思えないほど立派で、セミプロの試合を見ているような気がした。バックスクリーン横のHRも飛び出して、隔世の感があるほど打球が速くて遠くへ飛ぶ。ため息が出るほど素晴らしい選手ばかりだけど、少しばかり現代の高校野球の実情を知っている者としては素直に驚いてばかりいられない。

 私の塾にリトルリーグで野球をやっていた少年がいた。体が大きく、素質にあふれた少年だと言われていた。中学は私立に進み、リトルリーグからシニアリーグへと進むうちに、進学した中学から別の野球強豪高校へ転校する話になり、入学試験に合格するため、しばらく休んでいた私の塾へまた通い始めた。一段と体も大きくなって、シニアリーグでは俊足強打の外野手として名前を知られる存在であったようで、スポーツ新聞にも将来が嘱望される選手として、インタビューが載るほどだった。彼がそこまでずっと野球に打ち込んできたのは、彼の叔父さんが名古屋で野球の名門校として有名な高校のキャプテンだったことが大きな理由だった。幼い頃に両親が離婚して祖母の手で育てられた彼の経済的な面倒を見てきたのは、その叔父だった。叔父の言われるままに野球を始め、叔父の言うとおりに高校を選んだ。入学後は毎日甲子園目指して頑張っていると思っていた彼の活躍が、私には楽しみであった。今年の夏の大会では、優勝候補にも挙げられていた彼の学校のメンバー表を新聞で見つけたとき、2年生になっている彼の名前を探してみた。ところがレギュラメンバーの中に名前がない。おかしいな、補欠かなと思って探したが、どこにも彼の名前はない。どうしたんだろう・・・
 心配になった私は彼をよく知る塾生に彼の近況を尋ねてみた。すると、
「野球はやめたらしい」
「えっ?どうして?」
「よく分からないけど」
「で、今何をやってるの?」
「不良・・」
なんてことだ。あんなに野球に情熱を傾けていた子がどうして。素質に恵まれ、高校に入ったらすぐにレギュラーになれると言われていたのに。何があったんだろう。ずっと野球しかやってこなかった子だから、野球を止めたら遊ぶしかないだろう、それで世間からはグレたと思われてしまうだろう、それにしてもなぜ・・・

 今中3の塾生にも1人、シニアリーグのピッチャーをやっている子がいる。その子は中学の野球部には所属せず、シニアのチームで硬球を投げている。なんでも軟式のボールは軽すぎて肩を痛めるらしく、中学校の野球には一切関係していない。その彼の進学先が隣県の野球名門校に決まりかけている。勿論シニアの関係で野球留学の形になるのだろうが、話を聞くとそういったケースは実に多いらしい。シニアリーグで目立つと、色んな高校から声がかかるそうだ。野球を止めた生徒も神奈川県の高校からスカウトがあったと言っていた。
 新聞でも、シニアリーグ出身者が全国の高校に進学していく実態が明らかにされていた。甲子園大会に出場するためには地方の高校のほうが近道とばかりに多くの生徒が押し寄せるようだ。こうした実態を知るにつけ、一体甲子園大会とは何だろうと疑問がわく。「郷土の代表」などという言葉が色褪せるような実態では、心から応援できないではないか。
 都会の高校は地元のリーグ出身者が多いから、さほど違和感はないかもしれない。しかし、地方ではどうだろう。気になるところだ。
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妄想

