神エホバは、ご自分の預言者イザヤに、声の限りに叫び、ご自分の民の反抗と罪を告げるように指示され、イザヤは勇気を出しその務めを果たしました(イザヤ58:1)。
イザヤの時代の神エホバの契約下のイスラエル人は、表向きは神エホバを求め、義にかなった神エホバの導きに喜びを言い表していました。神エホバはイザヤを通して次のように言われました。
「「彼ら(イスラエル人)は日ごとに私(エホバ)に導きを求め、私(エホバ)の道を知ることの喜びを表す。正しいことを行った国民であるかのように。自分たちの神(エホバ)の公正を捨てなかったかのように。正しく裁くように私(エホバ)に求め、神(エホバ)に近づくことを喜んでこう言う」」(イザヤ58:2)。
当時の神エホバの民イスラエル人が、神エホバの道に対して抱いていると唱えるこの喜びは、正直で純粋なものだったのでしょうか。いいえ、それは違います。当時のイスラエル人は「正しいことを行った国民であるかのよう」、また神エホバの公正を捨てなったかのようでしたが、それらは表面的なものでした。当時のイスラエル人は、神エホバの教えを正しいことも、公正のどちらも捨てていたのです。
この状況は、後に預言者エゼキエルに神エホバが啓示された状況によく似ています。イスラエル人は、互いに、「どうか、来て欲しい。エホバから出る言葉がどんなものか聞きなさい」と、言い合っていました。しかし、神エホバは預言者エゼキエルを通し、その人々の不誠実さを次のように警告なさいました。「彼らは・・・あなたのもとに入ってくるであろう。彼らは確かにあなたの言葉を聞くが、これを行わないであろう。彼らは口でみだらな欲望を言い表し、その心は不当な利得を慕って行くからである。そして、見よ、あなたは彼らにとって官能的な愛の歌のようであり、声がきれいで、上手に弦楽器を奏でる者のようだ。そして彼らは確かにあなたの言葉を聞くが、これを行なう者は誰もいない」(エゼキエル33:30~32)。イザヤと同時代のイスラエル人は、常にエホバを求め、そのご意志を行っていると主張しましたが、神エホバの教えに従わず、行いもしませんでした。神エホバご自身がそのことをイザヤを通し暴かれました。神エホバの目にはすべてが明らかなのです。
小さな瓶 メダカキョキョロ 道の駅 今日の一句
玄関の「活け花」