皆様方も、人の命と死について考えられ、人は死ぬとどうなるのだろうか、と考えられたことがあるに違いありません。また私たちはこの事物の体制下では、何人も死に至ることを知っています。今日、紹介する伝道の書9章の前半には、私たちが知っている通り、義なる者も、邪悪な者も、善良な者にも同じ一つの終局・死があることを教えています(伝道の書9:2)。また、生きている者は、自分が死ぬことを知っていること、死んだ者には何の意識もなく、業も企ても知識も知恵もないことを教えています(伝道の書9:5,10)。さらに、どんな時も清く生き、命の日の限り、自分の愛する妻と共に命を見よ、と諭しています(伝道の書9:8、9)。
伝道の書9章の前半には、次のように記されています。
「わたし(ソロモン王)はすべてのことにを心に留めたからである。それはこのすべてのことを探り出すためであった。すなわち、義なる者と賢い者と彼らの業とは、まことの神(エホバ)の手にあるということを。人間は、すべて自分よりも前にあった愛にも憎しみにも気づいていない。すべての者の得ることはすべて同じである。義なる者にも、邪悪な者にも清い者にも清くない者にも、また犠牲をささげる者にも犠牲を捧げない者にも、一つの終局(死)がある。善良な者も罪人も同じであり、誓う者も、だれであれ誓言を恐れた者と同じである。これが、日の下で行われたすべてのことにおいて災いとなるものである。すなわち、すべてのものに一つの終局(死)があるために、人の子らの心もまた、悪に満ちているのである。そして生きている間、彼らの心には狂気があり、その後 - 死んだ者たちのもとへ。
すべての生きている者と結び合わされている者にはだれであれ確信がある。生きている犬は死んだライオンよりもましだからである。生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし、死んだ者には何の意識もなく、彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら、彼らの記憶は忘れ去られたからである。また、その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ、彼らは日の下で行われるどんなことにも、定めのない時にいたるまでももはや何の分も持たない。
行って、歓びをもってあなたの食物を食べ、良い心をもってあなたのぶどう酒を飲め、まことの神(エホバ)は既にあなたの業に楽しみを見いだされたからである。どんな時もあなたの衣は白くあるべきであり、あなたの頭に油を絶やしてはならない。日の下で神(エホバ)があなたにお与えになったのあなたのむなしい命の日の限り、そのむなしい日の限り、自分の愛する妻と共に命を見よ。それが、命と、あなたが日の下で骨折って働いているその骨折りとにおける、あなたの分だからである。あなたの手のなし得るすべてのことを力の限りを尽くして行なえ。シエオル(人類共通の墓)、すなわちあなたの行こうとしている場所には、業も企ても知識も知恵もないからである」(伝道の書9:1~10)。
伝道の書は、私たちが知っている通り、「生きている者は自分が死ぬことを知っている」と明記し、「死んだ者には何の意識もない」と、真理を明らかにしています。ですから、多くの宗教が死後の世界の天国や地獄があるとか、全ての人が天国に行くと、教えているのは単なる人間の空想であり偽りです。
伝道の書は、誰にも同じ一つの終局・死があることを明らかにし、事物の体制下でも歓びをもって生きるように、特にあなたの良い心の業をまことの神エホバが見いだされたので、そうするように勧めています。なおかつ、清い生き方、善良な生き方をしなければならない、と命じています。また事物の体制下でも命の日の限り、自分の愛する妻と共に命を見よ、と勧めています。結婚の創始者のエホバ神は、生涯に亘って配偶者と共に生き、手の業を存分に用いるように促しています(創世記2:24)。
聖書は人類はアダムの犯したエホバ神に対する罪の結果、その罪と死を受け継いでいることを明らかにし、その罪と死からの解放のためにイエスが贖いの死を遂げてくださり、永遠の命を持てるようにしてくださっていることを明らかにしています(ローマ5:12.マタイ20:28.ヨハネ3:16)。このイエスの贖いの死の適用は、神の王国によって邪悪な者が地上から処断され、この地上に義の宿る楽園が回復された以降となります(箴言2:22.ペテロ第二3:10~13.啓示21:4)。エホバのご意志を学び守り行う義なる者は、回復される義の宿る地上の楽園で自分の愛する妻と共に永遠の命を見ることができるようになるのです。聖書は神の王国による、素晴らしい保証された希望を与えてくれます(マタイ4:23;24:14.ルカ4:43.啓示22:1,2)。
里山の 雲海の滝 美しや 今日の一句
道端に咲いている「トケイソウ」