 昨日土曜のお昼に、自販機でウーロン茶を買った。そのとき驚いた、「今週月曜から土曜まで、自分でお金を使ったのはこれが初めてだ!」なんと、1週間で150円しか使わなかった。勿論、食費とか、ガソリン代とか、光熱費とか、生きてる以上は知らないうちに使っているお金はたくさんあるのだろうけど、そういう目に見えないお金を除けば、自分のポケットから出て行ったお金は、本当に150円だけだった。
 「素晴らしい!」・・わけの分からぬうちにお金がなくなっている生活を送っている普段の生活から考えれば、奇跡的なことのように思われる。これで自分を褒めなくていつ褒めるときがあるというのだろう。「すごいぞ、お前もなかなかやるな」と自分を褒める言葉にも納得がいく。いい年こいたおっさんが一週間で150円しか使わない、TVのバラエティー番組に出られそうな生活だ。
 しかし、それは何も節約を意図してこうなったのではない。夏休み中は、朝の9時前から夜の12時前まで、塾の教室で授業をするか、送迎のバスを運転しているかのどちらかで、それ以外は何もできないのだから、お金を使いたくても使う時間がない。バスに載っている時に外の空気は吸うので、気分転換はそれなりにできるのだが、お金を使って何かを買おうなどという気はまったく起こらない。普段なら、朝起きて喫茶店に行き、その後午前中はふらふらしているものだから、ついついお金を使ってしまう。しかし、今はまったくそんなことはできない。この生活を続けられたら、きっとお金が貯まることだろう。毎日の額は大したことはないかもしれないが、ちりも積もれば何とやら、ひょっとしたら大金を貯めることができるかもしれない。そうしたら、どうしよう。なんに使おうか。などと、捕らぬ狸の皮算用で妄想は膨らむ。
 
 去年、松井のプレーをすべて見るために公式戦162試合とポストシーズン合わせて170試合以上、全部ヤンキースに帯同したら一体いくらかかるだろうと考えてみたことがある。ホテル代・チケット代・交通費・食費など、半年分にかかるもろもろの費用を合計して果たしていくらかかるだろう、と試算してみた。平均して1日5万円かかるとしたなら、約200日で1000万円、やっぱりそれくらいはかかるだろうなと計算してため息をついたのを覚えている。さらに日本に残してきた家族の、その間の生活費も要るだろうし、どんどん数字は膨らんできて、あまりに非現実的なものとなって考えるのをやめてしまった。
 しかし、妄想なんてものは、荒唐無稽であればあるほど、胸が高鳴るものであろうから、もっとすごいものは何かないだろうかと考えてみた。想像力の貧困な私が考えることだから、大したものは思いつかなかったが、それでも一つ素晴らしいものを思いついた。それは、世界一周クルーズだ。1ヶ月ほど前に、新聞広告に案内が載っていた。そのときは、こんなものを利用するお大尽になってみたいものだとしか思わなかったが、思い出して早速検索してみた。 世界一周クルーズ

101日間で、アジア・中近東・黒海・地中海・西ヨーロッパ・北米・カリブ海・アラスカの各地を周遊する旅である。料金は、一番安い「Kステート」が早期申込で1人320万円、一番高い「Sロイヤルステート」が1600万円となっている。8段階に分かれていて、予算に合わせてということなんだろうが、どうせなら一番高い部屋で行こうではないか。 飛鳥Ⅱ

しかし、もう止めよう、なんだか虚しくなってきた。あまりに豪華すぎて現実感がなさ過ぎる。でも、しかし、世の中にはぽんと大金出して、こういう豪華な船旅を楽しめる人もいるんだから、すごいものだ。うらやましいとは思いたくないけど、やっぱり憧れてしまう。
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ヤモリ、ザ・ハンター(2)

 去年8月19日に「ヤモリ・ザ・ハンター」という記事を書いた。私の塾舎には夜な夜なヤモリが何匹も現れる。明るいうちは雨戸の戸袋の中で暮らしているようだが、日が落ちて、教室の明かりがともって小さな虫や蛾が寄り集まってくると、それにおびき寄せられるかのようにヤモリが何匹も窓に張り付く。勿論そうやって近づいてくる虫を餌にするためだが、その狩りの様子を1年前に記した。そのときは画像を何枚も貼りつける技術を持ち合わせていなかったものだから、1枚だけヤモリが蛾を狙っている写真が載せてある。その技術を習得した今年こそはなんとしてもヤモリの狩りの決定的瞬間を撮りたいものだと機会を虎視眈々と伺っていた。

 

教室から見るといつもこういう状態で窓ガラスにくっついている。近づいていってじっと見ると、足の指先に吸盤があるのが見える。精巧なつくりをしていて、これなら落ちることもないだろうと思わせる。自然の造作の見事さには、生き物の無駄のない構造をみるたびに感動する。腹にも微妙な筋が細かく走っていて、全身でくっついて落ちないようになっているようだ。こうやって見ているといつも気になることがひとつある。ヤモリの生殖器というものは外からは見えないのだろうか。何匹みてもそれらしいものが見当たらない、不思議だ。

