イエス・キリストはよこしまな奴隷は事物の体制の終結の時に最も厳しく罰せられることを告げられました(マタイ24:48~51)。イエスは、使徒たちの求めに応じて、神の王国の権能を行使するご自分の隣在のしるしにつて答えて来られましたが、今度はそのしるしの特徴についてさらに詳しく、三つの例え話しをし、説明されました。最初は「花婿を迎えに出た十人の処女」の内、「五人は愚かで、五人は思慮深い者」の例え話です。それぞれの例えの成就を見ることができるのは、1914年以降のイエスの隣在中に生きている人々です。次のようにマタイの福音書に記されています。
「「その時、天の王国は、自分のともしびを持って花婿を迎えに出た十人の処女のようになります。そのうち五人は愚かで、五人は思慮深い者でした。愚かな者たちは、自分のともしびを持ちましたが、油を携えておらず、一方、思慮深い者たちは、自分のともしびと共に、油を入れ物に入れて持って行きました。花婿が遅れている間に、彼女たちはみな頭を垂れて眠り込んでしまいました。真夜中に、「さあ、花婿だ!迎えに出なさい」という叫び声があがりました。そこでそれらの処女は、みな起きて、自分のともしびを整えました。愚かな者たちは思慮深い者たちに言いました、「あなた方の油を分けてください。わたしたちのともしびはいまにも消えそうですから」。思慮深い者たちはこう答えました。「わたしたちとあなた方に足りるほどはないかも知れません。むしろ、油を売る者たちのところに行って、自分のために買いなさい」。彼女たちが買いに行っている間に花婿が到着し、用意のできていた処女たちは、婚宴のために彼と共に中に入りました。それから戸を閉められたのです。後に、残りの処女たちが来て、「だんな様、だんな様、開けてください」と言いました。彼(花婿)は答えて言いました、「あなた方に真実を言いますが、わたしはあなた方を知りません」。
「それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、その日(イエスの隣在の日)もその時刻も知らないからです」」(マタイ25:1~13)。
「天の王国は、十人の処女のようになります」というイエスの表現は、天の王国を受け継ぐ人の半数が愚かな者で、半数が思慮深い者であるという意味ではありません。むしろイエスは、天の王国に関連し、これこれの特徴がある、あるいは天の王国に関連した物事はこのようになると言っておられるのです。
この例えの「十人の処女」とは、天の王国・神の王国に入る見込みのある真のクリスチャン、もしくは見込みがあると自称するクリスチャンすべてを表しています。真のクリスチャン会衆が、復活され、栄光をお受けになった花婿イエス・キリストの花嫁ととして迎えられるという約束を得たのは、西暦33年のペンテコステの時でした。しかしその婚礼は、将来のいつか天でおこなわれることになっていました。
イエスの例えの中で、この十人の処女は花婿を迎えるため、また結婚式の行列に加わる目的で出かけて行きました。花婿が到着する時、処女たちはともしびで行列の進む道を照らします。そのようにして処女たちは、花婿がよういしておいた家に花嫁を連れて行く際に花婿に敬意を表すのです。しかし、イエスの例え話では、「愚かな者たちは自分のともしびを持ちましたが、油を携えておらず、一方、思慮深い者たちは、自分のtもしびと共に、油を入れ物に入れて持って行きました。花婿が遅れている間に、彼女たちはみな頭を垂れて眠り込んでしまいました」。
花婿がかなり遅れていることは、天の王国政府から支配する王としてのイエス・キリストの隣在が遠い将来であることを示していました。イエス・キリストは1914年に天の王国政府の王に就かれました。しかし、それまでの長い夜の間に、処女たちはみな眠り込んでしまいます。しかし、彼女たちはこのことでとがめられていません。愚かな処女たちがとがめられているのは、油を入れ物に入れて持って行かなかったことです。そのことは上記の聖句をお読み下されば分かります。
この「油」とは、世を照らす者である真のクリスチャンを輝かせ続けるものを象徴しています。これは真のクリスチャンがしっかり把握している、霊感を受けて書かれた神の言葉であり、またその言葉を彼らが理解できるように助ける聖霊でもあります。この霊的な油により、思慮深い処女たちは婚宴への行列が続く間、花婿を歓迎する光を輝かせることができます。しかし愚かな処女たちは、自分自身の中、つまり自分の入れ物の中に、必要な霊的な油・神のみ言葉の真理を持っていません。そこでイエスは何が起きるをこのように描写されました。
愚かな処女たちが、油を買いに言っている間に、花婿が到着しますが、彼女たちが戻った時には戸は閉められていました。彼女たちは「だんな様、だんな様、開けてください」と懇願しましたが、「わたしはあなた方を知らない」と閉め出されました。思慮深い処女は真のクリスチャンでなる思慮深い奴隷級であり、世に光を輝かせる特権に目覚めます。愚かな処女たちで表されている自称クリスチャンたちは、定めの時が来ても婚宴のへの扉は開かれませんので、事物の体制の滅びの前に滅ぼされます(啓示18章)。結論として、イエスは「ずっと見張っていなさい」と教えられました。イエスの教えにずっと目覚めていて、霊的な教えに基づき用意の出来ていることを示す必要があるのです。真のクリスチャンはエホバのご意志を守り行い、用意の出来ていることを示し続けています。
向日葵や 語らい続く 温かさ 今日の一句
裏庭の「オミナエシにヒョウ紋蝶」