じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「国際学力調査」の社説から

2007-12-05 11:56:08 | 教育
★ OECDによる国際学力調査に関する朝日新聞の社説を読んだ。

★ 今回の結果を踏まえて「学力の底上げと応用力」を指摘しているところは「なるほどなぁ」と思った。

★ ただ、そこから先の対策、提言のところでは月並みな物言いに終わっている。日本の教育の手詰まり感が伺える。

★ そもそも、日本の教育は何をめざしているのか。例えば、フィンランドは「起業家の育成」を国家的な教育目標に定めていると聞くが、日本の場合はどうか。

★ 明治時代は欧米列強に追いつくため、富国強兵が国家の目標であった。第二次世界大戦後は、高度経済成長をめざして急激な工業化が行われた。そうした時代、社会で求められたのは安定した労働力であり、教育は高度な基礎力を持つ規格化された労働者の育成を目標とした。勤勉が奨励され、組合側も「1人の10歩より10人の1歩」という主張をした。

★ しかし、時代や社会は大きく変わり、経済的には登りつめてしまった日本。急激な繁栄の対価は環境破壊や地方の疲弊、第一次産業の弱体化、歪な人口動態を課題として残した。

★ こうした社会状況の改善を目指した構造改革は、一部の超富裕層を生んだが、中流層の一部は没落し、高齢化とあいまって、貧困層を増大させている。経済的格差の増大は言われて久しいが、それが社会不安へと進行しつつあるように思える。

★ 成熟社会、脱工業化社会などと言われるが、ハイテクが主流となった社会の中で、製造業は安価な労働者を海外に求め、高い技術と均一な品質を誇った日本の労働力はかつての価値を失っている。一部の付加価値の高い知識や技術、ノウハウをもった人が社会を牽引し、その恩恵を社会が受けざるを得ない社会状況となっている。

★ こう考えると、エリート層の教育は尚一層求められるし、この層は比較的安定して再生産されているようにも思える。問題はそうしたエリートではない凡庸なる庶民の教育である。為政者は道徳を重視し、社会(国家)に従順で「足るを知る」生活で満足する人々を育てたいのであろうか。それならばそれで、学力の国際比較などで消沈する必要などないのだが。

★ 国家的な「教育」戦略の欠如が、日本の教育を不安定なものにしている。「新しい学力観」「生きる力」にしても徹しきればよかったのかもしれないが、政権の交代によってぐらつく程度のものなら、いらぬ混乱を招いただけだと言える。

★ 話は戻って、先の社説。「応用力が問われているのは、文科省もまたしかりである」と締めくくり具体的提案がないまま、お茶を濁している感がある。

★ 今の日本の教育改革に求められるのは、長期的には国家的な教育戦略であり、短期的には大学入試改革であると私は思う。かけ声は大きい割りにいざ自らのこととなると腰の重い日本の大学。東大、京大の大学入試のあり方が変わるだけでどれほど大きな改革が実現できるであろうか。象牙の塔の改革こそ特効薬であると思うのだが。
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