 

背中のほうから見ると結構かわいらしい。背中の縞模様も一匹一匹違うし、目も膨らんだ感じがなかなかキュートだ。生徒の中には、ヤモリが窓に張り付いているのを見つけると、キャーと声を上げて逃げ惑う子もいるのだが、そこまでするのはちょっと大袈裟だろうと毎日見ていて愛着がわいている私などは思う。確かに大好物の蛾が飛んでくるのをじっと待っている彼らの様子は残忍と言えなくもないのだが、生きるためには当然のことをしているだけで仕方ない。
 それにしても、いざ蛾を捕まえた瞬間を写真に収めようとするとなかなかうまくいかない。思い立ってから、2週間ほどが無駄に過ぎた。ふっと気づくともう蛾を飲み込んでしまった後だったことも何度かあった。塾の授業をしているわけだから、タイミングよく行くわけもない。ところが、2日ほど前にとうとうやった!!見事蛾を捕まえた瞬間のヤモリを写真に収めることができたのだ。

 

左が捕まえた瞬間、まだ蛾がばたついているのが分かる。右は次の瞬間、少し飲み込んでいる。蛾も少しおとなしくなっている。この2枚の写真を撮り終えた瞬間、私はふっと肩の荷が下りた気がした。別に誰も期待していない写真なのだが、世紀のスクープをものにしたような静かな感動が体を包んだ、といっては言い過ぎなのかもしれないが、まあ、それに近い感激を味わった。
 でも、これでまた「げてものシリーズ」に一つおぞましいものが加わったといわれるんだろうな・・・
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宇宙の謎

 妻の母は、今年74歳で一人暮らしをしている。18年ほど前に妻の父が亡くなり、妹も10年ほど前に結婚して家を出て以来ずっと気ままに一人暮らしをしている。妻とは馬が合わないようで、たまに顔をあわせると必ずと言っていいほど口げんかになってしまう。そろそろ我が家に連れて来なければいけないという話をしても、真っ先に妻が反対する。実の親子にしか分からぬ愛憎があるのかもしれないが、困ったものである。
 そんな義母のここ数年来の楽しみは、名古屋大学理学研究科天文物理学研究室で開かれる市民講座に参加することである。どういうきっかけでそういう学術的なグループに参加るようになったのかよくは知らないが、ずいぶん熱心に通っている。時々家を訪ねると、レポートなどを見せてくれるのだが、あいにく私たちにはそうした興味がないものだからいつもつまらなそうな顔をしている。10年程前には、チリまで天体望遠鏡の観測に出向いた(なんてん電波天文台)。妻の妹を連れての旅だったが、そのときの縁で妹は今の夫を見つけることができたのだから、あながち道楽でもない。それにしてもただの老婆が天体望遠鏡を見るためだけにわざわざ地球の裏側まで行くのだから、底知れぬパワーの持ち主である。自分の望みをかなえるためなら、どんな苦難をも乗り越えるという性質はきちんと妻に受け継がれているのだから、似たもの同士でそりが合わないのかもしれない。
 私の部屋には義母がくれた1m四方の大きな天球図のパネルが2枚置いてある。

 

インテリアとしてはなかなかいい感じだが、いかんせん大きすぎてどこの部屋に置いても邪魔なため、結局私の部屋に落ち着いた。夜寝ようとして部屋の灯りを消すと、ボーっと星が浮かび上がってきてなかなかロマンチックだ。ほんの一瞬のことではあるが、私の安らかな眠りの助けのなっているのかもしれない。

 そんな義母が数日前我が家にやって来て、塾の生徒に配ってくれと葉書きを数枚置いていった。何だろうと思う必要もない、当然のごとく、名古屋大学天体物理学研究室からの案内だった。「宇宙100の謎 大募集」というチラシに次のような説明が載っていた。

宇宙は不思議にみちています。
だから宇宙はいつも、私たちの心をひきつけます。
私たちはだれでも、宇宙について知りたい「謎」をもっています。
そんなあなたの「謎」を教えてください。
プロジェクト「宇宙100の謎」は、あなたが参加してつくる宇宙の質問箱です。

