じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「教育基本条例」に痛快な批判

2011-10-13 11:27:03 | Weblog
★ 大阪府、大阪市が企図している「教育基本条例」について、今朝の朝日新聞「教育基本条例を問う」のコーナーで内田樹氏が痛烈に批判している。

★ 実にわかりやすくて痛快だ。

★ この条例案、政治が教育に積極的に介入するという、戦後の教育行政に真っ向から反旗を翻すような内容だ。特に注目されるのが人事の問題。

★ 今でも教育委員は首長の任命制だと思うのだが、それでも首長の意に沿わない教育委員は解任するとか。また校長はすべて公募するという。要するに首長を中心とするピラミッド型の上位下達組織を構築したいように受け取れる。

★ 橋下知事にすれば自らの思い通りに動かない教育現場にいら立ちがあるのだろうが、知事が目指す教育のありかたがはっきり見えてこない。

★ 教育行政は条件整備であり、方法論に過ぎない。どのような教育を目指すかによって戦略、戦術は異なってくるだろう。

★ 市場原理、競争原理と言えばサッチャー政権下のイギリスの教育改革やそれを日本に導入しようとした安倍内閣の教育改革への動きが記憶に新しい。橋下知事は同じようなことを考えているのだろうか。

★ 競争原理を導入すれば結局は足の引っ張り合いになり、「学力はむしろ下がる」という内田氏の意見に「なるほどなぁ」と思った。

★ 競争と言うのは人の能力を引き出しもするが、近視眼的になりやすい。教育の成果はもっと長期的なスパンで評価されるべきであろうし、そもそもその成果は見えにくく、また尺度によって評価も分かれるであろう。

★ この長期性、見えにくさが教育の奥深さでもあり、教育現場のぬるま湯的組織風土にもなっている。しかし、競争原理でこの組織風土を変えたとして、成果が見れるのはせいぜい学力テストの点数の伸びだけであろう。教育と言うものをこんなに矮小化してよいのだろうか。

★ 「学生が知的に『脱皮する』瞬間に立ち会うことがある」と述べる内田氏。教育者にとって実に気持ちのいい瞬間だ。知を開くというのはまさにこういくことなのだろう。

★ そしてこの「脱皮」が実に個人的で、不確実であることも内田氏は指摘する。だからこそ「数撃ちゃ当たる」作戦、教員、教育現場の多様性が必要だと指摘する。

★ 教育成果はどうすれば上がるのか。根本的には社会全体を変革しなければならないと私は考える。誰もが未来に希望をもち幸福感を感じるような社会、精神状態になればよい。他人の幸福のために努力ができるような気分になればよい。

★ 単なる「なかよし主義」ではなく、喜んで創造的に利他の想い・行動ができるようになれば、堕落も防げこの社会はずっと良いものになるだろう。そうならないのは、人間の欲望の為せる業だ。

★ ただこの分野は政治的には馴染みにくかろう。政治にできるのはせいぜいがスタート地点の平等性の確保への努力と敗者復活ができる社会システムの構築だろう。

★ 高度成長期、1人の10歩より、10人の1歩が尊ばれる時期があった。工業化を進めるには国民一人ひとりの力量をアップする必要があったから、このスローガンも時代にあっていた。

★ しかし、日本社会は物質的には豊かになり、いわゆる成熟社会となった。グローバル化の流れの中で、産業構造も変わった。少数のエリートが付加価値の高い知的成果を達成し、その恩恵で多くの人々が生活の糧を得る時代に変わってきているとも言える。

★ 単純作業はロボットに置きかわったり、賃金の安い海外生産に移行している。

★ 話は横道にそれた。政治家は、教育にかかわる人々の性向を理解すべきだ。彼らは実に人がよく、生徒の成長を自らの喜びとする人々だ。その人々と競争原理をなじませるには工夫が必要だ。

★ 教育成果を上げるには、教育者の意欲を高め、学習者の意欲を高めることが最も大切だと思う。それをカネや地位でつったり、更には権力で強制したりというのは、政治家の心のあさましさを見るような思いがする。
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