 私たちが疑問に思っている、宇宙に関する「謎」をホームページに応募すると、第一線の研究者、研究者の卵、科学館・博物館の天文担当者が私たちとやり取りしながら解答を作っていくというプロジェクトなのだそうだ。やり取りを通じて、「謎」への答えを、もっと分かりやすく、楽しく、「なるほど」と思えるものに育てていき、そうした「謎」からベスト100の謎と回答を選んで本にするという。なかなか面白い企画だ。
 早速私も考えてみたが、なかなか思い浮かばない。もうちょっと考えて、一つくらいはぜひとも応募してみようと思っている。

      宇宙100の謎 はこちら。
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定員割れ

 1週間ほど前の新聞に「私大の40%定員割れ」という報道があった。以下に抜粋してみる。

 今春の大学入試で入学者数が定員を下回り「定員割れ」となった4年制の私立大学は前年度より62校増え、過去最悪の222校に上った・・
 入学者が定員の70%に満たない大学数も前年度の52校から62校に増加。短大は定員割れ校の割合が51%(前年度42%)と半数を超えるなど、2007年度にも予想される進学希望者の「大学全入時代」を前に、大学の経営基盤がさらに悪化していることが明らかになった。

 少子化で18歳人口が減り続けているにもかかわらず、大学の定員はほぼ毎年増加し、92年度の35万6千人が本年度は44万人を突破したという。これでは、「大学が自分で自分の首を絞めている状況」だといわざるを得ない。しかも、時代にあった学部の新設で生き残りをかける大学が増える一方、不人気学部の廃止などスリム化が進んでいない大学の経営努力の不足も指摘されている。
 その影響は入学試験の難易度にも顕著に現れ、大学の学部別ランク表を見ると、難関私大からずっと並んでいる最後のほうにFランクというものが設けられいて、かなりの大学がそこに当てはめられている。私は何年か前に初めてこのFランクを見たとき何のことか分からなかったが、よく考えてみると Free のFであることが分かった。「フリーに入れる大学」ということだが、一応入学試験はあるものの、名前さえ忘れずに書いておけば合格できる大学ということだ。かつて日本の大学は、「入るのが難しくて出るのが簡単」と揶揄されたが、今では「入るのも出るのも簡単」な大学がひしめき合っている。
 そうした事情を高校生が知らぬはずもなく、さして将来の目標を持たない者たちでも願書さえ出せば合格してしまうものだから、勉強しようなどという気力は萎えてしまい、ひたすらバイトや遊びに明け暮れる。それでも大学生となってしまう姿を目の当たりにする後輩たちも、同じように何の努力も必要ないFランクの大学に易々と進学していく。こうして大学生とは名ばかりの、漢字もまともに読めない、講義の間も座って授業を聞くこともできない学生でキャンパスはあふれかえる・・。
 しかし、それはあくまでもランクの低い私大に関してのことで、難関私立大学、難関国公立大学の難しさは昔とさほど変わっていない。倍率も高いままだ。私の親戚の者で、かなり優秀な子で国立大の医学部を志望している子がいるが、運に恵まれず現在2浪中である。医学部、東大、京大などの最難関校の難しさは今でも厳しい。要するに、2極分化が進んでいるのだ。難しい大学はそのままで、簡単な大学がどんどん簡単になってしまい、それに引っ張られて中堅校がなくなりつつある。そういう時代状況を敏感に察知したのか、こんな雑誌が書店に何冊も並べられていた。


週刊朝日臨時増刊「一流校に入る」とプレジデント「Family」の2冊であるが、他にも同じような雑誌が何種類かあった。中高一貫の私立校を受験する家庭のための読み物のようであるが、東大に子供が今春合格した何組かの家族にインタビューしたりとか、難関中学が使っている教科書の特集とか、チラッと見ただけでも、ふーっとため息が出てしまった。私立中学受験生を預かる身としては、こうした雑誌にも目を通すのも仕事だとは思うが、それにしてもため息が出てしまう。
 子供の将来を思ってなのか、親の見栄なのか、こうした雑誌を見ていると、一流校に入学することに明確な意義があるのかどうか、ちょっと分からなくなってしまう。私には反面教師として、有意義な読み物であったが。

 
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子供科学相談室

 夏休み恒例のNHKラジオ『夏休みこども科学電話相談』が朝9時過ぎから始まっている。この番組は、「小中学生のみなさんの科学に対する疑問や興味にこたえる番組です。りっぱな(?)質問でなくてもかまいません。ふと、頭に浮かんだ謎、素朴な質問でも大丈夫です」という趣旨の元に、子供たちから寄せられた質問に、専門家やさしく丁寧に答えてくれる。もう10年以上は続いているだろう、夏休みになると楽しみに聞いている。動物・昆虫・天文宇宙・植物・野鳥・科学・心と体の分野に分けられていて、子供たちのさまざまな質問を聞いているだけでも楽しい。
 昨日は、ちょっと聞いたうちにも、なかなか面白い質問が連続して寄せられた。1つ目は、小6の女の子が「物の見え方は誰でもみな同じなんですか」という質問をした。それを聞いた瞬間は「当たり前だろう」とは思ったが、それにどう回答者が答えるか興味を持った。すると、「物の見え方は誰でも同じだと言ってもいいでしょう。みなと違う見え方をするなら、それは病気と言うことになります。でも、人それぞれ気持ちの向き方によって見方が違います。写真を見るときでも、仲のいい子の顔は一目見ただけで機嫌がいいかどうか分かるでしょう、そういう風に同じ物を見ても、それから受ける感じ方はそれぞれ違うのです」と答えた。うん、よく分かる解説だ。私は納得できたし、女の子も満足したようだった。しかし、こうした疑問を持つ子の女の子の観点は実にすばらしいと思った。誰もが当たり前だと思うことに疑問を感じる、すばらしいことだと思う。
 続いて2人目は男の子で、「つらいことや悲しいこと、うれしいことはよく覚えているのに、どうでもいいことはすぐに忘れてしまうのは何故ですか」と質問した。これにもすぐに、「印象に残らないからだろう」という考えが漠然と浮かんだ。これには、前とは別の回答者は丁寧に答えた。「脳の海馬と言うところにいろいろなことが記憶されるのですが、その前にある○○(聞き取れなかった)というところが記憶するべきことか忘れてしまってもいいことかを判断する働きをしているので、そこを刺激するように楽しみながら勉強していれば難しいことも覚えることができますよ」というようなことを言った。それこそ、私の記憶があいまいなので、細部は間違っているかもしれないが、そのときは本当に分かりやすい説明で、勉強って楽しいなあと思いながらやっていけば能率よく頭に入っていくんだな、と常日頃から、厳しい中にもゆとりを持って授業をしていかねばならないと思っている私の思いを支えてくれるような説明が聞けたことは、朝から気持ちがよかった。
 
 小中学生を対象にしているので、聞く者に理解しやすい説明を回答者が工夫しているのだろうが、本当によく分かった。私は2ヶ月ほど前に、茂木健一郎の『脳と仮想』という本を読んで、いったい何を言いたいのかがちんぷんかんぷんで困っただけに、脳の仕組みの明快な説明を聞けたのはうれしかった。茂木の書物を読んだのは、「物質である脳に、いかにして様々な主観的体験に満ちた私たちの心が宿るのかという」問題に、何らかの答えが与えられているのかという興味からだった。しかし、読了しても、『仮想』という文言に気をとられてしまって、まったく何も得るところがなかった。この『仮想』というのは、表題に英語で、The Brain and Imagination とあるから、imagination のことなんだろうが、それなら何故普通に『想像(力)』と表記しないのだろうか、と最初から最後まで気になって仕方がなかった。どうも、『現実』に対する概念を表しているようだが、明確な定義がなされていないのでよく分からない。そんな言葉としてよく分からないものを論の中心としているため、全体もなんだか分からないままだった。
 私の読解力に問題があるのかもしれないが、一度子供科学電話相談室に「物質である脳に、いかにして様々な主観的体験に満ちた私たちの心が宿るのですか?」と聞いてみたい気がする。どんな答えが返ってくるだろう。
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